『週金』を撃つ!−10

言論弾圧台頭の時代


                            中宮 崇


敵に対する言論弾圧なら大歓迎!


 朝日新聞や市民運動、人権派、進歩的文化人などと言う連中は、基本的に弾圧者である。特に、自分たちに敵対する勢力に対しては、その弾圧の手を緩めようとはしない。

 普段は「言論の自由!」などと叫び、警察や裁判所に対しては、自分たちの暴力的破壊行動を無視しておいて「弾圧者!」と罵る。そういった連中が、自分たちの気に入らない相手に対しては、堂々と弾圧を加え、それを「正義の鉄拳」と言って憚らない。

 本誌でも以前取り上げた、元ニュースキャスターの櫻井よしこに対する弾圧事件が良い例である。彼女の口を封じようとする市民団体や人権派は、講演会の主催者に圧力をかけ、彼女の生活の糧を奪った。そして朝日や週刊金曜日を始めとする嘘つきメディア連中は、その行為を暗に支持し、それゆえ報道しようとしなかった。当然であろう。なにしろそんな馬鹿な事件のことを市民が知ったら、人権派や市民運動が批難の的になるのは目にみえているのであるから。

 この件に関してもそうであるが、連中は、「抗議を申し入れただけであって、圧力をかけたわけではない」などとうそぶく。今月発生した、朝日による言論弾圧事件においても、連中は同様の言い訳をしている。

 しかし、その「抗議」とやらを行う勢力の背景には、「恐怖」や「トラブル」という言葉が控えているのだということを忘れてはならない。朝日新聞が、「こちらの言うことを聞かなければ、遺憾ながら、あなたの御名前を公表せざるをえない」と言えば、それはもはや単なる「抗議」などと言える代物ではないのだ。

 更に恐ろしいのは、一度でもそういうことが行われれば、抗議された側が自主的に、自らを規制してしまう、つまり萎縮してしまうということだ。櫻井よしこも、トラブルの発生を心配する心理が働いたため、講演の依頼が減少していると言う。

 今回の、朝日によるプロバイダー脅迫事件においても、「トラブルの発生を未然に防ぐ」という心理が働いた結果、ちょっとでも問題になりそうなホームページが次々と「自主的に」閉鎖されていっている。

 朝日や市民団体のような連中が、自らの主張することを本気で信じているのであれば、これからはたとえ右翼や政治家から「抗議」されようとも、「弾圧だ!」とか「言論の自由の侵害だ!」などとは決して言わないことだ。ところが私の記憶では、連中は、櫻井よしこ弾圧事件の前も後も、その種の発言を繰り返しているようである。まあいくらなんでも、そこまで卑劣で自己中心的な人間がこの世に存在するとは思えないから、たぶん私の記憶違いなのであろう。

 ところで、「市民の声を聞け!」などという自分の主張を実行しようともせずに本誌による「市民の声」を完全に無視した大嘘つき、筑紫哲也が経営参加している雑誌『週刊金曜日』であるが、神戸中学生殺人事件における容疑者A少年の顔写真掲載問題について、自らの味方である市民団体や朝日による弾圧体質を擁護するための、


   「顔写真に前代未聞の拒否反応
      裏目に出た新潮社の打算」
            亀井 淳


なる愚劣な記事を7/11号に掲載している。

 大体、書き出しからして犯罪的だ。


   土曜の夜の驚愕―――神戸の学童殺害容疑者は中学三年
   生少年―――は、いわば戦後50年の虚構を一挙にあぶり
   出す衝撃として、しばし粛然とする時間を市民にもマスコミ
   にも共有させたのではなかったか。


 阿呆ぬかせ。何が「戦後50年の虚構を一挙にあぶり出す」だ。その「虚構」とやらを作り出し、今も維持しようとしているのは、おまえたちのような「市民運動」や「人権」を騙る連中であろう。他人事のように言うな。

 また、「市民主義」の仮面を被ったこの「エリート主義」の詐欺師は、こう言って市民を馬鹿にする。


   須磨警察署の前でテレビ記者の後ろにひしめき、ピースサ
   インをするワルがきどもにしても


 全く恐れ入った。亀井は、よっぽど事情通らしい。なにしろ、テレビに映った少年たちを「ワルがき」と言い切れてしまうほど、かれらの悪行の数々を知っているらしいのだから。ひょっとしたら亀井は、その少年たち全てと知り合いなのかもしれない。

 まあ、そういう皮肉は置いておいて、亀井が少年たちが他のところでしているで悪行を知って「ワルがき」などと言い放ったのではないということは明らかであるから、「ピースサインをする」という行為だけを見て「ワルがき」と決め付けたのであろう。

 つまり亀井は、「容疑者が逮捕された時に、集まってきてピースサインをするような少年はワルがきなのだ」と考えているのである。

 人間悲しいもので、ほとんどの人間は、よっぽど自分にとって切実な問題以外は、しょせん他人事なのである。そういう普通のメンタリティーの少年たちを「ワルがき」などと罵倒する亀井はきっと、インドなんかで墜落した航空機の犠牲者たちのためにも涙を流す、人格者なのであろう。

