映画いいたい放題

         『コンタクト』


                            中宮 崇


 いきなりではあるが、この映画についての評価。見なさい。すぐに映画館に向かいなさい。以下は、言ってみれば愚痴である。原作を読んだ方以外には、それほど役に立たないかもしれない。いや、それどころか、映画を見る前に以下をお読みになるのはお止めになった方が良いかもしれない。

 映画に限らず、映像メディアは実に下らない。そして同時に、すばらしい。これは何も、相反することではない。

 映画(に限らずドラマ、アニメなども)には、原作やノベライズなどの、活字化されたものがあるのが普通だ。それらと比べた場合、視覚を媒介とした映像というものの限界を思い知らされざるをえない。もっとはっきり言えば、原作より面白い映画などというものに、私は出会ったためしがない。

 映画を見た後原作に触れるのであれば、まだ救いはある。前後が逆であった場合は悲惨だ。原作の知識があり、そこから様々なイメージを膨らませるという精神的作業は、映画を見る上でなんのプラスにもならない。マイナスばかりである。

 まずは、映画のアラがやたら目に付くようになる。「この俳優は、イメージと違う!」というミーハーなものから、「なぜあのシーンを削ったのか!」というものまで、およそ「映画を楽しむ」という態度からは程遠いものに、2時間もの間支配される。もっともこれは、私のような、精神の余裕のない卑しい者に限ったことであり、他の人々には当てはまらないのかもしれないが。

 『コンタクト』も残念ながら、例外ではなかった。原作の深みと重みには遠く及ばない。それでもなお、これは映像メディアとしてはすばらしい映画である。

 人間の想像力の豊かさと、文字メディアの(映像メディアと比較しての)情報量の優位性を考慮した場合、「原作に比べて映画は面白くなかった」というのは、極めて不当な評価である。そういう不当な比較を排除すれば、『コンタクト』は間違いなくすばらしい。

 しかしそう言いつつも、私はまだふっきれていないので、どうしても原作と比較せざるをえない。皆さんには、そのあたりをご容赦頂きたい。

 時は現代。幼少の頃から天空の星々に興味を持ち、ついに念願の電波天文学者となったエリーは、学会からの圧力と奇異の目をものともせず、ついに念願の、異星人からのメッセージを電波望遠鏡で受信した。単純な素数の羅列として宇宙を旅してきた電波は、地球から26光年先の、琴座の若くて明るい星、ヴェガから送られてきたものであった。

 分析が進むにつれ、単純な素数の羅列としか思えなかった「メッセージ」の裏には、様々な意味が隠されていることが分かってくる。適切な処理を施すとそこから、映像と音声のデータを分離することができた。映像に映るその人物(異星人ではなく、まぎれもない人類である)は、自己陶酔に浸った大袈裟な身振りをまじえて、こう叫んでいた。


   「われらが祖国に集まった全世界の代表を歓迎し、ここに新
   時代のオリンピック大会の開幕を宣言する!」


 異星人は、26光年先の隣人から「漏れ出した」初期のテレビ放送用電波をキャッチし、また発信元に送り返してきたのだ。1936年ベルリンオリンピックで演説をぶつ、アドルフ・ヒットラーの映像を。

 異星人の全く悪気のない「お隣りさん、聞こえたよ!」というメッセージに、決して小さくはない衝撃と、祖先の野蛮性に対するいささかの後ろめたさを感じつつ、人類は更に多くの隠されたメッセージを、素数の羅列の中から抽出して行く。そしてついに、原理も使用目的も分からない、「マシーン」の設計図を抽出することに成功する。

 アメリカは、「これは、ヴェガ星人版トロイの木馬では?」との疑惑を持ちつつ、「星間輸送機」ではないか」というあやふやな期待を頼みに、数千億ドルもの巨大プロジェクトにゴーサインを出す。

 「マシーン」の製造は、特に宗教界を大いに刺激する。テレビ伝道師による批難に始り、新興宗教のデモや脅迫。そしてそれはついに、狂信的カルトによる爆弾テロに発展し、完成間近であった「マシーン」は、搭乗予定者でありエリーの恩師で、かつ最大の敵であったドラムリン博士とともに粉々に吹き飛ばされた。

