幻にされる天安門大虐殺(その2)


                            中宮 崇


共産主義大好き学者のあがき


 「天安門事件では虐殺など無かった」とまで言い切る東洋学園大学教授、朱建栄。彼は、共産主義を愛するあまり、資本主義を不当に貶め、軍事的脅迫を容認し、さらには自ら気付かないうちに、女性差別発言まで行っている。


偉大なる共産主義!


 中国における社会主義の失敗は、誰の目にも明らかである。朱のような中国の提灯持ちでさえも、さすがにそれは認めざるをえないし、現に著書の中でも、中国における改革の必要性までは否定していない。

 しかし、朱が社会主義に対する幻想を未だに捨て切れていないことも事実である。未練がましく、実にセコイ書き方で、できるだけ資本主義を貶め、社会主義を少しでも良いものに見せようとしている。

 例えばこれ。


   もしその実験(一国二制度)が成功した場合、大半の第三世
   界、今の社会主義体制の国家、および構造的な危機問題
   に直面する多くの資本主義国家にとって、「融合論」的なア
   プローチに一段と拍車がかかることになろう。


 経済的にも政治的にも混乱を極める第三世界や、人権を抑圧し侵略戦争を行い、国民を虐殺するような中国を始めとする社会主義国については、さらっと流しておいて、資本主義国についてはわざわざ「構造的な危機問題に直面する」などという枕詞をくっつけるこのセコサは、一体何であろう?

 大体、その「構造的な危機問題」などというものが具体的に何なのか、もったいぶらずに言ったらどうだ?

 もちろん、資本主義国家に色々と問題が存在することは間違いない。しかし、だからと言って朱のように「資本主義国も、社会主義国を見習いなさいね」などと言うことにはなるまい。我田引水もいいところだ。

 また朱は、社会主義革命についても、呆れた記述をしている。


   1917年、ソビエト・ロシアは内部から資本主義に打ち勝っ
   て社会主義体制を樹立し


 皇帝による絶対専制国家であったロシアで起きた革命のことを、「内部から資本主義に打ち勝って」などとは、ものも言い様である。

 社会主義革命の理論においては革命は、高度に発達した資本主義国家において発生するものであるとされているのであるが、帝政ロシアが果たして「高度な資本主義国家」なのであろうか?資本主義といえば、戦国期の日本だって「資本主義」と言えてしまえるわけであるが、朱は「戦国時代にも社会主義革命は起こり得た」などと考えているのであろうか?

 このように、一般に言う「資本主義」と、社会主義革命の必要条件としての「資本主義」とでは、言葉は同じでも意味するところは全く異なるのであるが、朱は読者の無知に付け込んで、このような戯言を堂々と書いているのだ。

 また、第二次世界大戦後に東ヨーロッパの国々に林立した社会主義政権は、ソ連軍の武力を背景として強引に作られたものであり、現にそれに対する国民的な抵抗も何度も発生しているわけであるが、朱はそういった事実を隠蔽するために、「アプローチ」なるアカデミックな用語を用いることによって、読者の目をくらまそうとしている。


   また、戦後、東欧では内外両面のアプローチで、資本主義
   に代わる社会主義の体制が打ち立てられた。


 朱の言う「内外両面のアプローチ」なるものはつまり、「内」の秘密警察と、「外」のソ連軍による国民への弾圧のことなのであるが、「アプローチ」などと言う言葉を使われると何んだか、東欧の国民が自主的に、資本主義に嫌気がさして社会主義革命を起こしたように思えてしまう。さすがに学者ともなると、情報操作の手口も高級である。


中国学者の女性差別


 朱は、どうやら女性差別主義者であるようだ。イギリスのサッチャー元首相について、なぜか「首相」という肩書きを使わずに、以下のように書いている。


   サッチャー夫人は、香港、九龍、新界に関する3つの条約の
   合法性を強調し、暗に97年以後の条約延長、もしくは実質
   的支配権の存続を求めた。


 他のところではきちんと「首相」とか「元首相」という肩書きを用いているのであるが、なぜかここでは、ことさら「夫人」などと言っている。

 実はこの部分は、サッチャー首相をできるだけ低く見せようとしているのである。その過程において、ついつい朱は、自らの女性差別思想をあらわにしてしまったものと思われる。

 朱のサッチャー攻撃は更に続く。82年に訪中して香港問題について交渉を行ったサッチャーの姿を、わざわざ以下のように書いている。


   「鉄の女」と呼ばれるサッチャー首相はそれを聞いて内心の
   ショックを隠せず、人民大会堂から出て階段を下りた際、つ
   い足が滑って転んだ。


 データの出所も示さず、大切なことについてはことさら書かずに避けているくせに、こういうくだらないことだけよくもまあ、ことさら取り上げて書く気になるものである。このような人間が大学教授でいられるとは、まったく困ったものである。

 更には、こんなことまで書いている。


   サッチャー前首相は回想録で、「自分は香港を植民地とし
   て思っていなかった」と図に乗って語り


 私から見れば、図に乗っているのは朱の方であるのだが、それはさて置き、私もサッチャー回想録は読んだが、彼女がそんな事を書いていたという記憶はない。「サッチャーは滑って転んだ」などという下らぬことを書くスペースがあったら、せめてどこから引用したものなのかぐらい書いたらどうだ?


