年貢は納められるか?(その2)


                            中宮 崇


マスコミはダイアナの死を熱望していた!


 9月1日のニュース・ステーションで、事件の前に収録された、あるパパラッチのインタビューが放映された。彼はその中で、


   「彼女が事故を起こしたら、(その写真は)高く売れる。そう
   いう瞬間を、常に逃さないようにしている」


と言っていた。これは多かれ少なかれ、マスコミ人、少なくともパパラッチの本音であろう。

 そんな中で、ダイアナ妃が傷だらで倒れている姿を収めた写真が、ドイツの新聞の紙面を飾った。「マスコミの良心」なるものに任せた結果がこれである。

 そもそも、パパラッチは今までに少なくとも3回、ダイアナ妃に交通事故を起こさせていたのだそうだ。それらの教訓は、残念ながら生かされることはなかった。

 ダイアナ妃らを死に追いやった、ここにいたってもなお、マスコミは「報道の自由」をがなりたてる。人を死に追いやることが「報道の自由」だと言うのなら、そんな「自由」など、早いところ無くしてしまうべきだ。

 大体、普段は「人の命は地球よりも重い」などと思い込んでいる日本のマスコミが、地球より重いはずの人命を犠牲にしてまで「報道の自由」なる権利を主張するとは、まことに奇妙なことである。

 彼等は、「パパラッチのような行為が、政治家の不正を暴くことだってある」などと強弁する。はてさて、「政治家の不正を暴くこと」は、人命よりも、つまり地球よりも重いのであろうか?マスコミ人の御都合主義と不誠実さが実に良く現われている。

 そもそも、政治家の不正を暴きたいのなら、政治家を追いかければよいのだ。ダイアナ妃を追いかけて、どのような「不正」が暴かれると言うのだ?彼女のレオタード姿やトップレスの写真を盗み撮ることが、「不正を暴く」ことにつながるのか?馬鹿も休み休み言うがよい。

 だいたい「権利」とは、誰かの福祉を増進させるために存在するものである。全ての人を不幸にするような類の「権利」など、生き残ることは出来ない。

 では、ダイアナ妃らを死に追いやった「報道の自由」なる「権利」は、一体誰の福祉を増進させたのであろうか?明らかに、マスコミであろう。マスコミは、自身の幸福のためだけに、「報道の自由」を振りかざしているのではないのか。

 「報道の自由」が、例えば政治家の汚職を暴くために用いられたのであれば、マスコミ以外に、市民の福祉も増進させられたことであろう。しかし今回の場合は、全くそうではない。

 事故の直後、嘆き悲しむイギリスの市民に詰め寄られたパパラッチは、「我々には報道の自由がある!」と、破廉恥にもわめきたてた。報道の自由のためなら、若くて将来ある女性を死に追いやっても構わないとでも言うのであろうか?実際、冒頭の発言からも分かるように、そう思っているのである。

 連中のような独善的なエリート主義者の手にかかると、「報道の自由」の前には法を侵すことさえ許されるのである。盗聴、盗み撮り、不法侵入と、何でもありである。

 「少年法を破るな!」などと言って、雑誌『フォーカス』を叩き、発売を阻止までした同じ連中が、「報道の自由の前には、法を破ってもよいのだ」と平気で考えているのだ。よほど特殊な脳の構造なのであろう。

 だいたい、フォーカスを叩いていたマスコミ自身が、実は少年法をさんざん破っていたのだから、このように恥ずかしげも無く低劣な自己正当化ができる姿勢は、もはや精神病理学の分析の対象であると言ってもさしつかえあるまい。

 しかも、あれほど少年法について騒いでいたマスコミは、今回はそれについて完全に頬被りしている。何しろ、プライバシーを暴いてよいかどうかの基準は、「公人か私人かだけである」などと平気でしたり顔で解説しているのだから。

 ということは、政治家の14歳未満の子供も、プライバシーを暴いてよいことになるのであろう。公人の子供ならば、煮ようが焼こうがやり放題、というわけだ。実際、ダイアナ妃の子供達のプライバシーは暴き放題だったし、日本でも、芸能人の子供が通う学校に忍び込んで盗み撮りするなどということは、日常茶飯事である。

 こうなると、マスコミの言うところの「プライバシーを暴いてよいかどうかの基準」なるものは、実は基準でも何でもなく、自分たちの都合によって時々刻々と変化する程度のいい加減なものに過ぎないのだということが分かる。

 そのようないい加減な、基準も何も持たない御都合主義の族に判断を委ねた結果が、ダイアナ妃の傷だらけの写真の掲載という事態を招いたのだ。これも「報道の自由」だとでも言うのか?


 私は今の時点では、「マスコミを規制せよ!」などとは言わない。そんなことは今までも常に言ってきたことであるし、そうである以上、たとえ今それを主張したとしても、朝日新聞がよく言うような、「拙速に結論を下すべきではない」などという、全く無責任な戯れ言を浴びせ掛けられるいわれはない。

 しかし、それでもなお、今は規制を主張しない。何故なら、マスコミのような非人間たちと違い、我々には人間の心があるからだ。

 ごく普通の人間の心を持っているならば、今最も優先されるべきことは、ダイアナ妃らの死を悼むことだということは分かるはずだ。もっとも、人の心を持たないマスコミ人達は、彼女らの死を悼むどころか、「規制はいけない!」などと、自己の保身のみに汲々としているが。

 彼女は、数多くの業績を、イギリス国民だけではなく、我々にも残して逝った。寄付の呼びかけさえも「マスコミを利用した」などと批難するようなマスコミ人達は認めたくないであろうが、彼女の死によって、彼女自身の幸福はもちろんのこと、我々に更にもたらされたかもしれない数多くの業績も、同時に失われたのである。

 今我々がするべきこと、それは、彼女の死体にハイエナのごとく群がるマスコミ人を追い払いつつ、その死を厳粛に受け止めることではないだろうか?ハイエナに年貢を収めさせるのは、その後でもできるのだから。

 イギリス政府は、葬儀の際に国民に、一分間の黙祷を呼びかけるという。イギリス人ではない我々が同調しても、何の不都合はなかろう。しかし、我々に黙祷を呼びかけるマスコミは、一つもない。


                              なかみや たかし・本誌編集委員


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