檻の中の朝食
といっても、ムショの中で飯を食ったわけじゃないですよ(笑)。
マレーシアの田舎での出来事です。
基本的に外食文化である東南アジアの国々において、「庶民の台所」的な安食堂や屋台は地元の人々が普段食べている安くて美味しいものにありつくことができる楽しい場所です。マレーシアの民族構成はマレー系の60%、中国系が30%、インド系が10%といったところで、それぞれの食文化が混ざり合い、豊かなマレーシア食文化を形成しています。私は朝早く起きてインド系の屋台か食堂に行き、鉄板で焼いたプラータという刻みたまねぎ入りの薄焼きパンと、コンデンスミルクが沈殿したとことん甘いミルクティーの朝食を食べるのがお気に入りの1日のスタートでした。プラータを頼むと、あらかじめこねてある柔らかいドゥを鉄板に延ばして焼いてくれて、焼き上がったのを(右手だけでも食べやすいように)ちょっと切り崩し、野菜がちょっと入ったカレーをひとすくいお椀に入れて一緒に出してくれます。このカレーをつけながら食べると、もう最高です。ありがたいことに、マレーシア中どこに行ってもこのメニューにありつけました。そして、2回、3回と通うと言葉はわからなくてももう店の人とは友達です。店の前を通るたびに、食っていけよ、と明るく手を振ってくれます。
さて、私はいつもと同じようにそんな食堂で仕事前の地元のおっちゃん達に混じって、お気に入りの朝食を食べていました。トタン屋根だけの壁もない造りなので、もちろん外からは何もさえぎるものがないのですが、中に座って道行く人を観察しながら「今日は何をしようか」などと考えながら食べる朝食はなかなか良いものです。
プラータを食べ終わり、もう1枚頼むかどうかお腹と相談していたところ、手前の道にわらわらと白人女性の観光客の集団が現れたのです。別に特に珍しくもありませんでしたが、次にとった彼女達の行動は私を驚かせることになりました。
彼女達は何か言いながらこちらに指を指すなり店の前に並び、こちらめがけてカメラを向け、一斉にフラッシュを焚いてきたのです。
一瞬何が起こったのかわからず私が驚いている間に彼女達はどこかへ行ってしまいました。初めはフラッシュに驚いただけだった私でしたが、落着くにつれて彼女達の行動の意味が自分なりにわかり、後からムラムラと怒りが込みあげてきました(フラッシュの標的になった朝食中のおっちゃんたちはというと、観光客のそんな行動には慣れているのか、ほとんど動じてませんでしたが・・・)。
簡単に言えば、(彼女らから見て)それが珍しいモノだったから撮りたかった、だから撮った、ただそれだけのことなんでしょう。何が彼女達にとって珍しかったのかは、知りません。壊れそうなボロい食堂?そして、そこで朝食をとるブルーカラー??それともプラスチックの器に盛られた素朴な料理???それともその全部・・・?しかし、何であったにしても彼女達にとってそれは珍しかっただけ、遠巻きに見ているだけで実際に触れないモノ、なのです。もしもそうでなくて、本当の意味での興味を抱いていたのならば、何故実際に中に入って来ようとしない?一緒に食事をしようとしない??話し掛けようとしない???やっぱり、珍しい「モノ」でしかないから写真を撮るのに何も断わりもしない。撮られる側のことなんてもちろん考えてない。私は、自分達が動物園の檻の中にいるのではないかと錯覚するような感じがしました。
そう、カメラを構える時の彼女達の目は「見世物」を見る目と同じだった。
別に、写真を撮る前にちゃんと断われ、とかそんなことを言ってるのではありません。どういう意味でカメラを構え、シャッターを切るのか、その意味が向けられた相手や周囲に伝わっていることを理解しているのかどうか、あるいは誤解を与えないのかどうか、写真を撮るならそれを考えなければならないんじゃないか。理解した上で、不愉快にさせるものでない、誤解も招かないとしっかり思えれば撮ったっていい。大抵の場合は相手や周りにもその真意が伝わるはず。
しかし、そうでない場合。
阪神大震災の直後に神戸市須磨区の被災地へ押し寄せた「見物客」が笑顔でVサインをつくって記念撮影をし、被災地は一変観光地に・・・という話を聞いたことがありますが、そういうレベルとどこが違うというのでしょう。人間なら、もし自分の行動の意味をちゃんと考えているのなら、愛する肉親を失った人が見ている前でそれが出来ますか??きっと彼らの目には、非日常的な珍しさを持つのであろう「派手にペシャンコになった建物」、という「表面」しか映らず、その「本質的な意味」、つまり、それを建てるのにかけた苦労、その崩れた下で失われた命と思い出、行く場所をなくした生き残った家族、再建するのにかかるであろう年月、は映っていません。
だから、撮る前にまず、それを見ている自分はどんな目をしているか、そして自分の目に映っているものの本質は一体何なのか、私達は考えなければならない。
写真を撮るのは全く悪いことではない。でも、私は檻の外から中を眺めるのではなく、自分がじかに触れたものを他の人に伝える手段として、あるいはそれを後で自分が思い出す助けとして、写真を撮りたい。そう思っています。
今も旅先で写真を撮る時に迷うことがよくあります。でも、撮ることで誰かが傷つくような写真だけは絶対撮りたくない、そういう思いを判断基準にしているつもりです。