(991003)

競技者の「やめどき」について

今年は自分にとって身近に感じていた同世代のスポーツ選手が相次いで引退を表明した年だった。

ボクシングの辰吉丈一郎選手、テニスのグラフ選手。共に世界で「番」を張っていた存在だ。
彼らが共に口にしたのは「肉体的/精神的な限界」だった。
陸上では長距離の大場選手。関西で競技をしていた自分にとっては、同学年でも一緒に走ったことはないが、同期で同じ種目(1500m)を専門にしていたということもあって、「頑張って欲しい」とずっと思っていただけに残念だった。
翻って、自分。
去年から陸連登録も再開し、再びきちんとトレーニングを再開して2年目だ。学生時代から現在に至るまで、精神的な限界を感じたことはあっても(大学卒業前)、肉体的な限界を感じたことはなかったし、その点については「壁を感じるまで鍛えたことはない。まだまだ先へ行ける」とずっと確信してきた。
それが、どうしてこんな表題の文章を書くつもりになってしまったのか?

突然そういう感覚が襲ってくるものだ、ということを実感したからかも知れない。自分自身でも結構驚いている。

このような感覚に襲われた一つの要因として、今年の自分が兎に角故障に見舞われてばかりだということがあるだろう。
−春先に腰痛を患い(現在治療中)、復帰戦で捻挫(現在快方へ向いつつあり)、練習再開とほぼ同時に左膝の関節炎再発(現在歩行障害あり)
だが、故障だけならばそれを機会として周辺部位の筋力アップや精神的な休養期間と捉えて、それこそ I shall return !! の精神で頑張って来られたし、行けるだろう。
しかし、自分自身の社会的地位と年齢、人生の転機を迎えつつあるような状況の中で、突然
「そろそろ潮時なのかな?」
という感覚が襲ってくるものだ、ということを昨日初めて体験した。
びっくりした。
どうしてそんな発想が浮かんでくるのか?自分自身に問い質して、漠然と上記理由が浮かぶだけだったが、そろそろ・・・ という概念がこんなレベルの選手にもあることに、ある意味嬉しくなった。
そして、折角大学卒業以来、長い間「ファンラン」として陸上を捉えてこれた自分が、最近シリアスランナー化してきていたことにも気づいた。
競技者である自分が、競技者という精神的に突っ張った異常な状態に疑問を抱いてしまった時。案外そんな疑問が、「やめどき」を示す証左なのかもしれない。
「いつまでも突っ張っておれるものじゃなし・・・」
常識のある自分が、自分を諭してしまう時 − 異常者が尋常な世界へ戻ることを決意するのだろうか。

さて、わたくし。
まだ、やめません。