『週金』を撃つ!−13(その1)

後ろめたさからの逃避


                            中宮 崇


人権派と称する差別主義者達!


 「平和主義者が戦争を起こす」というのは、良く言われることである。この種の傾向は日本において特に強いようであり、「神奈川人権センター」なる団体が堂々と言論弾圧したということは、本誌でも何度も扱ってきた。

 また、一見女性の権利を擁護しているように見えるフェミニストとか自虐史観派、市民団体などが、実のところ売春婦や慰安婦はもちろんのこと、主婦や女子高生までも差別していると言うことも、最近はよく理解されるようになってきている。例えば、そういう連中の好む『噂の真相』なるスキャンダル誌は、相手を批難するに際して「元ストリッパーだった」とか、「男をとっかえひっかえしている」などと書き立てるのが常套手段となっている。

 「物分かりがよさそうに見える嘘つきオヤジ」筑紫哲也が関っている『週刊金曜日』なる雑誌にも、そういう傾向が強く見られる。その一例として、7/4号に掲載された、「第一回週刊金曜日ルポルタージュ大賞佳作」とやらに入選した


   「女子高生 その実態と主張」
         竹内 真理


なる記事について見てみよう。

 これは、女子高生への取材を通して、その「実態」とやらを暴いている記事なのであるが、こんなものを「女子高生の実態」などと称するとは、厚顔無恥もはなはだしい。要するに、女子高生はみんな援助交際しており、金の亡者なのだ」と言いたいのだ。つまり読者に対して、女子高生というものについてあらぬイメージを与えることによって、差別しているのだ。そして、彼女らをそうやって差別しておいて、最後には「女子高生がこんなふうに荒れているのは、大人達のせいだ」という結論を導いている。まったく、御都合主義もはなはだしいが、実のところこういう、「ある対象を貶めて、その責任を社会や国家のせいにする」というのは、連中の常套手段なのである。


ルーズソックスは少女の抵抗?


 記事はまず、ルーズソックスに関する話題から入る。著者の竹内に言わせると、学校には校則はいらないのだそうだ。それどころか、女子高生が恥知らずな存在である理由(竹内のこういう言い草を女子高生が聞いたら怒るであろう)は、校則の責任だとまで考えているようである。

 竹内はまず、人前で堂々と靴下をルーズソックスに履き替える女子高生を、恥知らずな存在として認識している。はっきりとは書いていないが、以下の書き方からは明らかにそのようなニュアンスが読み取れる。


   チラチラと視線を送るおじ様や、呆れ顔で見ているおば様
   を気にも留めず、黙々と靴下を替える彼女たち。なぜそこ
   までするのでしょうか。


 その上で、そういう恥知らずな行為を気にも留めない女子高生たちの行為の責任を、学校の校則のせいにする。


   校則を破ると先生に叱られる、でもルーズソックスを履きた
   い、せめて放課後だけでも。そんな女子高生の思いがあの
   行動を起こさせているとしたら、品良く、どこに出しても恥ず
   かしくない人間を育てるためにできた厳しい校則は、何だと
   いうのでしょうか。学校側の、いえ社会の皮肉に見えてしま
   うのは私だけでしょうか。


 そうです。そんな風に見える馬鹿は、あなただけです。いえ、週金読者のような連中も、あなた同様に馬鹿かもしれません。

 竹内がまず馬鹿なのは、校則が「品良く、どこに出しても恥ずかしくない人間を育てるために」存在すると考えている点だ。竹内のような連中の馬鹿さ加減は、学校を貶めているくせに、都合の良いところでは学校を理想化すると言う、御都合主義傾向からも明白である。

 校則はだれが作るのか?多くの場合、学校の教師であろう。その教師たちが、「品良く、どこに出しても恥ずかしくない人間を育てるために」校則を作ったなどと、本気で竹内は考えているのであろうか?竹内のような連中が普段言っていることを総合すれば、教師と言うものは、「学校の世間体を良くするために、生徒を管理する目的で」校則を作っているはずだ。教師は「どこに出しても恥ずかしくない」などという、生徒を慈しむ広い視野を持っているなどと、こんな時だけ都合良く仮定するのは、いい加減にして頂きたいものだ。

