映画いいたい放題−2

  『新世紀エヴァンゲリオン劇場版
    Air/まごころを、君に』
             監督・庵野秀明


                            中宮 崇


 本誌創刊号の、記念すべき「映画いいたい放題」の初回でも評したエヴァンゲリオン(以下「エヴァ」)であるが、色々な意味で、画期的であった。いや、「ぶったまげた」と言った方が良いかもしれない。内容に触れるので、まだ映画を見ていない方は、覚悟してお読み頂きたい。

 『Air/まごころを、君に』は、エヴァンゲリオン映画の2作目である。テレビ版や映画第1作、エヴァの世界などについては、詳しくは本誌創刊号記事を参照願いたいが、本来、「エヴァの謎を明らかにする」と銘打って制作された作品であるはずなのに、結局予想通り、ほとんどの謎は明らかにされぬまま終わった。それどころか、新たなる謎を数多く付け加えると言う、実にストレスの溜まる終わり方をしている。

 エヴァがアニメ作品として画期的だったのは、既存アニメのほとんどが、最終回には全ての謎が明らかにされてめでたしめでたしで終わる(中には悲惨な結末を迎えるものもあるが)というパターンであったものを、「謎は明らかにしませんよ。あなたたちで、勝手に考えてください」と、実に冷たく突き放した点にある。実際、本来内向的で人付き合いを好まないアニメオタクたちは、エヴァの解釈についての議論の渦の中に、ほとんど無理矢理といって良いほどの状態で突き落とされた。今でもインターネットやパソコン通信では、エヴァに関する議論は尽きない。

 テレビ版だけでも以上のように十分奇矯な作品であったのであるが、今回の映画版第2作目においては、その奇矯度をさらにアップさせた。何しろ、監督の庵野は、ファンであるところのアニメオタク達を、今回完全に敵にしているのだ。

 ある程度ストーリーの結末が見えてくる映画後半では、謎が何一つ明らかにされないことが、誰の目にも分かってくる。それは、映画を見ている人間に、思わずブーイングをさせてしまうほどの欲求不満を与える。

 ところが、我々がブーイングをしようとするその瞬間、画面は突然、実写になる。しかもそれは、上映中の映画館の観客を、スクリーン側から写したもの。客の顔は、どれも不満と戸惑いに満ち溢れている。それはまさしく、今現在映画を見ている観客の姿でもあるのだ。監督の庵野の計算は、実に周到である。

 そこから、意図的に粗くした実写が続く。薄汚れた日常生活の風景、例えば、電柱、通勤電車、交差点の風景等が、しばらく続く。そして映像は再びアニメに戻り、クライマックスを迎えるのである(そのクライマックスがまた、何ともスゴイのであるが)。

 それらの映像から私は、「エヴァは、庵野の説教映画なのだ!」と確信するに至った。そして、説教の内容は、こうである。


   お前たちオタクどもは、こんな所でこんな映画を見ている暇
   があったら、実生活をきちんとしっかり生きろ!


と。

 創刊号記事でも書いたように、庵野は、エヴァはテレビ版だけで終わらせたかったに違いない。謎を全て残し、議論を巻き起こさせる、それだけで満足であったはずだ。いや、それこそが目的ではなかったのか?

 実際庵野は、あるテレビ番組の中で、「エヴァはこれほど売れてはいけなかった。こんなものがこれほど売れたと言う点こそ、日本の病理の深刻さを示している」と語った。

 庵野は本当は、映画2作など作りたくはなかったのであろう。しかし、商業主義の波と、「謎を解決してくれ!」という(その時点で既に、エヴァを何も理解していない)ファンたちの突き上げに抗し切る事は出来なかったのではないか?

 その結果彼は、オブラートにくるんで(比較的)飲み易くしたテレビ版の結末を、映画版ではより露骨にファンを敵にする、先鋭化した結末にせざるを得なかったのだ。もっとも、そこまで悪し様に批判されていることに気付いていない観客の方が多かったように思えたが。

 そして、ほとんどの謎を放置したまま、新たなる謎を更に付け加え、ファンを煙に巻いた。唯一解決された謎であり、エヴァ全体を通して最大の謎であった「人類補完計画」も、ファンの期待に(わざと)すり寄った形の、実に宗教的な色彩の濃い、場当たり的なものに終わっている。これなども庵野が、「ああそうかい!そんなに謎を知りたいのなら、お前達が期待している通りのものを見せてやるよ!」という、ヤケから出来たものであるように思えてならない。

 「人類補完計画」は結局遂行され、(あまり詳しくは書かないが)人類は一つになる(そのプロセスが、また実にグロイのであるが)。ところが、主人公で、エヴァのパイロット、補完計画のキーパーソンの碇シンジ(酒鬼薔薇聖斗と同じ14歳である)は、人類が全力をあげて、あらゆる犠牲を払って準備してきたこの計画を、完全に否定する。その結果、補完計画は頓挫する。一つになった人類は、恐らくすべて死に絶えたのであろう(最終の場面の背景から、そのように想像される)。生き残ったのは、わずかに、主人公のシンジと、もう一人のパイロットのアスカだけである。

