霧のキスカ

 霧というとすべてを白い世界へと包み込む神秘的なイメージがある。しかし現実には視覚情報が隔絶されるため、判断を狂わせとくに山や海では多くの遭難事故を引き起こす。さらには霧に包まれて人や乗り物がそのまま行方がわからなくなる謎の事象すらあり、霧魔として恐れられている。ところがこの霧に包まれたおかげで数千名もの救出に成功した事例がある。

 第二時大戦中、アリューシャン列島のアッツ島に駐留する日本軍は、北方からの日本本土侵攻を計画したアメリカ軍に攻撃され、劣勢にもかかわらず果敢な反撃を展開していた。しかし、激戦に次ぐ激戦で日本軍守備隊は次第にその戦力を減じ、ついに五月二十九日、天皇陛下万歳を三唱の後に決別電を発信し、翌三十日にかけて最後の総攻撃を敢行、アッツ島守備隊は玉砕した。

 アッツ島がアメリカ軍に占領されたことにより、そのとなりのキスカ島では守備隊約6000名が完全に孤立してしまった。日本軍はこの守備隊を救出するべく「ケ号作戦」を発令、第一期作戦として救出に出動した第一潜水戦隊は、合計で約八百名を救出することに成功したものの、アメリカ軍の攻撃で潜水艦三隻が犠牲となった。しかも、キスカ島にはまだ約5200名もの守備隊が残っており、水上艦艇による大規模な救出作戦が必要であった。

 この時期、アリューシャン列島があるベーリング海は霧がしばしば発生する。作戦立案において日本軍はこの霧に注目した。濃霧に紛れての水上艦艇による一挙撤収・・・これが守備隊を救出する唯一の可能性であった。すぐさま木村昌福少将率いる第一水雷戦隊が出動したがこの時は霧が薄く、救出中をアメリカ軍に襲われては大きな犠牲が出てしまう。日本艦隊は涙を飲んで反転した。

 帰還した艦隊はすぐに次の救出作戦の検討に取り掛かったが、大きな問題を抱えていた。まず、艦隊の燃料が後一回の出撃分しかなく、また、霧の発生も七月いっぱいまでしか期待できない。そして霧が晴れる頃にはアメリカ軍の総攻撃にさらされる。つまり、次が守備隊を救出する最後の機会だった。しかも圧倒的に優勢なアメリカ軍の包囲網を突破しなくてはならない。・・・霧が頼りだった。

 日本艦隊は七月二十二日に千島の幌筵を出港、守備隊の待つキスカ島へと向かった。しかし翌日にアメリカ軍は哨戒機のレーダーでこれを探知、戦艦2隻巡洋艦3隻を主力とする強力な艦隊を出撃させてきた。日本艦隊は二十六日、キスカ島近海に達し突入の機会をうかがっていたが、ここで思わぬ事態が発生した。これまで日本海軍は猛烈な訓練のおかげで、深い霧の中や月明かりすらない闇夜の戦闘でもその力を発揮してきた。しかしその優れた操艦技術を持つ日本艦隊が、なぜかこの時に限って霧で艦位を失い接触事故を起こしてしまったのである。そしてこの霧に包まれて起きた出来事が作戦の成否に影響を与えた。

 アメリカ艦隊では戦艦アイダホのレーダーがキスカ島に接近する複数の艦影を捕らえ、同様の報告が重巡洋艦ウィチタ、ポートランドからも入った。濃霧の中ならレーダーを持っている自分たちが有利だと判断したアメリカ艦隊司令官グリフィン少将は全艦隊に砲撃を命令、濃霧で視認できないかわりにレーダーで照準をつけて砲撃を開始した。「日本艦隊は回避運動をはじめました!」レーダーに映る艦影はジグザグに動き出し、これを追ったアメリカ艦隊からはありったけの砲弾が撃ち出される。しかもこの間、アメリカ艦隊にはただの一発も砲弾が飛んでこなかった。「いいぞ!やつらこの霧で反撃できないに違いない!」30分にも及ぶレーダー射撃を続けそろそろ砲弾を使い切る頃、ついにレーダーに映っていた艦隊の反応は一隻も残さず消えてしまった。圧倒的な勝利をしたと確信したアメリカ艦隊は、使い果たした燃料・弾薬を補給するためこの海域を離脱していった。しかし、引き上げるアメリカ艦隊とは別にキスカ島付近を航行する艦隊があった。日本艦隊である。しかもまったくの無傷であった。実は霧中での接触事故により突入を一時延期していたのである。不思議なことにアメリカ軍がレーダーにまでとらえた艦影はただの幻だった。アメリカ軍は霧に包まれ「存在しない艦隊」を相手に砲撃を行っていたのである。

