教練用小銃
村田式

 明治維新後、外圧から国の独立を守るため建軍された帝國陸海軍でしたが、最も基本となる歩兵が装備する小銃は維新時に使われた外国製小銃がほとんどで、どれも旧式化し使用弾薬も製造国によってまちまちで整備や補給の面からも不都合が多く、統一された装備を整える必要性がありました。
 しかし、規格の統一された軍用小銃を開発・生産していたのは欧米列強の数カ国のみで、維新後まもない我が国でこれを行なうというのは夢物語に近いとされていました。
 そのため、外国製小銃の中から新式のものを装備する案も出ましたが、当時欧米列強はアジアに進出し各地を植民地化している状況のため、基本装備を外国に頼るのではいざと言うときに不都合が生じることが懸念され、ここに国産で小銃を開発することが決定されました。
 開発は陸軍少佐村田経芳らを中心に進められ、明治十三年(紀元2540年、西暦1880年)には維新後初の国産小銃が完成、同年三月三十日に陸軍の正式小銃として制式化されました。これが十三年式村田銃で口径十一ミリの小銃弾を使用する単装・単発のボルトアクション式の小銃でした。また、明治十八年には各部を改良したものが十八年式として制式となります。
 後の連装・単発式の二十二年式を含め、これらの小銃は、開発の中心となったのが村田少佐であったことから一般に村田銃と呼ばれました。
 我が軍はこれらの取り扱い等の教練にも力を入れており、数種の教練銃が存在しました。後には軽機関銃や手榴弾等も含めた多くの教練用機材を開発・採用しています。
 この教練銃は操作法など基本的に村田銃と同様になっていますが、その操作等を学ぶためのものであるため実際の装弾・発砲機能はありません。着剣装置は十三年式・十八年式同様に当時世界的に主流であった銃先右横につける独特の形状となっています。
 軍の教練以外でも後に払い下げをうけた青年訓練所(青年学校)や学校教練等で用いられていました。
 これまで慣れていた火縄式や管打ち式から槓桿式の操作を習得するのに大きな貢献を果たした教練銃です。

刻印

機関部
 刻印等はありません。  操作方法の習得が主なため実際の装填・撃発機構はありません。

着剣装置
 着剣装置は銃先右横についています。

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