嘘つき『朝日』の大冒険−6

  ――― 僕ら怠惰な天上人!―――


                            中宮 崇


新聞本来の仕事もせずに市民を貶め、嘘つき放題!


 マスメディアの機能とは何であろうか。なぜ、新聞社という組織や、新聞記者という職業が成り立つのであろうか。

 我々は、たとえ日々日常の雑事に追われることが無かったとしても、世界中の全てのことについて知り、調べ、分析する事はできない。そういった、普通の個々人の力ではどうしようもないことを、専門的に取材、分析して市民に伝えるのが、新聞の機能であり、新聞記者の仕事であると言える。

 世の中に様々に存在する問題をピックアップし、ホコリやドロを払って磨き上げ、我々に差し出し、「さあ、こいつをどうしたら良い?」、そう問い掛けるのが、新聞の役割ではないか?

 (日本のマスコミの多くがそうであるように)単に日々発生する事件や事故を伝えるだけなら、もはや新聞なんて必要ない。インターネットが普及した現在においては特にそうであるが、そんなことだけなら、新聞記者でなくてもできる。市民が身近に発生した事件を、自分なりの視点でホームページで発信すれば済むことだ。

 つまり、新聞の存在価値は、「事件が発生したということを伝える」ことにあるのではなく、「この問題を何とかしないと、何か事件が発生するかもしれませんよ」と、市民の注意を喚起することにあるのだ。

 こういうふうに考えて見ると、日本の新聞で存在価値のあるところは、ほとんどないということが分かる。東京湾でタンカーが事故を起こしたことは、どこの新聞社も報道した。しかし、事故発生以前に、東京湾の海上交通の混雑ぶりを指摘し、その危険性を訴えかけた新聞があるか?「東京湾の水深の浅さを、浚渫(しゅんせつ)などによって何とかしろ!」と言っていた新聞があるか?「早いところ、タンカーの底を二重底にすべきだ」と主張した新聞があるか?ほとんどあるまい。

 そういうことを新聞が主張し、市民を動かすことができていたのなら、東京湾でタンカーが座礁することはなかったであろう。たとえ座礁したとしても、二重底のタンカーだったなら、重油流出はなかったはずだ。

 この例を見ても分かるように、事件・事故が発生するのはほとんどの場合、市民が問題の存在に関心を持たずに、何ら対策を講じようともしなかったためだ。

 メディアや進歩的文化人などには、ここまでしか見えない。そして、そこだけを批判する。つまり、「市民が蒙昧だから、沖縄には米軍基地が残り、環境は破壊され、第三世界の貧困が無くならないのだ!」というわけだ。

 しかし、毎日の生活に追われる普通の市民に、「あらゆる問題について関心を持て!」などと居丈高に主張して見下すのは、なんとも敖慢な、そして馬鹿げた態度である。

 確かに市民は、多くの問題について関心を持たず、それどころか場合によっては、問題の存在自体さえ知らず、それゆえ何ら対策を講じようとはしない。

 しかしそのことを批判するのは、生まれてからこのかた、親に義務教育さえも受けさせてもらえなかった青年に対して、「おまえはなぜ、相対性理論を理解できないのだ!」と叱りつけるようなものである。

 青年が相対性理論を理解できないのは、彼が当然の権利として受けられるはずの教育を、親が受けさせなかったからであり、全ての責任は、無責任な親にある。「たとえ義務教育を受けさせていたとしても、青年が相対性理論を理解できたかどうかは分からないではないか」などと言う批判は、1グラムの正当性もない。そういう発言をする人間は、青年の可能性を否定する、冷血漢である。

 同じことが、市民と新聞との関係についても言える。市民が社会問題について関心を持とうとしない、あるいはそもそも知らない、何ら対策を講じようとしないのは、新聞が、その当然やらなければならない仕事を怠っているからだ。つまり、市民が無関心なことの責任は、新聞を始めとするメディアにあるのだ。朝日のような市民を馬鹿にする冷血漢は、こう思っているかもしれない。「たとえ俺達が、怠惰から抜け出してきちんと仕事をしても、市民が問題に取り組むとは限らないではないか」と。

 ところがそのメディアは、何らかの事件が発生したら、自分たちの今までの怠惰な態度を反省することも無く、「市民の無関心」を嘆いて見せ、場合によってはあろうことか、「市民の無関心が、事件を発生させたのだ」とまで言い放つ。「盗人猛々しい」とは、まさしくこの事だ。

