電気ハイエナはダイアナの夢を見るか?
中宮 崇
ダイアナ妃を悼むふりをして、内心ではハイエナを応援する日本マスコミ!
週明けから、ワイドショーもニュース番組も、ダイアナ一色である。いずれも表向きは、ダイアナの死を悼み、「パパラッチ(パパラッティ)」と呼ばれる、スキャンダル狙いのハイエナどもに対する批難を行っているように「見える」。
「見える」としたのは、実のところワイドショーもニュースも、パパラッチと同類であるばかりではなく、内心では彼等の行為を支持し応援しているからだ。
以前朝生で、HIV問題について討論している際に、被害者の川田龍平氏が電話を入れてきたとたん、厚生省擁護の姿勢を見せていた論客たちが口をつぐんでしまったということがあった。
今回の現象も、それと同種のものである。ダイアナの死を前に、表立ってはハイエナどもの擁護をする覚悟もないマスコミが、チクチクと陰険にダイアナ妃を貶め、大衆を蔑視し、沢山の人間を死に追い込み、傷に苦しむ彼女の姿を写真に収める行為を正当化する。
「売れるなら、とことん売ろう、シャブ・麻薬」
この手のハイエナの尻尾たちの言い分で、最も多いのが、「我々マスコミは、大衆が求めているものを提供しているに過ぎない」というものだ。これが全くの大嘘だということは、今週号記事「年貢は納められるか?(その1)」でも指摘した。
百歩譲って、たとえ彼等の主張が正しかったとしても、求められているものを何でも提供してよいことにはならないのは、赤ん坊にでも分かる道理だ。連中に、こう聞いてやればよい。「求められているからといって、麻薬を販売してもよいのか?」と。元々たいして知能も道徳心も倫理観も高くないマスコミ人は、この問いに答えることは出来まい。もっとも、沖縄知事の太田某のように、「麻薬だって、買う側がいるから売る側がいるのだ」と平気で言って憚らない阿呆もいるにはいる。
しかし、このような馬鹿げた主張が、特にニュース番組で、恥ずかしげも無く垂れ流されている。
NEWS23「ああいうものは、売れるのです」
ニュース・ステーション「読む側も問題だ」
「読者も視聴者も、そしてもちろんマスコミの問題でも
あります」
ニュース番組にして、これである。ワイドショーの下劣さは、想像に難くはあるまい。
スーツを着た押し売りたち
次に多い言い逃れが、「ダイアナだって、マスコミを利用していたではないか」というもの。一見納得してしまいそうなこの主張も、「持ちつ持たれつ」という言葉の意味を考えれば、全くでたらめな言い分であることが分かる。
確かにダイアナ妃は、マスコミを積極的に利用していた。しかしそれは、ダイアナ妃だけではなく、取材する側のマスコミにも、相当の利益をもたらすものであった。つまり、両者がともに、利益を分かち合っているという関係があったのだ。
考えて見るとよい。私のような無名人がマスコミに、「私を取材してください」と言ったとして、連中は取材に来るか?来やしない。私の利益にはなっても、マスコミの利益にはならないからだ。
ところで今回のような、ダイアナ妃が嫌がるのを無理矢理つけ回すような取材の場合、利益を得るのはマスコミだけだ。ダイアナ妃は、利益どころか損害さえ被る。よって、連中の主張は、ここでもまた、全く正当化されない。
だいたい、たとえダイアナ妃がマスコミを利用して利益を得ていたとしても、彼女に利益を与えていたのはパパラッチではあるまい。新聞記者であり、雑誌記者であったはずだ。過去に利益を与えたことのある彼らが、ダイアナ妃を追いかけていたのではないのだ。彼女に何の利益も与えたことのないハイエナどもが、彼女を追いかけ回し、死に追いやったのだ。これをどうやったら正当化できるというのか?そこのところを勘違いするべきではない。
ところが、日本の主要な番組も、少し考えればその不当性が誰にでも分かるような、この手の呆れた主張を繰り返している。
NEWS23「ダイアナも、メディアに近づいた」
ニュース・ステーション「ダイアナは、タブロイド紙を利用して
いた」
おはようナイスデイ「ダイアナは大衆紙に電話して、再婚を
ほのめかすようなこともしていた」
