九九式二十粍二号固定機銃四型

 九九式20ミリ機銃には使用弾種により大きく分けて二機種あり、装薬13.6グラムの一号弾薬包を使用する短銃身の一号銃、装薬21.6グラムの二号弾薬包を使用する長銃身の二号銃があります。
 昭和十年頃は一般に航空機銃は口径7.7ミリ前後の物が採用されていましたが、航空機の発達と共にその搭載機銃はより大威力のものになりつつあり、我が国でも航空機の武装についての検討が行われていました。その際にスイスのエリコン社が開発した20ミリ機銃の情報が入り、その威力に注目した帝國海軍はこれを参考に20ミリ機銃の開発を行うことを決定しました。
 これをうけて浦賀船渠株式会社が富岡兵器製作所(昭和十三年七月に大日本兵器株式会社として独立)を設立、昭和十一年にエリコン社より製造販売権を取得して開発にはいります。
 昭和十二年には輸入型が完成(採用時名称は恵式20ミリ固定機銃)、これにより十二試艦戦(後の零式艦上戦闘機)の翼内機銃としての採用が決定します。さらに開発は進められ国産型も完成、帝國海軍は昭和十四年七月に「九九式20ミリ一号固定機銃」として制式化しました。後に、航空兵の技量とも相俟って西太平洋の空を制した零戦一一型・二一型に搭載されていた翼内機銃が、この20ミリ機銃です。
 この後も給弾方法などの改良が続けられましたが、平行して初速のアップと弾道の直進性を伸ばすための研究が行われており、昭和十五年七月から開発が進められていた長銃身型は、昭和十六年九月に完成、同年十一月には試験を終了し、昭和十七年七月に制式化され「九九式20ミリ二号固定機銃」となりました。
 この間、一号銃では装弾数を増やすため弾倉をこれまでの60発のものから100発のものに変更し、装填方式を空気式から電気式に変更するなど各部の改修が行われ三型として制式化、続いて二号銃でも三型として制式となりました(一号銃・二号銃ともに一型は輸入型(恵式)、二型は国産型の60発弾倉型)。
 さらに、携行弾数のより増大のため昭和十六年十月より研究されていたベルト給弾式は、昭和十七年九月に試作完成、昭和十八年五月には一号銃の試験を終了し、続いて八月には二号銃の試験も終了、それぞれ制式化され四型となりました。
 この20ミリ機銃は初速が速く弾丸の直進性が良い九九式二号機銃で、ベルト給弾式の四型です。
 九九式二号機銃はラバウルに進出し、あるいは航空母艦搭載機としてソロモンの空の激戦に赴いた二二型以降の零戦各型に装備され、他に局地戦闘機雷電、局地戦闘機紫電などに装備されました。また、二号銃のうちこのベルト給弾式の四型は、主にフィリピン戦線や沖縄攻防戦、そして本土を守るために戦った、零戦五二型以降各型、雷電、紫電二一型(紫電改)、月光などが装備していました。

前方より

後方より

ボルト部分
画面向かって、左奥より装弾され手前右側へ排夾される。

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