失われる絆


                            中宮 崇


「家族の崩壊」?「共同体の崩壊」?いや、それ以前の問題だ!


 かつての金属バット殺人事件から、最近の神戸中学生殺人事件まで、事件が起こるたびに言われるのが、「共同体の崩壊」だ。普段、家庭の権威、学校の権威、地域社会の相互監視機能などを否定し、共同体の崩壊に力を注いでいるはずの文化人に限って、事件が発生するたびにワイドショーなどで偉そうに、「社会の責任です」「共同体のチェック機能が失われたせいです」などと言っているのを見ると、日本の文化人というもののレベルの低さに暗澹たる思いを抱かざるを得なくなる。

 しかし私には最近、そういう「共同体の崩壊」などというレベル以前のところに、問題が存在するように思えてならない。それは、日常生活において、子供たちや高校生(特に女子高生)たちの会話に何気なく耳を傾けてみれば、誰でも気付く事であるように思う。

 子供たちはすでに、「共同体」というものを構成することが出来ないような存在になってしまっているのだ。「共同体」は当然、大人たちだけではなく、子供たちも構成員でなければいけないわけであるが、そうである以上、いくら大人達だけが努力したって、子供の方に、共同体の構成員としての基本的能力が無ければ、「共同体」は成立し得ない。

 では、人間にとって「共同体」の構成員となるための基本的能力とは何か?それは「コミュニケーション」能力であろう。

 ところが最近の子供達の様子を見ていると、そういう基本的なコミュニケーションの能力に欠けているように思える。

 確かに彼等は、仲間同士で「話」をすることは出来る。しかし、「会話」は成立していない。

 例えば、こんな具合である。


   A:あの世界史の先生、ムカツクよね〜。

   B:私、数学の先生の方がムカツク〜。


 これのどこが「会話」として成立していないか、お分かりになれない方は、十分「現代っ子」である(笑)。

 Aは、自らについて語ったわけであるが、BはAに対して、「先生のどこがムカツクのか?」というような質問をするのではなく、A同様に、自らを語るようなことしか言わない。

 つまり、AとBはお互いに、「自らについて語る」ことしかしていないのである。もっと言うと、相手のことに関心を持たず、互いに自己主張をしているだけなのだ。これが、「最近の子供は、「話」は出来ても「会話」は出来ない」ということの意味である。

 子供達における、コミュニケーションのこのような傾向は当然、対人関係に関しても大きな影響を及ぼす。近頃よく言われるような、「最近の子供は、浅い付き合いの友人は沢山持っているが、深刻な話を出来るような親友を持っていない」という現象は、これと密接な関係を持っているように思われる。

 さて、ではこのような「コミュニケーションの浅薄化」は、いったい何故発生するようになってきたのか?そこにはやはり、教育の影響が相当あると考えるのが妥当であろう。

 戦後民主主義教育にも、その傾向は多分にあったし、「子供の個性を尊重する」と称する最近は特にそうであるが、「子供の主張に耳を傾けろ!」ということが、文化人やマスコミによって、口やかましく言われている。このような傾向は、教育界だけではなく、育児教育書にも、多大な影響を与えている。一冊手に取ってみるとよい。「赤ん坊の主張(泣き声や、手足のばたつきのことを指すらしい)に耳を傾けてあげましょう」という主旨のものが、ちまたには氾濫している。

 つまり、今の子供は学校ではもちろんのこと、赤ん坊の頃から既に、「周囲の人々に自らの主張を聞いてもらう当然の権利を持つ」存在なのである。それは今や、善悪の価値判断を越えた、何の疑いもない真理として確立されていると言ってもよいであろう。

 「周囲の人々に自らの主張を聞いてもらう」ということが、絶対的な価値を与えられている以上、「周囲の人々の主張を聞く」ということは、当然のごとく二のつぎである。教育も、「主張をする」ことは存分に教えても、「主張を聞く」ことについては、あまり教えようとはしない。

 実際、国語教育などを見てみても、文章の読解を重視するものは減り、「自由論文」なるものを始めとして、好き勝手な主張を「自由に」書くようなものへの比重が大きくなってきている。

 自らの主張を行うためには、周囲の主張を理解することが、まずは必要であるはずなのであるが、最近の日本では、そういう基本的なことが忘れ去られているようだ。その結果、「コミュニケーション」における、一つの重要な要素である「相互理解」機能は、既にほとんど失われてしまっていると言ってよい。

 相互理解無きところに「共同体」を作ろうとしても、その「共同体」なるものがもたらすものは、安心感でも充足感でもない。「しがらみ」だけである。現代日本において、「共同体」というものが敬遠される傾向があるのは、当然のことといえよう。


 人間が生きて行く上で、共同体は、何等かの形で必ず必要であろう。そのことは、今まで盛んに「共同体の破壊」を唱えてきた「進歩的文化人」連中も、さすがに認めざるをえなくなってきている。しかし、「共同体を再生しましょう」とだけ主張することは、今まで見て来たように、既に無意味となってきている。

 共同体の再生のためには、コミュニケーションの再生が必要であり、コミュニケーションの再生のためには、「自己主張重視」の教育観の改革が必要である。もっとも、「共同体の再生」が必要なことにやっと気付いてきた「進歩的文化人」も、「自己主張重視の教育観の改革」なんてことを聞いたらとたんに、「それは、「いつか来た道」だ!」などとヒステリックに言い出すのであるが。


                              なかみや たかし・本誌編集委員


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