 また、更に度し難いのは、「靴下を人前で履き替える」という個人的行為を、社会の責任にしている点。竹内は、社会に対していったいどうして欲しいと言うのだ?靴下をルーズソックスに履き替えさせなければよいのか?ならば、「ルーズソックス禁止法」とかいう法律でも作ればよいし、そうすれば、靴下を履き替える女子高生などを見ることも無くなるのであるが、竹内のような連中は、確実に猛反対するであろう。もっとも、「何でもない個人的な行為を騒ぎ立てて大きくし、社会の責任を問い、そのくせなんら解決策を提示せず、他者の提示する案を無思慮に批判する」というのは、連中のような族の特性であるのだが。


新技術を恐れるサル達


 竹内のような連中は、新しいものに対する過剰なまでの恐怖心と、不当な責任転嫁をその特徴としている。例えば、ホームページに酒鬼薔薇聖斗の実名が公開されたり、ポルノが流されたりするとインターネットが悪者にされ、通話中の交通事故が増えればたちまちのうちに、携帯電話がやり玉にあげられる。もっとも、あっと言うまにそういったことを忘却のかなたに忘れ去るのであるが。

 竹内はこの記事で、ポケベルや携帯電話を不当に貶める。そしてその一方で、そういうものを使用する女子高生を擁護し、またまた社会の責任にする。まったく、芸の無い連中だ。

 竹内は、女子高生たちが「ポケベルメッセージを交わすだけの友達」づきあいに満足していることに、危惧の念を抱いている。しかし、互いに相手の顔を知らずに、文章だけで付き合いをするという現象は、昔からいくらでもあったことだ。文通がそれである。ポケベル友達を否定する連中は、文通友達も否定するのであろうか?ところが、そういう主張は今までに一度も聞いたことがない。竹内は、「文通友達とポケベル友達の違い」について、きちんと答えることが出来るのであろうか?おそらく答えれまい。

 そして、そういう疑問に何ら答えることの出来ぬまま、こういう阿呆なことを平気で言っている。


   ベル友が心の支えになっている女の子たちが少なくないと
   いう事実をどのように受け止めればよいのでしょうか。


 ポケベルが心の支えになっている少女なんて、私は一人も知らない。奇妙なことに、こんな馬鹿なことをわざわざ書いている竹内も、そんな少女の例など一つもあげていない。御都合主義も、ここに極まれりである。

 百歩譲って、そういう珍奇な少女がたくさんいたとしよう。それがいけないことなのか?先ほど書いたように、文通友達(竹内に言わせれば「文友」になるのであろう)が心の支えになっている女の子と、いったいどこが異なるのか?竹内のような連中は、答えてはくれない。

 そして何を血迷ったか、こんな妄言まで吐く。


   大人が持ちたい物(ポケベル)は、高校生も持ちたいものな
   のです。しかも大人よりもうまく使いこなしているのですから
   文句は言えません。


 こういう連中は、そのうちこう言い出すであろう。


   大人が飲みたいもの(酒)は、高校生も飲みたいものなので
   す。しかも大人よりもうまく飲みこなしているのですから文句
   は言えません。


   大人がやりたいこと(セックス)は、高校生もやりたいことな
   のです。しかも大人よりもうまくやっているのですから文句は
   言えません。


 まず、大人がやっていることを、子供も無条件で真似してよいと考えているところが度し難い。竹内に言わせれば、子供が高価なグッチのバッグを持っていても、批難してはいけないのであろう。「うまく使いこなしている」かどうかを、大人が文句を言えるかどうかの基準にしているという点などは、もう救い難い。

 大体竹内は、少女たちのポケベルの使い方を、好ましくないものとして考えているのではなかったか?それなのに、ここでは「うまく使っている」などと言う。もはや呆れ果てて、まともに相手にするのがおっくうになってくる。こういうろくでもない妄文を「ルポルタージュ大賞」などに選んでしまえる『週刊金曜日』とは、一体なにものなのか?

 ここまででも十分度し難いのであるが、暴論竹内は記事の後半部分で、援助交際についても騙っている。それは、女子高生の全てが援助交際を行っているかのように書き立てる、とんでもないものなのであるが、それについてはまた次回。


                              なかみや たかし・本誌編集委員


前のページへ