映画いいたい放題−3
『もののけ姫』
監督・宮崎駿
中宮 崇
宮崎駿と言えば、『風の谷のナウシカ』を始めとして、『紅の豚』、『天空の城ラピュタ』、『となりのトトロ』、『ルパン三世 カリオストロの城』、『アルプスの少女ハイジ』、『未来少年コナン』等、「名作」と称される作品に事欠かない、奇才である。それらについて、今更コメントする必要もあるまい。
その宮崎が、「引退作」と考えていると言う作品が、この夏公開された『もののけ姫』である。
舞台は、室町時代。それより500年前に、大和朝廷との争いに敗れて東北の地に逃げ落ちた、蝦夷(えみし)の一族、青年アシタカ(声:松田洋治)が主人公。その村を、「タタリ神」と呼ばれるもののけが襲ったところから、物語は始る。
アシタカは村を守るために、タタリ神を見事倒すのであるが、その際に腕に死の呪いを受け、それを解くために、カモシカ(だと思う)のヤックルとともに村を出る。
彼は西への旅の途中、怪しげな僧、ジコ坊(声:小林薫)を助けた縁から、「シシ神の森」の存在を聞きだし、そこへ向かう。
そこで森を切り開いて、「不浄」として忌み嫌われる被差別民や病人などと、豊かな生活を目指して生活している「タタラ製鉄」の村に行き着く。この村は、製鉄による豊かな経済力と、原始的な鉄砲による武力によって、武士やもののけから独立を守っており、烏帽子(エボシ、声:田中裕子)と呼ばれる、近代的合理主義者のカリスマ的な女性指導者によって治められている。
森を切り開こうとするタタラ集団に対し、山犬を中心とするもののけ達は、シシ神を守るためにも、自らの生活の場を守るためにも、必死で抵抗していた。そんな中に、人間に捨てられ、山犬の長モロ(声:三輪明宏)に育てられた美しい「もののけ姫」サン(声:石田ゆり子)もいた。彼女は、森を損なう人間たちを憎悪し、もののけ達とともに、タタラ集団と激しく戦っていた…。
その戦いに、タタラ集団の経済力を狙う、周辺の武士たちや、不老長寿の秘薬になるといわれるシシ神の首を狙う帝の命を受けた、ジコ坊率いる謎の集団が加わり、争いは更に、昏迷の度を深める。
やがて、シシ神の首は、烏帽子とジコ坊によって切り落とされ、森のもののけ達も人間たちとの抗争に破れ、力を失う。が、首を切り落とされたシシ神は、巨大な「デイダラボッチ」として暴走し、森は枯れ、タタラ村は破壊され、クライマックスを迎える…。
以上が、大体の筋である。結論から言うと、宮崎作品の例に漏れず、「必見」だ。ストーリー性、芸術性、いずれもエンターテインメントとしては申し分ない。特に映像は、今回スタジオ・ジブリ初のCG導入作品であるそうで、それとあいまって「美麗」とさえ言える逸品。
また、声優陣も何とも豪華。宮崎作品は、声優としては素人のベテラン俳優をよく使うが、今回も上記以外に、森光子、森繁久彌、西村雅彦等を起用している。
また音楽は、宮崎作品にはもはや欠かせない、NHKスペシャル「驚異の小宇宙人体」の音楽でも有名な、久石譲。主題歌は、カウンター・テナーとして世界的に有名な米良美一(女性が歌っていると思っていたので、びっくりした)。ちなみにこの主題歌は、早速8月17日の日テレ系列「知ってるつもり」でも、使用していた。
さすがにこれだけの作品には金も時間もかかるようで、20億円と3年の歳月が費やされている。そして業界で話題となったのは、本作品がウォルト・ディズニーを通じて、世界中に配給されるということだ。宮崎作品への評価は、これまでも世界中でかなり高い物があったが、今回、どのような「成績」をあげるか、楽しみである。
さて、いい加減に内容に入ろう。
内容についても、先に結論を言わせてもらうと、「詰めが甘い!」。もちろん、このままでも十分すばらしいのではあるが、欲を言わせてもらうと、そうなる。
監督の宮崎は、これまでの作品では、「自然礼さん」とでも言える思想を内包してきていた。特に、80年代のエコロジーブーム期に制作された『風の谷のナウシカ』では、「善良な自然対邪悪な人間」という構図が明白であった。
