シンガポールのじい様
シンガポールのインド人街でのお話です。
何気なく入ってみたその大きな建物は鶏が取引されている市場のようで、中に入るなりタミル系シンガポリアンが大きな包丁をナタのようにふるってブツブツと肉を処理している姿が目に飛び込んで来ました。
まるで体育館のような建物の中は鶏のナマ肉の匂いで一杯でしたが、端の方には幾つかナマ肉以外(笑)を売る屋台も出ていて買出しに来た人やここで働く人が食事を取れるようになっているようでした。腹を空かせていた私も早速その店のひとつに並び、ここは迷わずチキンカレーを盛ってもらって座れる席を探しました。昼時ということもあってかなり混んではいたのですが、中国系のじい様とインド系のおっちゃんが何事か話しながら食事をするテーブルに空いた席を見つけ、ちょっと会釈して合い席させてもらいました。
チキンカレーはまあ普通に美味しかったのですが、3分の1ぐらい食べ進んだ頃でしょうか、じい様が笑顔で中国語(それがマンダリンであるのか福建語であるのか、あるいは広東語であるのか、それは見当もつかなかったけれど。)で私に話し掛けてきたのです。
どうも、地元の者と間違われたのか、あるいは台湾などからの旅人に見えたか・・・。少なくとも日本人観光客には見えなかったようで(笑)。このことについては、この後の旅行でもしっかり実感することになりますが・・・。
とにかく、私が笑って「中国語がわからない」というと、不思議な顔をして、「では、どこからきたんだね?」と今度は英語で尋ねてきます。日本からだ、と答えると、じい様は嬉しそうに笑って、驚くべきことに今度は何と日本語で話してくるではありませんか!!そして、驚く私を尻目に隣のインド系のおっちゃんには時折タミル語(だと思う)で私とのやり取りを説明したりしているのです。シンガポリアン達は平気で4ヵ国語ぐらいは話せてしまうと聞いていたが、目の前でその鮮やかな切り替えを目に(耳に?)するとやはり感心してしまいます。
太平洋戦争初期ににシンガポールを占領した日本軍は日本語以外での教育を禁じたので、じい様はしっかり日本語を習わされたのだと言います。じい様は久しぶりに日本語を話せることが嬉しいようで、私の家族のことや旅のことをニコニコしながら質問してきました(中国系シンガポリアンはわりと他の東南アジアの人々に比べて無愛想な人が多い気がしていたのですが・・・。)。話せば話す程、忘れかけていた日本語を思い出していくようです。
そして、「ほんとうにあなたは日本語を上手に話しますね。」と感心する私に、やがてじい様はショッキングな話を始めました。
「戦争の時にはね、中国語を話すと憲兵に殺されたのです。私の父も兄も、名前を日本語に変えなかったので憲兵に首を切られ殺されました。」、と言って、手刀を自分の首に当てるじい様。
まるでなんでもない懐かしい昔話をするように。その穏やかで人懐こい笑顔は変わらず、日本人である私を責めるでもなく、。
じい様はその後も笑顔で日本軍の占領下にあった頃について語り続けましたが、私はどういう顔をして聞いていいのかわかりませんでした。そして、その話について日本人の若者の私が複雑な胸の内を彼に話すには、その日本語はきっと彼にとって難しすぎ、英語でそれを表現できるだけの力は私の方にありませんでした。
食事を終え、じい様がどこかへ行ってしまった後も、私は立つことが出来ずにそこに座っていました。太平洋戦争当時、シンガポリアン達は日本軍によるシンガポール占領をむしろ「イギリスの圧政からの解放」だと歓迎したとも聞いていたのですが、そうした中でも日本軍が中国や朝鮮で行なった非道と変わらないことをここでも行なっていたことを、それにより肉親を失ったシンガポールの人から、日本語で、笑顔で、知らされたことが、情報量以上の強烈なイメージをわたしに持たせていました。
「日本はまた強くなりました、しかし、戦争は二度としてはなりません。」
じい様は繰り返しそう言っていました。忘れられない笑顔で。
まだまだ旅慣れない頃の鮮烈な思い出です。