少女資本主義(その1)


                            中宮 崇


「援助交際=売春」という構図に囚われていては、何も解決しない!


 マスコミ造語の典型である「援助交際」は、既に日本において市民権を確立したといえよう。新聞、雑誌、書籍にテレビと、この言葉が登場しない日は一日もないと言って良いぐらいに、「援助交際」という言葉は日々飛び交っている。

 しかし、「援助交際」という言葉の定義については、未だに非常にあいまいであるようだ。私の考えでは、


  女子高生が、男性からお金をもらってお付き会いしてあげる。


というものになるのであるが、「援助交際=売春」という間違ったイメージが、特に、保守的な層を中心に根強く残っている。

 いわゆる「売春防止法」における「売春」とは、「報酬(対償)を得て不特定の相手と性交すること」と定義されており、「援助交際=売春」論者も多くの場合、「売春」をそういう意味で用いているようである(もっとも、辞書的な意味での「売春」は、必ずしも性交だけに止まらない)。しかし、そのような認識では、有効な対策を講ずることは出来ないであろう。

 実のところ、「援助交際=売春」ならば、話は簡単なのである。援助交際女子高生をまとめてブタ箱に放り込んでしまえばいいだけのことだ。何しろ彼等は、明らかに売春防止法違反の犯罪者なのであるから。警察力を強化するだけで、日本から「援助交際」は消滅することであろう。もっとも、「憲法九条を守れ!」とか「少年法を守れ!」などと普段は言っている連中に限って、なぜか「売春防止法を守れ!」とは言わずに、少女の売春行為を「社会や学校のせいだ!」などと言ってはばからないのであるが。

 しかし、話はそれほど簡単ではない。なぜかと言うと、第一に、それでは買う方のオヤジ側が野放しだ(買う方のオヤジは、売春防止法では処罰の対象にはならない)。次に、「援助交際」のほとんどは、売春防止法には引っかからない。「援助交際」において「報酬(対償)を得て不特定の相手と性交」している女子高生など、実のところそれほど多くはないのだ。

 第一の問題は、各都道府県で最近制定・改正の動きが顕著である、「青少年保護育成条例」において、ある程度解消されつつある。もっとも、進歩的文化人や人権派、若手学者は、この条例に反対であるようであるが。

 第二の問題については、残念ながら、あまり具体的な対策への動きは見られない。私などには、こちらの方がよほど根源的な問題であるように思えるのであるが。

 援助交際においては、金品の授受は必ずしも、性交を媒介として行われれるものではない。むしろ、そういう露骨な「取引関係」は少数派であるといえる。恥知らずなオヤジ達の中には、「10万円でどう?」などという、直截的な持ち掛け方をする者もいるが、援助交際少女達の多くは、そんなオヤジは「アブナイやつ」として敬遠する。

 援助交際における金品授受は、「お小遣い」という名目で行われる場合が多い。それは、「一回いくら」というような性質のものではないし、ましてや「定価」が決まっているものでもない。「一ヶ月いくら」というように、ある期間ごとに金額を決めている例もあるが、これを「売春」と言ってしまっては、愛人関係や、下手をすれば夫婦関係だって「売春」と言えてしまうであろう。

 そして更に重要な点は、「援助交際」のかなりの割合が実は、性的関係を伴っていないと言うことなのである。つまり、オヤジ達の多くが、「やれもしないひよっ子」に、万単位の金を払っているのである。

 オヤジが少女達に金を払うと言うことは、彼女たちにそれ相応の「商品価値」があるということだ。では、女子高生を始めとする少女達の「商品価値」とは、具体的に何であろうか?

 当然一番目に考えられるのは、性行為の対象としての商品価値であろう。たとえ、「ただ付き合ってくれるだけで良い」などと言って言い寄るオヤジでも、そういう下心を持っているという可能性は十分にある。

 次に、「お話し相手」としての商品価値。金を払わないと話し相手を確保できないと言うのも、何とも情けない話であるが、実はこの傾向は、オヤジ達に特有の現象ではない。何しろ老人たちの間にも、そういう需要がかなり以前からある。人材派遣センターや家政婦紹介所には、「自分の話を聞いてくれるだけで良い」という、老人たちからの求人がかなりある。

 しかし、たとえ少女たちに、性行為の対象やお話し相手としての商品価値があるとしても、「なぜオヤジは、大人の女性ではなく少女を求めるのか」という問に対する解答にはなっていない。したり顔で「現代の男たちは、大人の女性を相手にする能力に欠けているのだ」などと言う学者もいるが、果してそうであろうか?

 性対象としても、お話の相手としても、わざわざ素人の少女たちに高い金を払わなくても、「その道のプロ」は世の中にいくらでもいる。相場がうなぎ上りの女子高生たちに払うよりも、キャバレーにでも行った方が、よほど安くつくぐらいだ。そういう、「その道のプロ」を相手にした方が、少女たちを相手にするより、よほど楽だし金もかからない。「現代の男たちは、大人の女性を相手にする能力に欠けているのだ」などと偉そうに言っている文化人どもは、オヤジが少女たちをベットに誘うのが、どれほどの技術と労力、財力を必要とするか、全く理解していない。その意味では援助交際は、芸者遊びに似ていると言える(最近の方はあまり分からないかもしれないが、芸者遊びには、金はもちろんのこと、独特の技術と膨大な労力を必要とするのである)。

 こう考えてみると、オヤジたちは別に、楽をするために大人の女性ではなく少女を選んでいるのではないと言うことが分かる。もちろん、「大人の女性よりも少女の方が楽だ」と考えて少女たちに声をかけるオヤジも中にはいるが、そういう連中は先に挙げたような「10万円でどう?」的な誘い方をし、そして少女からは「アブナイやつ」として敬遠され、結果として援助交際できない。

 そうすると「援助交際」において少女たちに商品価値が認められる理由は、もっと他のところにあるということになるが、続きは次回。


                              なかみや たかし・本誌編集委員


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