 同様のことは、今回の「神戸中学生殺人事件(俗称:神戸小学生殺人事件)」についても言える。市民を見下すエリート集団、朝日新聞社は、7月16日朝刊の社説において例のごとく、「盗人猛々し」さを発揮した。題名は、


   「事件の真相を探り続けよう」


なる、全く持って噴飯ものの表題。朝日があと何ヶ月、「事件の真相を探り続け」るのか、今からカウントしておくとよい。

 そういえば、つい最近解決したばかりの「ペルー大使公邸人質事件」も、朝日を始めとするメディアは「日本が狙われた理由を探り続けよう」などと、全く不当な阿呆なことを言いながら、日本の援助の問題や、ペルーの貧困の問題を扱っているところをとんと見たことがないが。

 さて、社説の内容に入って行こう。

 容疑者の少年は先日、兵庫県警によって「通り魔容疑」で再逮捕された。これは、拘留期限の20日を過ぎたためだ。このことについて、朝日はなんとも馬鹿なことを言っている。


   今回の再逮捕も、少年法の主旨からは決して好ましいこと
   ではない。
   しかし、行きずりの人間を殺傷するという事件は、男児殺害
   に劣らず凶悪な犯罪である。一連の事件は動機面などでつ
   ながっている可能性も大きい。真相に迫るには、再逮捕も
   やむを得まい。


 「好ましいことではない」、しかし「やむを得まい」とは、朝日の無責任さにも呆れさせられる。ならば、朝日が「海外派兵」とまで曲解しているPKO派遣についても、「好ましいことではない」、しかし「やむを得まい」とは言えないのであろうか?自分の都合の悪いことについては、こういう便利な論理は適用しないということか?

 実際、朝日を始めとする連中のこういった考えは、従軍慰安婦問題について、よく発露されている。

 例えば、本誌でも何度も触れている、櫻井よしこ弾圧事件。これは、「従軍慰安婦が強制連行されたという証拠はない」と発言した櫻井に、「神奈川人権フォーラム」などと恥ずかしげも無く騙る団体が圧力を加えて講演を中止させ、しかも他の新聞と違って朝日は、それをほとんど報道しなかったという恥ずべき事件である。

 これについて、弾圧者やその加担者である朝日、市民団体はよく、「表現の自由の原則から見て、櫻井氏のような発言を圧殺するのは好ましくはないが、ドイツなどではナチス擁護の発言は法によって罰せられたりしているということもあるし、やむを得まい」などと言っている。「好ましくはない」、しかし「やむを得まい」という、朝日の分裂症的無責任論は、実際に、人権や表現を、朝日の利益のために弾圧するための論理として既に利用されているのだ。

 大体、少年法の精神から見て「好ましくない」、しかし再逮捕も「やむを得ない」と言うならば、その「少年法の精神」それ自体に問題があるのだ。当然のことではないか。問題がある以上、それは修正されて然るべきだ。

 なのに朝日は、「安易に少年法の見直しをしてはいけない!」などと言う。つまり、問題のある「少年法の精神」を放置しておけと言うのだ。もっとも、「安易に」という言葉が入っているから、朝日は「じっくり考えた上なら、見直しも良い」などと言い訳するかもしれない。

 しかし、どうせ数ヶ月後には、朝日はこの事件から関心を失って、「市民に問題の所在を訴えかける」という義務を怠るに決まっているのであるから、「じっくり考えた上なら、見直しも良い」というのは実際には、「このまま変えるな!」と言っているのと同じである。メディアが仕事を怠れば、市民や政治家は、少年法から関心を失うに決まっているのだから。

 朝日の無責任さは、以下の文を読むと、ほとんど犯罪的とさえ思えてくる。


   おぼろげながらも浮かび上がった軌跡は、小動物の虐待か
   ら幼児への暴行、刃物を使った殺傷へと、少年の犯行が次
   第に狂暴化していった、というものだ。
   その過程で、周囲の人間が暴走をくい止める手だてはな
   かったのだろうか。通り魔事件の捜査が早い段階からつく
   されていたら、その後の凶行を防げたのではないか。そ
   んな無念さが残る。警察をはじめ関係者は、厳しく受け止め
   てもらいたい。


