つまみ食いと食あたり


                            中宮 崇


不躾なガキには、一発のはり手を!


   運転手はパパラッチを、「追いついてみろ!」と挑発して急
   発進した!


朝日新聞は書きたてた。


   運転手は泥酔して、足取りもおぼつかなかった!


ニュース・ステーションは、がなりたてた。


   パパラッチは、車の後方を走っていただけ!


NEWS23は垂れ流した。

 マスコミはどこも、以上のような、自分たちの保身に都合の良い未確認情報を、これでもかとばかりに撒き散らした。ところが周知のように、これらはみな、大嘘であった。

 先日、ダイアナ妃一行が事故の直前に訪れたホテルの、防犯カメラの映像が公開された。一行が到着してから出発するまでの映像が収録されていた。そこには、「泥酔して歩くこともおぼつかなかった」とされていた運転手が、一行をロビーで「しっかりした足取りで」待っていた姿も収められていた。また、出発時の映像には、運転手が「追いついてみろ!」などと叫んで急発進している映像は認められなかった。マスコミは、嘘をついたのである。

 当初からあった、ある目撃証言によると、車を追跡していたパパラッチ達は、まるで示し合わせたかのように車を前後から取り囲み、運転を妨害していたという。それどころか、前方から運転席に向かって、激しくフラッシュもたいていたというのだ。「パパラッチは後方から追跡していただけ!」というのも、相当疑わしくなってきている。マスコミはこの証言をほとんど無視することによって、情報操作をしてきたのだ。

 欧米に限らず、日本のマスコミも、未確認情報の中から、以上のような、自分たちマスコミの立場を擁護するようなものばかりをつまみ食いして撒き散らすような行為を破廉恥にも繰り返してきた。その犯罪性は、サリンを撒き散らしたオウム真理教に匹敵する。何しろ、「自分たちは公正中立である」などと常日頃主張しているマスコミ連中が、マスコミに都合の悪い証言・証拠は無視してきたのであるから。

 同じ未確認情報でも、マスコミに都合の悪い、「パパラッチはダイアナらを見捨てておいて、写真だけ撮っていた」とか、「現場から逃走したパパラッチがいた」といったようなものは、ほぼ完全に黙殺された。マスコミの行ってきた悪質なつまみ食い行為を崩すような、以上のような新証言や新証拠も、軽く触れられているだけに過ぎない。

 この傾向は、週末の時点でも、何ら変化していない。パパラッチの暴挙の目撃者は取り上げられなくても、責任逃れするパパラッチどもの言い訳インタビューは、連日垂れ流されている。

 現場で救命活動をした医師の証言によると、事故直後の現場には、十数人のパパラッチが、フラッシュを焚いていたそうである。

 この証言が正しいとするならば、血にまみれたダイアナ妃を放っておいて現場から逃走したハイエナが、十人近くも存在することになる。実際先日、追いつめられて逃げ切れなくなったと観念したのか、パパラッチ3人が、新たに警察に出頭した。

 この3人のハイエナを取り調べても、もはや手後れであろう。たとえ彼らが、血まみれのダイアナ妃の写真を撮っていたとしても、既に札束に変身してしまっているだろうし、その証拠も隠滅されているであろうから。だからこそ、出頭してきたといえる。ハイエナどもが、「お宝」を抱えたまま出頭するはずがないのだ。

 今週号で何度も暴いてきたように、マスコミは、ダイアナ妃の名誉を何とか傷つけ貶めようと躍起になっている。狂暴卑劣なマスコミに対する市民の批判をかわすために。

 そのような方針は、事件発生当初から存在していたのである。事件発生当初、病院に運び込まれたダイアナ妃について、「意識ははっきりしている」などという大嘘を平気で垂れ流していたのであるから。卑劣なるマスコミは、恐らく後日、「ダイアナ妃の死は、病院の医療ミスである!」という批判でもするつもりであったのであろう。そうでないのならば何故、「これは未確認情報である」という注釈を入れなかったのか?たとえそのような悪意が背後になかったとしても、「事件は俺達マスコミのせいではないんだ!」という、偏向した暗黙の意志が働いたことは、間違いなかろう。ちなみにマスコミは、この虚報を未だに訂正しておらず、それどころか今や、どこも触れようとさえしていない。

 マスコミは、ダイアナ妃らを死に追いやったこの期に至っても、「報道の自由」を弁じたてる。しかしそれは、何のための自由なのか?ここで見て来たように、市民に真実を伝えるためのものではないことは明らかだ。自分たちの財布をふくらませるために市民を欺くための「報道の自由」なのである。「正義の仮面を被ったハイエナ達」、それが連中の本質である。


 汚い手でつまみ食いする餓鬼が、食あたりを起こすのは、当然の報いである。ましてや、普段から親に「手を洗いなさい!」と注意されていた上でのことなら、なおさらだ。

 しかもこの餓鬼は、自分だけ腹痛で苦しんでいるだけならまだしも、「俺がこんなに苦しんでる責任は、うまそうなものを目の前に置きっ放しにしていたやつらのせいだ!」などと言って憚らない。このようなクソ餓鬼に必要なものは、もはや、愛情に満ちた忠告の言葉ではない。一発のはり手だけである。


                              なかみや たかし・本誌編集委員


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