 シンジとアスカは、湖畔で気を失っているのであるが、シンジは先に気付き、(こればかりは、私には理解不能であったが)なぜかアスカの首を絞める。ところが、途中で気付いたアスカに顔を触れられたシンジは、手を緩める。そして、アスカがあるせりふをシンジに吐いて、物語は終わる。

 そのせりふがまた、「人類がこんなに犠牲を払って努力して来て、全てが失われてシンジとアスカしか生き残っていないのに、こんなひどいことがあって良いの!?」と思わずにはいられないほど、想像を絶するものなのである。ファンの多くは、その場面に戸惑い、また絶望したものと思われる。特に、明らかに「アダムとイブ」を意識した映像の中で、そういうせりふを投げかけられたということが、観客のショックをより大きな物にしたようである。

 しかし、世の中なんて実際、そんなものであろう。いくら努力したって、犠牲を払ったって、何もかもがめちゃくちゃになってしまうことや、他人から全く評価されないことなどは、いくらでもあるのだ。ところが今までのアニメは、そういう「現実」から完全に目を背けて来た。

 既存のアニメはどれも最終回においては、ハッピーエンドであろうがアンハッピーエンドであろうが、必ず何らかの「評価」が、(作品の世界の)人々から与えられるような性質のものであった。「地球が救われる」という結末であったならば、「ああ!よかったね!」と、世界中の人々が祝福して終わるのであるし、「世界が破滅した」という悲惨な結末であっても、「俺達は、どこで間違ったのだ!何がいけなかったのだ!努力や犠牲は全て、無駄だったのか!」と、絶望する人たちがいた。ところが、映画版エヴァにはそれがない。

 二人を残して世界中の人々が、完全に滅びてしまったという点からも、明らかに、結末を評価してくれる「世界の人々」はいない。そして、アスカがシンジに吐いた言葉は、彼女が、この悲惨な結末にも、シンジの気持ちにも全く無関心である、つまり、そもそも「評価」などする気が無いと言うこと示している。そういう、「自分を評価してくれる他人」が存在しないという、(テレビ版を御覧の方ならお分かりのように)シンジが最も恐れる状況の中に、彼は永遠に放り出されたのだ。

 ある意味これは、現在の日本人の状況を実にリアルに描いているともいえる。誰もが自分本位でものを考え、周囲の状況にはほとんど関心を示さない。隣で人が倒れようが、刺されようが、ほとんどの人は、関心を示さない。ましてや、遠い国で毎日餓死して行く人たちのことなどは、まったく思考の対象外。恐らく、北海道に核爆弾が落ちたって、愛知や東京の人々のほとんどは、いつもと変わりない日常生活を送るであろう。

 そういう現代の状況のいびつさを、庵野は観客に問い掛けたように思えてならないのであるが、私が映画館に居て慄然とさせられたのは、観客のほとんどが、そのいびつなエンディングに、全くと言ってよいほど違和感を持っていないように見えた点だ。確かに「これは何だ?どういう意味だ?」と首をかしげていた観客はたくさん居た。しかし、「おいおい、ひどいな。こんなエンディングで良いの?」という客は、少なくとも私は見かけなかった。これは、現代の社会の状況に違和感を感じると言う感性を、日本人のほとんどが既に失ってしまっていると言うことを意味しないであろうか?


 監督の庵野は、今回のエヴァブームに、ほとほとうんざりしているように思える。インタビューなどもほとんど、「こんなはずではなかった」という愚痴の羅列にしか見えない。「エヴァはさっぱり分からない」と詰め寄ったファンに「むっとしていた」庵野にとっては(『NewsWeek』7/30号)、「エヴァは、こんなに売れてはいけなかったのだ」という彼の言葉は、掛け値なしの本音であろう。恐らくしばらくは、思想的なアニメ作品を世に送り出すことはあるまい。いや、この作品が完全に最終作であると言う可能性も有り得る(もっとも、実写版の次回作は、既に制作に入っているらしい)。第一、「期待を裏切られた」ファンが、もはやついてこないであろう。

 日本人は、アニメのようなサブ・カルチャーからの批判のメッセージを、もはや理解することが出来なくなっている。そのことを理解しなかったのが、庵野の唯一の誤算であろう。彼は、「サブ・カルチャーのメッセージ」というものが、依然として有効であると信じてエヴァを作ったのであろう。しかし、日本人のほとんどは既に、エヴァを「批判的メッセージ」として受け取れるだけの感性を失っていたのだ。その結果、この作品は、単なる既存の「謎解き物」とか、最近はやりの「宗教・サイコ物」としてしか受け取られなかった。

 最近の若者の中には、「怒られている」ということを理解できない者が多数いるそうである。職場で上司が部下を叱っても、「今、自分は怒られているのだ」ということを理解できない者が多いと言うのだ。これを、「人間の新たなる可能性」などともてはやす文化人もいるが、私などに言わせれば、「外部からの批判を取り込んで血肉にすることの出来ない、独善的傾向が広まった、袋小路的状況」としか思えない。

 そういう、それこそ「行き詰まった日本人」を救済するための「人類補完計画」としてのエヴァは、既に潰え去った。「説教オヤジ」として、商業主義に抗して「まごころ」を示した庵野の企図は、観客の多くには伝わらなかった。我々には、第二の補完計画を用意する時間が残されているであろうか?


                              なかみや たかし・本誌編集委員


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