 結局のところ、何がなんでも警察権力を貶めようという意図が見え見えの、ウルトラC級の論理の飛躍である。朝日の論理が正当性を持つのであれば、犯人はこう言って罪を逃れることができることになる。


   「なぜ早く、俺を止めてくれなかったんだ!最初の殺人の時
   に逮捕してくれていたら、後の4人は殺さずに済んだんだ!
   俺が4人の人間を殺してしまったのは、怠惰で無能な警察
   の責任だ!」


 阿呆である。もっとも、訴訟社会アメリカでなら大量連続殺人犯が、こういう論理で警察を訴えることがあるかもしれない。朝日は、犯人がこう主張しだした場合、どう言うつもりなのであろうか。

 大体、「周囲の人間が暴走をくい止める手だてはなかったのだろうか」などと、まるで他人事のように言うが(恐らく、学校を批難しているつもりなのであろう)、少年たちが置かれている社会の状況について、今まで報道や分析を怠っていた朝日の責任はどうなるのか。朝日を始めとするメディアが、社会の問題の所在についてしっかりと報道していたら、そしてその結果、市民が問題を解決していたら、事件は発生していなかったはずだ。

 そして更に問題なのは、普段は「推定無罪」の原則を振りかざす(その割には、自分たちはその原則を護ろうともしない)朝日が、まだ容疑者の段階において、少年が「連続通り魔事件」の犯人であると決め付けていることだ。ここまでやる大嘘つきは、なかなか見つかるものではない。

 嘘つき朝日は市民を馬鹿にしているのか、当然のことを偉そうに言う。


   それでも、私たちは、この事件の本質や背景に迫り、考える
   努力をやめるわけにはいかない。


 そんなことは、朝日のような不道徳な集団に言われるまでもなく当然のことではないか。さらにろくでもないのは、「私たちは〜やめるわけにはいかない」などと言いつつ、どうせ数ヶ月もしないうちに朝日は、「考える努力をやめる」に決まっているのだ。自分たちは努力を止めるくせに、市民に対しては「努力を止めるな!」と言う。無責任極まりない。

 最後は、気が違った、大嘘混じりの無責任発言で締めくくっている。


   少年の生活環境、学校や地域社会、そして私たちの社会全
   体、そのどこにどんな問題があったか。見つめ直すべき課
   題は少なくないはずだ。
   少年法の精神を尊重しつつ、こうした作業にじっくり取り組
   んでいきたい。


 ここでもまた、「少年が連続通り魔事件の犯人である」と決め付けた上でものを言っているわけであるが、「どこにどんな問題があったか」なんて、分かりきっている。怠惰な朝日のようなメディアに問題があるのだ。それを、「学校や地域社会」どころか「社会全体」にまで責任を擦り付けるとは、無責任極まりない。たとえ「社会全体」に問題があったとしても、社会がその問題を放置していたのは、朝日のようなメディアが、自己の責務を全うしなかったためだ。社会をくさす前に、自分たちの怠惰な態度をまずは見つめ直せ。

 また、「少年法の精神を尊重しつつ」などと言うが、少年法の精神に欠陥があるということは、朝日自身が認めたことではないか。それなのに、その欠陥を放置しておけなどと言う。朝日の論説委員は、一度病院にかかった方が良い。

 そして、誰にもすぐにばれるような大嘘を平気で言っている。「こうした作業にじっくり取り組んでいきたい」などと言いながら、そんな作業を朝日がするわけがないことは、これまでの連中の態度を見れば明らかだ。何しろ、あのM青年の事件のときだって、同じようなことを言っていたし、同様のことをそれより以前にも何度も言ってきているのだから。まあ、悪知恵だけは働く朝日のこと、「いく」ではなく「いきたい」と、責任逃れ丸出しの書き方をしているから、これまでと同様に作業を怠っても、うなぎのようにするりと追求を逃れる事もできよう。


 嘘つき、責任逃れと責任転嫁、そして精神分裂と、三拍子揃った朝日新聞。神戸中学生殺人事件のような悲劇を二度と発生させないためには、容疑者の少年を刑務所に何十年もぶち込むよりも、朝日新聞の嘘つき連中を何とかした方が、対策としては遥かに有効であろう。


                              なかみや たかし・本誌編集委員


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