日本の代表的な番組は、死者であり被害者であるダイアナ妃に、何とかして責任を転嫁しようとしているのである。
二枚舌どもの台頭
フランス検察当局の発表によると、ダイアナ妃の車の運転手から、高いレベルのアルコールが検出されたそうである。早速マスコミは、鬼の首を取ったように狂喜した。「事故の原因は、泥酔状態にもかかわらず車を運転したことにある(マスコミには責任はない)」というわけだ。
これは、まことに不誠実な二枚舌である。酒鬼薔薇聖斗事件などの時を思い起こして頂きたい。マスコミは盛んに、「酒鬼薔薇が殺人を犯したのは、そういう環境に追い込んだ社会の責任だ」などという妄言を、「これでもか!」とばかりに垂れ流していた。なのに今回は、ダイアナ妃を死に追いやった環境を作ったハイエナどもの責任には目を向けようとしていない。
ダイアナ妃は、パパラッチどもをまくために、お抱えのプロの運転手が乗った車を先行させた。そのため、彼女らが乗った車の運転は、とても運転のプロとは言えない、ホテルの警備員がせざるをえなかったのだ。つまり、パパラッチどもが存在しなければダイアナ妃は、信頼のおけるお抱えの、プロの運転手に運転させることが出来たのである。事故の環境を作ったのは、パパラッチの存在そのものなのである。
また、パパラッチどもが車を追いかけなければ、時速140キロ以上というスピードを出すこともなかったはずである。ハイエナどもは、二重の意味で、事故が発生する環境を作り上げたことになる。
自分たちの都合の良いように論理を使い分け、これらのことに目をつぶるマスコミどもの卑劣さは、もはや救いようがない。馬鹿なニュース・ステーションの解説者は、このような事態にいたっても、「知る権利はある」と強弁する。
死も悼まずに、自己保身
その解説者は、同時にこう言った。
子供が、自分の好きなおもちゃをいじりすぎて壊してしまう
のと同じだ。このままでは、法的な規制だなんだという話に
なる。
軍と慰安婦との関係を「役所と、その中の食堂のような関係だ」と発言した「自由主義史観派」を「不謹慎だ!」とヒステリックに騒ぎ立てる、テレビ朝日を始めとする「自虐史観派」と違い、私は、「ダイアナ妃のことをおもちゃなどと表現するなんて不謹慎だ!」などとは言わない。そんな低レベルの揚げ足取りをしなくても、連中の馬鹿さ加減は明らかであるからだ。
つまり、この解説者はダイアナ妃のことを、「マスコミに一方的にいじくられるだけでいるのが当然の存在」としか考えていないのだ。何しろ、おもちゃは子供に利益を与えても、おもちゃは子供から利益を決して受けないのだから。そして彼女の死を悼む前に、また、自分たちマスコミの責任を見つめ直す以前に、自分たちが被るかもしれない「規制」という不利益についてのみ心配し、視聴者に垂れ流す。この解説者の、そしてテレ朝の非人間性は、もはや誰の目にも明らかであろう。
さらに度し難いことにこの非人間は、ダイアナの死を、「自分たちがいじくれるおもちゃが、他人に壊されてしまった」という理由からしか、惜しいとは思っていないのだ。死そのものを悼んでいるのではない。おもちゃが無くなったことを口惜しがっているだけなのである。実際、「惜しい方が亡くなりました」の一言も無かった。
ニュース・ステーションを始めとする電気ハイエナどもが、ダイアナ妃のことを単なる「おもちゃ」と思いたいのなら、勝手に思っているがよい。我々は、彼等の低劣な根性を叩き直してやるだけのことだ。
マスコミは、今回の事件を早いところ忘れ去りたいことであろう。いや、彼等の非人間性からして、どっちにしろ自然に忘れてしまうに違いない。何しろ子供であるマスコミは、壊れてしまったおもちゃのことなど夢に見るはずはないのであるから。次の日には、新しいおもちゃを見つけ、また壊すまでいじくる、それが子供というものなのであるから。
大人は、子供にいくら言い聞かせたところで、おもちゃを壊さないように自制を求めることは出来ない。どうしても壊して欲しくないのならば、おもちゃを取り上げて、「外で遊んでこい!」とでも叱り付けるしかないのだ。
なかみや たかし・本誌編集委員