吉田五十八(よしだいそや)

東京芸術学校(現東京芸術大学)出身の建築家。日本の数寄屋建築をかじったことのある者ならばその名を知らぬ者はいない。

1894年東京日本橋に生まれる。変わった名前の由来は、父が58歳の時にこしらえた子供だったからというのが定説。子供の頃からおもちゃよりも絵をかく道具や精巧な工芸品をほしがる芸術的早熟家だったらしい。19歳に東京美術学校図案科に入学。病気等の理由で留年し10年後の1923年、建築科に編制された年に卒業。麻布に吉田建築事務所を開くが、9月1日の関東大震災で焼失。その後ドイツ、オランダの新建築を見るためにロンドンに留学(ただの旅行だと思うのですが・・・)。ヨーロッパの歴史的建築に接し、逆に日本建築への回帰をうながされたらしい。しかし古典一点ばりの日本建築は建てるまいと心に誓ったそうだ。事務所を再開後は良き協力者とともに精力的に仕事をこなしていった。しかし職人の評判は今一つだったのではないのか?田辺棟梁などは、吉田とのつき合いに疲れてブラジルに行ってしまったらしい。のみで五十八を追いかけ回した職人もいたらしい。
1974年死去。享年79歳。

代表建築物
1936年 東京都新宿区 吉屋信子邸
1936年 静岡県熱海市 杵屋六左衛門別邸
1937年 静岡県静岡市 料亭 浮月楼 増改築 五十八結婚にまつわるエピソード有り。
1937年 静岡県静岡市 新間邸
梅原龍三郎アトリエ、歌舞伎座、明治座、吉田茂邸 他

弟子に大関徹らがいる。

吉田五十八賞も設立された。主な受賞者は
六角鬼丈 他

以上文章はあいかわけいでした。
参考文献 伊藤ていじ著作 他

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