京都シティハーフマラソン参戦記

京都シティハーフマラソン ☆ 結果=115位/5116人

記録=1:14’51”

LAP : 5km-10km-15km-20km
17'03"-35'02"-53'09"-1:11'09"
<LAP:17'03"-17'59"-18'07"-18'00"-3'42">
(自己記録更新ならず



[ INDEX ]

1.事前目標と調整方針 

2.京都入り(3月13日) 

3.レース当日・朝 

4.いざ、レース本番 



 
1.事前目標と調整方針
1)京都ハーフマラソンでの目標
記録的には、自己ベスト(1:14’13”=98.11.22/浦和ハーフ)の更新を最低の目標に設定した。
レース展開では来期につながるレース、具体的には、一段上のレベルでも走れるように、前半ハイペースで入ったとしても耐えられるレースを目指し、練習を積んできた。
2)京都ハーフに向けての調整(実験)
これまで経験したことのない、カーボローディングを実験した。

具体的プランは、丁度一週間前に一旦完全なまでにグリコーゲンを消費し、そこから大会本番までかけて蓄積させよう、というもの。

しかし実際は前週の土曜日には用事のため練習を休まざるをえず、しかたなく日曜日に食事摂取量を制限しつつハイペースでの25km走を実行した。この練習で、確かに”ふらふら”になるまで追い込むことが出来、一時的には予定の調整メニューがこなせた気がした。
しかし結果的にはこれが裏目に出てしまったのか、直前水曜日の刺激練習結果(記録ベース)及びその時の体調(これはあくまで感覚)を青梅マラソン前と比較すると、今一つの仕上がり状態だった。
2.京都入り(3月13日)
1)会場まで
      前日土曜日に新幹線で京都入り。もちろん、自由席回数券を格安チケット屋購入ケースである。私は人生の中でまだ自分で指定席を確保したことがない。どれだけ混んでいても自由席なんです。この貧乏性だけは一生治らないかもしれない。
新装なった(と言ってもずいぶん前だが)京都駅から市バスの5系統に乗って前日エントリー受け付けの会場まで乗り込む。道中、島根から来たという方とフランスからの招待選手と一緒になる。フランスにーちゃんも我々と一緒に受け付けフロアに上がったけれど、「あなたは有力選手だから、地下1階で別の手続きがあります」と言われてどこかに連れて行かれてしまいました。

あいその良いフランスにーちゃん、さようなら。頑張ってね。

    2)末広食堂にて
京都での学生時代、本当にお世話になったと思う場所が2つある。

末広食堂と北野塾。

ともにバイト先なのだが、丸3年間勤めた北野塾に対して、末広食堂での勤務年数は確か1年と少しだけだった。しかし留年して落ち込んでいた時も、大会で結果が出せず腐っていた時も、末広のおじさんは相変わらずの辛口批評で元気付けてくれた。本当に辛口コメントで参ってしまうが、いつも「そらぁ、そうですわ」としか言いようの無い真実を厳しく突いてくるので 嬉しいやら、悔しいやら。

でも厳しい評価を直接言われる機会の少なかった学生時代に、得難い恩人だった。

- - - - -

末広食堂のバイトは、私の4〜5学年上あたりから全員京大陸上部関係者だ。未だに現役諸君がバイトを続けているが、「今はもう短距離ばっかしやし、みんな真面目やし、ほーんまつまらんわ。何とかしたってーな」。

すんません、どうにも出来ません。
末広へは事前に全く連絡もせず、いきなり一般客として押しかけたのに、奥の座敷に上げてもらい、その上結局ごちそうになってしまった。
「申し訳ないけどファミコンの接続やったってくれへんかー?」
息子さん(現、中学2年生)のために1階のTVに接続されていたファミコンのケーブルを2階のTVに繋ぎかえる。これ位しかお手伝い出来ることがないので、息子さんに

「これはな、こういう風に接続すんねんで。TVのケーブルはな、こんな作りになっとんねんで」

と一通り教えて、自分でやらせて見る。 出来るやん☆えらいなぁー 褒めることも忘れない。あぁ、やっぱし塾の先生癖が抜けてへんわ、俺。でもこの息子さん、私がバイトを始めた頃は3才ぐらい?子供を見ると時間の経過が理解できて、ぞっとします。

食事も終わり、名残惜しいが、ひとまず末広食堂を辞去する。さぁ、2時間半かけて神戸の実家に帰らないと。
3.レース当日・朝
1)天気予報は「雨」 but 目覚めるといい天気!Lucky
京都ハーフのスタート時刻は午前9時30分。実家から会場まで2時間30分程度かかることから逆算して、実家を6時に出ることにしていた。目覚しは5時10分にセットしていたのだが、自分でも気づかない内に緊張していたのか、4時30分には「ぱっちり」目が覚めてしまった。
前日寝たのは12時前なのに・・
寝ようとしても、試合前だけは一旦目覚めるとぜーったい寝られない性質だし、そんな時間も無いのでポータブルCDの音量を気にしつつ聴いていた。
「そろそろ、5時かな?」
・・・という頃になって廊下をパタパタ来る足音がするな?と思ったら祖母が起こしに来てくれた。