ところが宮崎は、90年代に入って、そのような単純な構図に違和感を覚えはじめたようである。「自然を慈しもう」という思想の下に、単純明快な結末を迎えた映画版『風の谷のナウシカ』に対して、82年から最近まで延々と連載が続いていた漫画版『風の谷のナウシカ』では、映画版とは全く異質な、見方によっては人類と自然双方の滅亡を予感させるような結末を迎えている。
そして、本作品においては明らかに、「自然礼さん」思想を脱却している。『ナウシカ』と同様に、「人間対自然」という構図はそのままなのであるが、それは「善良な自然対邪悪な人間」という構図とは全く違い、自然も人間も等価なものとして描かれているのである。どちらが善で、どちらが悪なのかと言う価値判断は、全く行っていない。自然も人間も、自らの正義と生活のために、必死で戦っているのだ。
そんな「善も悪もない」絶対的価値観不在、解決策無しのどうしようもない状況の中で、青年アシタカは、タタラ集団の温かな人間たちと、森を愛するもののけ姫サンとの間に挟まれて、両者の共生の可能性について思い悩むのである。
そんな状況の中で、人間たちはシシ神の首を落とし、その結果デイダラボッチが暴走し、森もタタラ村も破壊されてしまうのであるが、エンディングが、何とも覚悟が足りない。
アシタカとサンの活躍によって、シシ神の首は返され、デイダラボッチは暴走を止め、消え去るのであるが、その時に、枯れてしまった森に草木が芽吹き、アシタカの腕の呪いも消える(薄れただけかもしれない。よく分からない)。タタラ集団の人々も生き残り、烏帽子の指導の下、新たなる村作りを目指すところで、物語は終わる。サンは森に帰り、アシタカはどうやら、タタラ集団と暮らすことにしたらしい。
しかし、今まで「解決策無しのどうしようもない状況」を描いてきたくせに、これでは「救いよう」がありすぎるのではないか?村は破壊され、シシ神やもののけは滅び、人は大量に死んだのであるし、十分悲惨なのではあるが、その悲惨さの先には、「復興」の希望の光が見える。それでは、今までの宮崎作品と、本質的な違いはないのではないか?ましてや、アシタカの腕の呪いが消えた(あるいは薄れた)ことや、木々が枯れた禿山に草木が芽吹きはじめたことなどは、宮崎が、『ナウシカ』的なものへのこだわりを未だに捨て切れていないことを示しているように思えてならない。
宮崎が本気で「解決策無しのどうしようもない状況」というものを描きたかったのであれば、少なくとも、アシタカにかけられた呪いが軽減されたり、ましてや消されたりしてはいけないと思うのであるが…。
今回の宮崎のメッセージを簡単に表すと、「あらゆる矛盾を背負って生きろ!」と言うことになるかもしれない。この点は確かに、明白なる解決と、絶対的な価値観(もっと言えば、「正義」)とを柱としていた、今までの宮崎作品とは、明らかに異なる。
しかし宮崎は、そういう「矛盾に満ちた状況」を緩和する「温かい目」とでも言うべき、神に類する外性的な力を、本作品に導入してしまった。その「温かい目」は、アシタカの呪いを解き、枯れ死した山に新たなる息吹をもたらし、タタラ集団の人々を生き残らせた。それが、宮崎の覚悟の足りない点である。実際、観客の多くは、あまりにも「面白げの無い」結末に、唖然としていた。
先に書いたように宮崎は、本作品を「引退作」として位置づけているようである。確かに、彼の年齢と健康状態を考えれば、映画作品にこれ以上関るのは無理であろう。
しかし私としては、是非とも漫画等のメディアで、『もののけ姫』を「完成」させて欲しいものである。私に言わせれば、あんなものは「完成」ではない。
映画版『ナウシカ』の終了後、宮崎は漫画版『ナウシカ』で、自らを総括した。それは、映画版『ナウシカ』をほぼ完全に否定するような激しい性質のものであった。今回の『もののけ姫』でも、宮崎はそのような総括をしてくれるものと期待する。
なかみや たかし・本誌編集委員