 (到底有りそうにないことではあるが)亀井がご立派な人格者だとしても、それを他人にまで押し付けようとするその態度は、「この非常時に、きさまはそれでも日本人か!」などと叫んでいた戦前の軍国主義者達と、何ら変わらない。これだけを見ても、朝日や市民運動、人権派などと言う連中が、実は意外なことに、日本軍国主義の正当なる後継者だということが分かるであろう。

 さて、その軍国主義者亀井は、容疑者のA少年の顔写真を掲載した雑誌『フォーカス』に対する言論弾圧を正当化する。

 フォーカスの行為に対しては、私はおおいに憤りを感じてはいるが、だからと言って、「言論弾圧してしまえ!」などという亀井のようなファシスト連中には、全く持って同意できない。

 さて、今回のフォーカスの行為に対しては、書店などが販売のボイコットを行うという異例の事態になったのであるが、それについて亀井はこう言う。


   販売網による出版物のボイコットは、言論・表現の自由に対
   する抑圧であるという批判や懸念も一部であったが、この
   ケースはやむを得なかったろう。中止の判断はそれぞれの
   販売機関が自主的に行ったようであり、二大取次(東販・日
   販)など流通機構がストップをかけたわけではない。


 何を寝ぼけたことを言っているのだ?流通がストップをかけたらいけないが、販売機関がストップをかけるのは良いとは、一体どういう論理であろう。市民からしてみれば、どちらがストップをかけようが、「本が手に入らない」ということでは全く同じではないか。

 亀井が言うような、こんなふざけた妄言がまかり通るのであれば連中は、気に入らない本があったら書店に「どうか売らないでください」などとやりかねない。

 また、亀井は販売と流通にしか触れずに故意に無視しているが、出版についてはどうか。つまり、出版社が「これは出版を止めよう」などと言うのは良いのであろうか?よいと考えているのであろう。何しろ朝日や週金は、自分たちの気に入らない意見を排除するというのを日常の業務としているのであるから。また、出版社に対して、「あんなやつの本を出版するなんてけしからん!すぐに出版を中止せよ!」などと圧力をかけることもやっていることだし。

 だいたい、「中止の判断はそれぞれの販売機関が自主的に行った」などと言うが、亀井は、「書店が急に人権意識に目覚めて、個別に中止を判断したのだ」などと本気で考えているのか?書店を見てみろ。どこも人権侵害本であふれているではないか。

 今回の販売店の判断には、「トラブルを避けたかった」という意識が働いていたに決まっているのだ。そしてそういった意識を植え付けたのは、朝日や週金、人権派や市民団体による、これまでの絶え間ない言論破壊活動の成果による。特に最近の、櫻井よしこ弾圧事件が書店主の脳裏に浮かんでいたことは、間違いなかろう。

 亀井は更に、こうまで言い切る。


   その(ボイコットの)背景には水準が上がりつつある市民社会
   の人権意識があったのだ。


 書店が勝手に販売を中止したため、市民はフォーカスを買えなくなった。市民の多くは、フォーカスを買いたかったのだ。現に、販売を決定した書店からはフォーカスは瞬く間に消え、その後は違法コピーが広く流通した。

 市民が欲しがるものを、書店が勝手に奪っておいて、何が「水準が上がりつつある市民社会の人権意識」だ。亀井のようなエリート意識に凝り固まった連中にとっては、書店主は「市民」でも、消費者は「市民」ではないのであろう。


 今回の事件は、日本の将来に禍根を残した。暴論を言わせてもらえば、A少年の顔写真の公開問題なんて、A少年ただひとりの権利が侵害されたに過ぎない。せいぜい、これから起こるかもしれない凶悪事件にかかわるであろう、ごく少数の特殊な少年少女達の権利侵害の可能性が残されたに過ぎないのだ。

 それに対して、朝日や週金、市民運動や人権派による言論弾圧行為及び、その容認思想は、日本人全ての権利が、いつでも侵害される(現に侵害された)という可能性を残すことになった。

 今回の事件に味をしめた連中は、これからは何のはばかりもなく、自分の気に入らない相手を「抗議」の名の下に弾圧することであろう。そうして「場の空気」を作り出せば、後は何もする必要がないのであるから。抗議を恐れ、「自主規制」が始まり、自分たちの手を汚さなくても勝手に弾圧が行われるからだ。

 すでにインターネット上では、そういった状況が現出し、毎日ホームページが消えていっている。

 もはや連中のような弾圧者達に対抗するためには、我々も同様の手段を用いざるをえないのであろうか?それでは「ハルマゲドン」の始まりではないか。ナチスに対抗するに、ナチスの手を用いるのが望ましいとはいえないのと同様に、連中のような弾圧者に対抗するに、連中の汚い手口を用いなければならないのだとすれば、実にやりきれないことである。


                              なかみや たかし・本誌編集委員


前のページへ