 プロジェクトの頓挫に絶望するエリーに、大富豪で実業家、そしてエリーの昔からの支援者であるハッデンは、「北海道で秘密裏に造ったマシーンに乗らないか?」と、「ロシア政府の好意でいそうろうしている」宇宙ステーション・ミールから、いたずらっぽい笑いを見せるのであった。

 エリーは意気揚々と「マシーン」に乗り込み、信じられない体験をし、そして無事帰ってきた。しかしそこには意外な結末が…。


 映画のあらすじは、こんなところである。

 さすがに、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』などで有名なロバート・ゼメキスの作品だけあって、映像は一級である。テレビの評論などを見ると、「マシーン」の作動場面の迫力にばかり目が行っているようであるが、私はそれよりも、オープニングの素晴らしさに引き付けられた。周回軌道から見下ろす青い地球。一つ一つを聞き取れないほどの各種の電波が(もちろん音声で)やかましく流れる。やがてそこからゆっくりと離れて行き、それとともに電波の種類は徐々に減って行き、内容も昔のものに溯って行く(地球から離れれば離れるほど、昔の電波をキャッチすると言うわけ)。ケネディー暗殺、ルーズベルト演説、そしてヴェガに到着したときにはベルリンオリンピックの音声が…。

 本作品は、娯楽作品として優れているのはもちろんであるが、それ以上に、SETI(地球外知的生命探査)推進と資金集めのためのコマーシャルとしても成功している点に注目するべきだ。気まぐれで途切れがちな政府予算と、奇特なパトロン(かのスピルバーグも、その一人である)の善意と懐具合に依存せざるをえなかったSETIは、今後(少なくとも今よりは)優遇されることになろう。その意味でこの映画は、人々のエイリアン恐怖症を緩和した『未知との遭遇』や『E.T.』に匹敵する貢献を、人類にもたらすことになるだろう。

 原作者のカール・セーガンは、NASAの宇宙探査計画や惑星探査計画にも数多く携わった、本物の天文学者である。残念ながら既に故人であり、映画の完成を目にする事はできなかった。

 小説を書くなどというところからも分かるように、彼はただの天文学者ではなかった。もう十数年前のことになると思うが、彼の企画した『コスモス』という、宇宙ものの科学番組シリーズは、全世界の人々を宇宙の虜にし、SFフリークと科学者の卵を大量生産した。何を隠そう、当時ハナタレこぞうであった私もその一人である(もちろん、SFフリークの方)。

 彼は、科学の素晴らしさを大衆に伝える伝道師であったと思う。そしてそれ以上に、人類の小ささと素晴らしさを同時に説く革命家であった。実際彼は、反戦運動に何度も参加し、逮捕歴もある。また、核戦争の危険性を警告した『核の冬』の著者であり、この文字通り寒気のする言葉を全世界に広めることになった張本人でもある。

 当然『コンタクト』にも、彼のそういう思想やライフスタイルが反映されているはずなのだし、現に原作では濃厚に反映されていた。しかし、映画化に際して「セーガン色」は、相当(私に言わせれば「無残」なまでに)払拭されてしまっている。私は、少なからずの皮肉を込めて、それを「インディペンデンス・デイ化」と呼ぶ。

 映画『インディペンデンス・デイ』は、ある日宇宙人が突然攻めてきて、ホワイトハウスや摩天楼を吹き飛ばし、勇気と叡智に満ちたアメリカ人が、敵から分捕ったUFOから複葉機までありとあらゆるもの(核兵器も)を使って反撃し(最後には、大統領まで一パイロットとして戦う)、ついに独立を勝ち取るという、極めてアメリカ人中心主義的で、荒唐無稽(でも、面白い(笑))な作品である。

 国際的友愛主義を貫いていた原作に反し、映画『コンタクト』は、アメリカ中心主義がかなり前面に出てきている。セーガンがこれを見ていたら、憤死していたに違いない。

 まず、原作では国際的協調によりメッセージ解読と「マシーン」製造がなされていたのであるが(マシーン・コンソーシアムなる国際組織が設立されていた)、それらがほとんどカットされ、アメリカ一国で全て(とは言わなくても、ほとんど)をやったかのように描かれている。製造に関わっていた日本企業をアメリカ資本が乗っ取っていた等という、原作には全くない設定までわざわざ加えている念の入れよう。