脅迫もまた良し


 朱は、中国による諸外国への軍事的脅迫を容認している。少なくとも、台湾への脅迫は認めている。昨年発生した、中国が台湾近海へミサイルをぶち込んで威嚇した事件について、こんなことを言っている。


   相手が独立などの極端な選択をした場合、こちらも極端な
   選択をする以外に道はない、という決意を示すことによっ
   て、逆に双方が相手のシグナルの読み間違いを回避して
   本当の戦争は不必要とするのである。


 確かに、朱の言うことにも一理はある。彼がこういう発言をすること自体は問題はない。しかし、こういう発言をする朱を放置しておく人権派や市民団体は、ダブル・スタンダードのそしりを免れる事はできまい。彼等は、ペルー軍によるMRTAへの威嚇は批判しても、中国が台湾にミサイルを叩き込むことには目をつぶる方針であるようだ。


民主化への敵対心


 朱は、香港が民主化することを快く思っていない。その一方で、中国による香港の民主化運動の妨害を正当化している。


   96年10月、中国主導で400人の推薦委員会が設立さ
   れ、11月に董建華初代行政長官が、12月末には臨時立法
   会の60人のメンバーが選出された。両者の選出過程に、
   いわゆる民主派はわずか数十人から150人足らずの抗議
   集会しか開けなかった。


 私なら、返還後の、中国当局による弾圧を恐れて、民主派の集会には参加しないことであろう。民主派がわずかの人数しか動員できなかった背景には、そういう心理が働いているはずなのであるが、朱はそれを全く無視している。

 ちなみに「臨時立法会」とは、返還後の香港の立法機能を担う、一種の議会なのであるが、その選出にあたっては中国の恣意的な意向が強く働いている。現に、立法評議会選挙で圧勝した民主派は、ことごとくメンバーからはずされ、親中国派の人間で埋められている。

 朱はそういう事実もわざと隠し、臨時立法会について、できるだけ「民主的なものだ」と印象付けるために、こんなことまで書いている。


   最後に選出された(臨時立法会の)60人のメンバーのうち、
   33名は現在の立法評議会の議員であり、現行の機構との
   継承関係もある程度できた。


 その「33名」からは、前述のように実は、ことごとく民主派が排除されているわけであるが、卑劣なる朱は、そのことについては完全に口をつぐんでいる。

 また、民主化を快く思わない中国から読者の目を逸らし、できるだけイギリスを悪者にしたいのか、こんなことまで書いている。


   返還前に中国が香港内部に影響力を伸ばすことを警戒
   し、そのような選挙(臨時立法会選挙と初代行政長官選
   挙)の可能性に拒否反応を示したのはイギリス側である背景
   を忘れてはならない。


 ここまで来ると、朱の悪質な情報操作行為は誰の目にも明らかであろう。民主派を排除するような中国当局の意志が濃厚に働いている、「作られた」形ばかりの選挙に拒否反応を示すのは、イギリスでなくても当然のことである。

 中国は、香港に既にある、民主派が圧倒的勢力を誇る「立法評議会」を返還後に解散し、返還後には、その代わりとなる機関として「臨時立法会」なるものを作り上げることを表明している。そのメンバーは、現在立法評議会で主流である民主派をほとんど完全に排除し、中国の手先のような人間ばかりで占められている。そんなものに拒否反応を示さないのは、朱のような民主化弾圧者ぐらいであろう。


 朱は、その著書を以下のように締めくくっている。


   香港の将来についてのもう一つの懸念は、アメリカなどが香
   港問題について勝手で無責任な発言をすることである。


 朱にはどうやら、中国による香港への弾圧よりも、アメリカの発言の方がよっぽど香港にとって害になると思えるようである。常人には全く理解し難い考えだ。

 また、恥ずかしげもなくこんな事も書いている。


   重要なのは明るい部分と暗い部分、長所と短所の双方を客
   観的に捉えることだ。


 御自身のお考えのどのあたりが「客観的」なのであるか、是非とも教えて頂きたいものだが、それよりも不思議なのは、こういう有名「中国学者」を、日本の人権派や市民団体、「自虐史観派」が黙って放っておいている点である。「南京大虐殺など無かった」と言う発言は圧殺しても、「天安門大虐殺など無かった」という発言は容認するということなのであろうか。まあ、連中なんて、所詮その程度の下らんやつらなのであろう。


                              なかみや たかし・本誌編集委員


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