ブリの国の人々


                            中宮 崇


日本における「世代間ギャップ」は、世界的に見ても異質である!


 私が高等専門学校の学生だったとき、尊敬する西洋史の先生が最初の授業で、我々学生にこう問いました。


   「塩はどこから採れるか?」


 この問いに、「海からです」と答えない人間が、日本にどれほどいるでしょうか?

 「塩は海から採れる」というのは、日本人の固定観念にすぎません。岩塩という形で、山などから採れるという地域も少なくないのです。

 先生は、このような問いを発することによって我々学生に、日本人に西洋史を教えると言うことの、先天的な困難さを教えてくれたのです。

 別に教育に限らず、普段の会話でもそうですが、相互理解を進める上で、事前に一定の「共通認識」を持っているというのは、非常に重要なことです。先の例の場合、「塩が採れるところ」というのが「共通認識」になりますが、これについての共通認識が無い海外の人々に、「敵に塩を贈る」ということわざのもとになったお話を即座に理解させるのは、難しいでしょう。

 また、「共通認識」の欠如は、時に致命的な結果をもたらす場合が有ります。例えば古代の戦争のかなりが、こうした「共通認識」の欠如による相互理解不足が原因となって発生したものですし、近現代においても、そういう馬鹿な原因で起こる戦争は、後を絶ちません。

 歴史上、「共通認識」の欠如は、住む地域や民族の違いなどが原因で生じることが多かったようです。現代でもそうですし、ましてや、交通・通信手段の発達していなかった昔は、さらにその傾向が強かったでしょう。

 しかし、現代のこの日本においては、歴史上まれに見る種類の「共通認識」の欠如が発生しています。

 この場合、欠如の原因は、住む地域の違いでも、民族の違いでもありません。「世代の違い」が原因なのです。

 正確に言うと、「世代の違い」は原因ではなく、ただの「現象」かもしれませんが、それはひとまず置いておきましょう。

 世代の違いによるギャップは、世界中のどのような共同体においても、多かれ少なかれ存在します。しかし、日本におけるそれは、もはや単なる「ギャップ」と言う簡単な言葉で済ますことの出来ないほど深刻な状況にあると思います。

 最近、NHKのある番組で、世界中の国々における、世代間の食の好みの違いについて調査していました。どの国にも、世代ごとに好みは微妙に異なっていました。しかし日本ほど、世代ごとの好みがまるでバラバラで、ただの一つも共通する好みが無い国は、一つもありませんでした。子供はカレーやハンバーグを好み、若者は焼き肉やステーキ、ピザなどを求め、中年は焼き魚や煮物を食す…。そこには、他の国で見られるような、共通部分が全く有りませんでした。これに対してもう一つ、日本と反対の意味で極端な国であるアメリカは、世代ごとの好みの違いが、全くと言って良いほど有りませんでした。どの世代も、ステーキやハンバーガーが好きなのです。

 食は、人間の営みにおける、もっとも重要な部分です。食の差は、文化や風習の差にもつながります。テーブルマナーの細々とした作法の意味を理解できている日本人は少ないでしょうし、箸の使い方における様々なタブーの意味を理解できている外国人も、少ないでしょう。

 そう考えてみると、日本における世代間のギャップは、食の好みの差異に典型的に見られるように既に、「世代間における文化の差」、いや、「世代間の断絶」と言って良いところにまで来てしまっているのではないでしょうか。

 日本における「世代間の断絶」は、以上見て来たように、世界に(ひょっとしたら歴史上)類が無いほど激しいと言うだけでも、十分深刻だと思いますが、それ以上に重大なのは、日本人はこれまた他に類を見ない、「ブリ(魚のブリです)型」の民族だという点です。

 ブリは「出世魚」と呼ばれているように、年齢ごとに名前を変えます。それと同じように日本人は、年齢ごとに「文化」をとっかえひっかえしているのではないでしょうか?

 例えば、先ほどの食の好みの話に戻りますと、今ハンバーグが好きな子供達は、10年後もハンバーグが好きなのでしょうか?恐らく、そうではないでしょう。10年後には、「焼き肉が好き!」となるでしょうし、30〜40年もすれば、「煮物や焼き魚が好き!」となるに違い有りません。現に私も、子供の頃はハンバーグが好きでしたが、今は違います。

 世代によって、文化の違いがあるにしても、その文化が、個人ごとに見れば一生変化しないのならば、話はもっと簡単でしょう。何十年か経って、古い世代が退場して行けば、その世代の文化も消え去り、世代間の差異が緩和されるかもしれないからです。

 しかし、日本人のような「ブリ型」の人々の場合、そう単純ではありません。何しろ、古い世代がたとえ退場しても、その世代の文化が消える可能性はないのです。今の老人たちが死に絶えても、中年層、つまり将来の老人たちが、今の老人たちの文化を継承するのは確実なのですから。継承された文化には、多少の変化があるかもしれませんが、それでも、世代間の差異が緩和されることにはなりません。子供、若者、中年、老年の、越え難い世代間差異は、ずっと残るのです。

 これは、日本という共同体を運営して行く上で、相当のハンディであることはもちろんですが、世界中の人々と付き合って行く上でも、かなり問題があるといわざるを得ません。何しろ外国人にとって、「日本人」という存在についての認識が、一つに定まらないことになるのですから。日本の若者と接した外国人は、次の日に日本の老人と接したときに、「これが同じ日本人か?」と思うことが多いのではないでしょうか?

 このような世代間による差異が、一体どうして発生したのか、何故日本においてこれほど極端に現われているのか、専門家ではない私には、断言は出来ませんが、少なくとも戦前の日本には、この種の差異は、それほど目立った形では存在してはいなかったのではないかと思っています。どなたか詳しい方、教えてください(笑)。しかし、たとえ原因が特定できなくても、日本のこういう特殊事情の存在を常に心に留めておくことは、世界中の人々とお付き合いする上で損にはならないと思います。


                              なかみや たかし・本誌編集委員


前のページへ