 「マシーン」の乗員も、原作では国際色豊かな5人が乗り込んでいるのであるが、映画ではなぜかアメリカ人のエリーのみ。

 それにもまして許せないのが、原作における史上初の女性アメリカ大統領(夫の肩書きは、「ファースト・ジェントルマン」)の代りに、何と現職大統領のクリントンが出演しているのだ(御本人の許可なく、勝手に映像を利用したらしい)。

 また、異星人とのコンタクトに負けず劣らず原作では重要なテーマであった、人間の精神の内面とのコンタクトという重要な部分が、これも相当部分が削除され歪められてしまった。

 エリーが自分自身の心の内とコンタクトするための重要な背景設定であった、母と義父の存在は、映画では完全に無視された。母はエリーの幼少時に既に死亡しており、当然のことながら義父も存在しない。その結果、異星人とのコンタクトばかりに気を取られ、身近な人々とのコンタクトをおろそかにしていたことに苦しむという、原作におけるエリーの姿は、映画では全く描かれない。

 同様のことは、エリーの(クソッタレた)師であり、彼女の(彼に言わせると「夢想的で非現実的な」)研究生活を邪魔し、そのくせ功績を横取りしたうえ、不誠実さと政治力によってまんまと「マシーン」の搭乗員におさまった、ドラムリン教授の描き方についても言える。

 映画では彼は、ただの嫌な奴である。そして嫌な奴のまま、自己顕示欲のゆえにテロに巻き込まれて、エリーに異世界へのチケットを譲り渡した。しかし原作では、それほど単純ではない。嫌な奴には変わりないが、それだけではなかった。象徴的なのは、彼の死の描き方である。エエカッコしいで「マシーン」のテストに首をつっこんだ挙げ句、テロに巻き込まれて死んでしまった映画と違って原作では、エリーを爆発から護ろうとして死ぬ。これにより彼女は、嫌な奴にすぎなかった師について思いを巡らせるとともに、彼の死によって「私が彼の代りに行ける!」と考えてしまった自分自身に嫌悪の念を抱く等の(映画ではほとんどカットされてしまった)心理描写が成立しているのである。

 また、ハリウッド映画特有の病理であるが、余計なラブ・ストーリーを挿入している。原作ではエリーと宗教・科学論争を闘わせ、それによって科学と同じぐらい宗教も重要であることを読者に伝えることになるパーマー牧師が、優男として描かれた挙げ句、何とエリーと恋仲になってしまっていた。これは原作に触れた人間には到底容認できることではない。更に許し難いことに、肝心の宗教・科学論争が、全くカットされているのだ。よき論争相手であり、科学と宗教の橋渡し役であったパーマー牧師が、映画では、野生的で女ったらしの宗教担当大統領補佐官にされてしまっている。

 そして一番脱力したのは、エリーの後援者であり富豪の変人ハッデンの描き方。これは原作と相当異なるエンディングにも通じるのであるが、「全ては無駄であった」的な描き方になってしまっている。

 エリーの体験にもかかわらず、なぜかすべての証拠が(恐らく異星人によって)意図的に消去され、誰も彼女の新世界旅行を信じてくれず、挙げ句の果てに政府からは公聴会で「科学者による手の込んだ陰謀」呼ばわりされてしまうというエンディングは、確かに、公聴会会場前に集まった群集の熱狂的な励ましと支持の声というシーンがあるものの、原作のエンディングとは完全に異質であると言わざるをえない。ハッデンもミールで、エリーの帰還直後に、ただ死んでしまう(彼はそもそも、ガンの進行を遅らせるためにミールに居たのだ)。そして電波天文台の閑職にまわされたエリーの、精神的満足感だけに満たされた姿とともに、映画は終わる。

 原作では、もっと現実的な「達成感」があった。エリーは映画同様に閑職にまわされるが、異星人から教えてもらった「より偉大なメッセージ」を捜す作業を続けることができた。そして変人ハッデンは、ただガンで死ぬのではなく、財産、地位、名声の全てを捨てて、冷凍睡眠モードの片道星間旅行に飛び立って行くのである。エリーにもハッデンにも、原作では映画と違い、破天荒ながらある種の希望の光を将来に見出すことのできるエンディングが与えられていたのである。

 結局のところこの映画も、ハリウッドに巣食うアメリカ中心主義の影響を免れる事はできなかった。しかしそれでもなお、映画を通じてセーガンが人類全体に呼びかけているメッセージの重みは、相当な物がある。いやはや、大変な人物を亡くしてしまったものだ。


                              なかみや たかし・本誌編集委員


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