ばぁちゃん、ありがとう。

未だ夜は明けていないが、前日の天気予報(=曇り後雨)が見事に外れて雲の少ない “The晴れ!” 気温も低くないようで、気持ち良いレース日和になりそうな予感だ。交通手段も、要らんというのに母がわざわざ主要駅まで車で送ってくれることになり、朝の大切な時間をゆっくり過ごすことが出来た。
昨日といい、今朝といい、ここまで色んな人たちに思われてしまうと、レースで失敗なんて、絶対出来なくなってしまう。

応援してくれる、支えてくれるっていうのは、たとえそれが間接的であれ、ましてや直接であればなおさら、本当に嬉しい。時々気負いすぎてプレッシャーになってしまうのが玉に傷なんやけどね。

2)スタートラインにて
・先輩発見!
・後輩発見!
いざ、スタートラインに並ぶと京大陸上部のユニフォームを発見する。するすると横に近づいて声を掛ける。大学院に通う津野君。「頑張りましょうね」と声を掛け合って、さぁ1分前だ。

周りは記録を狙う選手ばかり。緊張が走る。この雰囲気が市民マラソンと違い、一種独特の気持ち良さと怖さを運んでくる。

いざ、スタート。
4.いざ、レース本番
1)レース/前半
・2km通過−速すぎ
     
        スタート地点では最前列から数えて4〜5列目に並んでいたので、すぐ本番ペースで走り出す。平安神宮を抜けて御池通りに入ると、朝9時30分と早い時間にも関わらず応援がとても多く、嬉しいんやけどペースが自然と上がってしまった。

        こらまずい。

        事前の想定では、ゆっくりスタートして徐々にペースアップし、最初の5kmを17分少々で通過するつもりだったが自分の脚への制御が効かない。いきなり16分中盤のペースで入ってしまった。2km過ぎから意識的にペースを落とし、集団を行き過ごす。

「自分のペース、自分のペース」 取りあえず自分に言い聞かせながら。
      ・後輩と競る<4km-6km>〜身体が動かない
烏丸通りに入り、何人かに抜かさせている内に、横目に「白地に紺」のユニフォームが入る。ちょっと意外だったがスタート地点で言葉を交わした大学の後輩、津野君がここで追いついて来た。OBとしてここはすんなり抜かす訳にはいかない。折角自分のペースを取り戻しかけていたが、2kmほど彼と競る。5kmの関門通過は17分ぎりぎり。このペースが意外な程しんどい。

最初のハイペースのせいか、体調事体が良くないのか?烏丸通りから今出川通りに右折する所で津野君に振り切られる。

身体が重く、動かない。ペースがどんどん落ちはじめた。
2)レース/中盤
・加茂街道の上り+向かい風
今出川通りを左に同志社大学、右に御所を睨みながら通り過ぎる。

学生時代、雨が降ってグランドが使えないと良く御所でトライアルをやった。御所の中は走り慣れたものだが、今はそのすぐ外をとぼとぼと走るばかりだ。出町の交差点を左に折れると鴨川沿いを上流に向って走ることになる。だらだら上りの加茂街道だ。
大学1回生の冬に、この道をチャリで走って教習場まで3ヶ月通った。チャリで感じていたアップダウンは、自分で走ると意外な程厳しい。さらに川沿いでもあるため、向かい風が結構厳しい。ここで追いつかれた303番のおじさんとはこの辺りから18km位までずーっと競ることになる。ゼッケン背面に記載されている年齢が「42」とあり、意地でも負けられない!と思ったから、つらくてしょうがなかったけれど必死になって付いていった。

ペースはとうとう3’40”/kmまで落ちてしまったが、おじさんの後ろにぴったり付いて風除けにしつつ (ごめんなさい) 走る内に身体が徐々に動くようになって来た。

・北山通りの平坦なストレート
加茂街道では珍しい下りを駆け下りると東西に走る北山通り。
京都にある大学が競う京都学生駅伝のスタート・ゴール地点は北山通り沿いのノートルダム女子大学前だった。(今はどうか知らないが)中距離だった自分は長い距離が不得意だったので、いつも最短区間であるアンカーで北山通りを走っていた。そういえば1回生の時の走りが一番良くて、あとはジリ貧やったなぁ−ペースが落ちているので、妙に余裕がある所為か、レース中だというのに回想シーンが頭の中を駆け巡る。
10km関門を通過するが、加茂街道でのペースダウンがたたってこのスプリットは18分近くかかった。後方から何人かが追いついてきて、自分の周りが5人位の小集団になる。
北山から川端通りに入る所で京大陸上部の1年後輩、尾藤君の応援。ありがたし。
      ・宝ヶ池の国際会館で折り返し
川端通りから、全国高校駅伝の男子42.195kmコース折り返し地点で有名な宝ヶ池の国際会館を目指し、南北に走る白川通りに出る。ここで前から京大陸上部の伝統である蒼穹ユニフォームを着た選手が落ちてきた。最初は津野君かな?と思ったが違う選手だ。

