現代を生きる
人生は無意味だ。命に価値なんてあり得ない。僕は、これをここ数年間自分の基本原理してきたように思う。だからといって生きる必要はないとは思っていないし、命を否定するつもりもない。つまりそれぞれ、普遍的価値なんて存在するはずがないと言いたいのである。僕が言うまでもなくこの時代において容易に理解できる事なんだけど。「人間は一つの受難である」とサルトルはいったらしい。そう、生きる事は当然しんどい事なんだと思う。「生きてるだけで価値がある」なんて子供騙しな台詞なのか。地球規模で見れば弱肉強食は極ありふれた日常なのである。自殺大国のこの日本では、それだけ生きるための能力の欠如した人間が多いと言う事なんじゃないんだろうか。そして余りにも莫大な情報が僕らを包んでいる。情報の質も優劣が激しい。しかし、人はそれ事体個別な存在であるが故に、情報事体自分自身で咀嚼して行かなければいけない。与えられた規制の価値観を鵜呑みにする事は重大な危険性を伴う。それができない人は、極限られた価値観の中で現実とのギャップに苦しみ、人を傷つけ、また自ら命を絶つ。またある者は虚無感の埋め合わせに新興宗教にはしる。刹那的には楽しめるのに人生となるとそれは同義でない若者。
社会事体が成熟し物質的にも恵まれたこと事体、それはとても有意義な事だと思う。あらゆる事が物理的に短縮され人間が持ち得る時間が飛躍的に拡大したことは言うまでもない。しかしそれがもたらした闇は余りにも大きくなってきた。
生きて行く上で何もかも無意味に思える事がある。それは、まぎれもなく事実でそれから目をそらしてはいけない。先送りにしても消える事なく付きまとうだろう。認める事から始まる。その上で自分にとっての生をじっくりと考える必要があるんだと思う。ある本で読んだアサガオの面白い話がある。「アサガオは朝の光と暖な温度では咲くには不十分である。逆にそれに先立つ夜の時間の冷たさと、闇の深さが不可欠である。」無意味だと考え悩んだ事によって、より自分にとって有意義な人生を送る事ができるのではないか僕はそのように考える。
ここまで書いて読み直してみるとあたかも自分に言い聞かせているようで、改めて自分自身 生(なま)な体験を積み重ね日々精進して行かなければと思う。
見やすいページ 僕のページは写真のページだ、そこで重要になってくるのは、『写真をいかにして見せるか』これはなかなか、難しい。できるだけ写真を大きくみせたい。だけど、大きくすれば容量が大きくなって、読み込みに時間がかかり見る人は待ってられない。しかし、こちらとしては、大きくしないとあまり意味がない。どうしたものかと思っていると、ふと気ずくことがある。他の人のページでは、画面が大きくて綺麗に描写された画像をあつかっているページが多いことだ。(アダルトページを見ていて気がついた。)そこで、僕は、色々圧縮方法でどれだけ違うかとかやってみた。その結果よかった方法は、JEPG圧縮する方法である。まず、あらかじめ展示したいサイズより1.5倍の大きさで画像を作っておく
。そして、圧縮率を0(一番圧縮する)にする。画像はかなり悪くなるが、最初から1.5倍で作っているので、展示する時にもとのサイズに戻してしまえばある程度カバーできるのである。そうして作ったページがPHOTOページの中国編である。興味があれば見てみると良いかも。でも、気ずくのが遅すぎたかな。
生き方 最近僕のまわりは、就職ラッシュだ。職種はひとそれぞれで、これからの自分の将来を考える上で重要な分岐点である事は間違いないだろう。思えば約2年半前。僕は、流れるままに生きていくのは嫌だと思いこれまでほとんど触った事もないのに、カメラで稼ぐと決め専門学校行きを決意しました。あの時全く違った道もあったんだけど、勉強の馬鹿馬鹿しさとちょっとした気まぐれで写真になったんです。ということは、2年半後に自分がどうゆうことしているかなんて想像できないですね。そうそう、僕が言いたいのは、「自分が何をやりたいかわからんは」という人にアドバイス。なんか自分の中から湧いて来るとでも思ってんでしょうか?決めましょう。「これに決めーた。」っと言ってしまいましょう。友達の間でこういう会話を耳にするようになり気になったので・・・っと言いつつ、我が身を振り返る。
サスペンス映画 最近きずいたことだけど、僕はサスペンス物の映画が好きみたいだ。「セブン」「8mm」はとても面白かった。まあ、二つとも同じだったけど結局。「8mm」のほうは、なんかリアリティーにかけてた。あんなに真相を開明したいと思うのかな。僕だったら恐いからもっと堅実な方法を探すけどなあ。例えば警察に行くとか。最近では警察も何考えてるかわからんけど、神奈川県警とかさ。
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