 そして霧は再び日本艦隊に影響を与える。それは一瞬薄らと晴れた霧の向こうに現れた。「左舷に艦影!」見張員の報告に日本艦隊では緊張が走った。キスカ島の守備隊を救出するにはここでやられるわけにはいかない。日本艦隊は合戦を決意した。「機関増速!」「砲雷撃戦用意!」矢継ぎ早に命令が飛び、各艦の砲や魚雷発射管が旋回、敵艦隊に照準を合わせた頃、その艦影はかき消すように消えてしまった。幻だったのである。実際にはそこにアメリカ艦隊はいなかった。しかし、アメリカ艦隊との遭遇とレーダーに探知されることを警戒した日本艦隊は、キスカ湾に直行せずキスカ島を回りこむことを決意する。実はこの時、キスカ湾付近では最後まで残っていたアメリカの警戒艦が引き上げるところだった。これによって、日本艦隊はアメリカ艦隊に発見されること無くキスカ湾に突入する結果となる。

 七月二十九日、濃霧が増大し気象条件は絶好となった。キスカ島の守備隊からも準備よしとの連絡が入る。日本艦隊は動き出した。午前七時、軽巡洋艦多摩が支援配置につき、木村少将が将旗を掲げる軽巡洋艦阿武隈以下の水雷戦隊は濃霧につつまれながらキスカ湾を目指す。連絡を受けた守備隊は海岸へ集結しつつあった。午後一時四十分、霧にかすむキスカ湾内に艦影が現れた。息を潜める守備隊員が見たその艦は艦首に菊の御紋章が輝き、マストには旭日の軍艦旗がひるがえっている。守備隊に歓声が湧き起こった。ついに日本艦隊はキスカ湾にその姿を現したのだ。すぐさま守備隊員の収容作業が開始された。この時、不思議なことにキスカ湾の霧がまるで見計らったかのように晴れていった。おかげで、一時間もかからずに約5200名もの守備隊を収容する事ができたのである。そして、救出作業終了を待っていたかのように再び霧が発生、午後二時三十五分、艦隊は霧につつまれてキスカ湾を出港した。八月一日、日本艦隊は無事、千島の幌筵に入港、八月二日、救出作戦成功の報が天皇陛下(昭和天皇)に上奏された。八月中旬、アメリカ軍は壮絶な艦砲射撃の後にキスカ島に上陸、日本軍が撤収した後であることを知ったのは各所で同士討ちを繰り広げた後だった。

 現在でもその濃霧から魔の海域として知られるベーリング海、この作戦の間も霧は日米をともに包み込んだ。日本艦隊には艦の接触を誘発し、アメリカ艦隊にはそのレーダーに映るほどの幻影を見せた。しかしその影響の与え方には差があった。日本艦隊の接触事故は沈没するほどのものではなく、突入の延期はアメリカ艦隊と遭遇せずにすむ結果となり、アメリカ艦隊はまさかレーダーに反応した艦影が幻だとは思いもせずに砲撃を行い、燃料弾薬を使い果たして戦線を離脱することになった。この霧の中に反応した幻も未だになんであったかはっきりとした解答は出されておらず謎のままとなっている。また、その前後も日米ともに何度か霧の影響を受けるがその度に日本軍に有利な結果となっている。さらに日本艦隊がキスカ湾に無事到着した途端に湾内の霧が晴れ、救出終了と同時に日本艦隊を包み込むように再び霧が発生している。まるで霧が意思をもって護ってくれたかのようである。あるいはアッツ島守備隊の英霊が護ってくれたのかもしれない。ちなみに、これはドラマや架空戦記などのフィクションではなく、帝国陸海軍が昭和十八年におこなった実際の作戦である。

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