「頑張れ!OBに負けてんなよ」 一声掛けて抜き去る。

彼が視界に入った事でなんとなく精神的にも回復してきた。白川通りから左に折れて宝ヶ池通りに入ると、これまた結構な人だかり。前から先頭の選手がやってきた。1位は黒人選手。2位は早田選手。3位の黒人選手のあとはずーっと間が空いている。しばらくすると、どっさり選手がやってきた。10000mの日本記録保持者、中山竹通選手(というか、先生だわな)が前の方にいて結構くやしい。あんなに年齢が上なのに、負けたくないが、そこは素質と練習量の差。しょうがない。

さすがに折り返しでは感動した。宝ヶ池周辺も学生時代のホームコースだったが、いつもTVで見ていたあのままにコースが設定されているのはランナーにとって本当に嬉しいやら楽しいやら。
津野君との差を確認する。そんなに離れていない。

さぁ、折り返し。

3)レース/終盤
・白川通りで15km通過
折り返して、宝ヶ池通りはしばらく下り。折り返しに向う選手を見ながら結構ペースが回復してきて何とか3’30”/km近くまで来た。右折して白川通りへ入ってすぐが15km関門。
この間のスプリットが一番落ちて18分を越えてしまった。情けない。
・昔の下宿前を死んだ状態で通過する−情けない−
白川通りを走っていると知った顔の応援が複数。
同期で主将だった山越君、コーチの井街先生。
山越君の応援には「あかん!14分台やわ」と答える。このままのペースだと1時間14分台のゴールがせいぜいだったからだ。
折り返して一旦上がったペースだったが、白川通りの微妙なアップダウンに脚が負けてきた。女子ランナー2010番に抜かれるも、無抵抗。こういう瞬間、沿道の人たちは当然ながら女子選手を応援するものなので、意気消沈してしまい、京都芸短の前のアップダウンで完全に失速してしまった。

この辺りは大学に入学したての頃下宿していた場所でとても思い出深い場所だ。そこをパタパタ完全に失速して下向いて走っている自分を全く情けなく思う。いやになる。ゴールまであと4kmを切った。銀閣寺道の交差点を過ぎてここからコースは本格的に下り。いくらなんでもこのままじゃいけない。

下りに入ってさすがにようやく火がついた。
      ・丸太町通り−ラストだ。
銀閣寺道−今出川と白川の交差点−を越えてコースは急に下り勾配になる。
この辺は学生生活の全てを過ごしたと言っても過言ではない場所だ。左に鹿ヶ谷のコンビニを見ながら前の走者を追う。ちょっと復活。前を走る女子の2010番まで追いつけるか?

最後まであきらめたくない。
このまま終わりたくない。

丸太町通りへ右折し20km関門を通過した所で、後ろに誰かが付いてきた。ここまで丁度18分かかっているのだから、追いつかれても仕方ないのだが、元中距離選手の意地、ラストでは絶対抜かせない。丸太町から岡崎通りに左折する時に一気にペースを上げた。
もうここからは1kmないんや、絶対抜かさせへん、前にも絶対追いついたる!
しかし中盤の失速が余りにも長く、前には男子選手は誰もいなくて ぽつんと女子の2010番 追い込んで、追い込んで、

あー ・・・ 追いつかない。

2010番に続いてゴールへだーっとなだれ込む。手元のタイムはやっと15分を切った程度。
本当に情けない、大失敗のレースだった。

5.レース後
レースを終えて、ふらふら歩いていると津野君がうずくまっていた。

「14分かかりました」

そうか残念、俺も15分ぎりぎり切った程度や。おつかれさん − 確かそういう会話を交わして着替えに行った。
事前の練習はこれまで社会人になってから参加したどのレースよりも積んでいただけに、結果を残せなかったことが悔しかった。レース直後は自分には珍しく、余り会話をしたく無かったのかも知れない。着替えると、意外な程、というか途中だらけたレースをしたのだから当然なのか、脚にダメージがそれ程無く、淡々とダウン。

元気そうな私を見咎めた(?)競技役員のおじさまに「ベスト出ましたか?」と聞かれたが、ゆがんだ笑顔で「もうちょっとでした」と答えるのが精一杯だった。

ダウンを終え、山越君宅へTelするが、細君が「森本さんを探しに会場に向っています」とのこと。携帯電話を持たない彼と果たして落ち合えるか、若干不安を抱きつつ会場を抜けた。
神宮道に出ると、見慣れた同志社のジャージを着た小西君(元中距離)を発見。銀行勤務の彼はつい最近まで関東に居たはずだったが、関西に転勤になったとのこと。小西君と話している内に山越君もやってきた。山越君は、私に声を掛けた後、清水先輩を応援しようと根気強く待ったそうだが、結局見つからなかったとか。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

こうして京都ハーフは終わってしまった。
調整に失敗したことも、前半のペース設定を守れなかったことも、全部自分の実力なのだから結果を真摯に受け止めるしかないのだが、くやしいものは悔しい。中盤、バテかけつつも最後にペースアップできたのは偏に京都ハーフのコース(=後半くだり)のお陰であるから、これは実力という訳にはいかないだろう。
あー、くやしいなぁ。
来年こそ。