イ式小銃

 昭和初期、中国大陸での治安の悪化から在留邦人を保護するため兵員の増強が行われましたが、大正時代の軍縮の影響で一部では規模の縮小すら行われていた各工廠等では小火器製造が追いつかず、増産までの間これを補うため海外にも発注が行われました。
 小銃の発注はイタリアの陸軍造兵廠(FARE)に行われましたが、規格を三八式歩兵銃に準じて提示したところ、イタリア陸軍造兵廠の工作機械では三八式と同じ小銃を製造することが困難であるとのことで代案が提示され、同国のカルカノ小銃を元に三八式に準じた規格での製造が行われることになりました。
 製造はイタリアの陸軍造兵廠を中心にベレッタ社、ナショナル社等でも行われ、昭和十三年(紀元2598年、西暦1938年)から翌年にかけて総計約6万挺が納入されました。
 この小銃は三八式実包を使用し着剣装置も三十年式銃剣に合わせている等、使用弾種や備品類の規格は三八式に準じていますが、機関部の構造そのものはカルカノ小銃に準じており、銃床も機関部の形状にあわせているため、三八式歩兵銃との部品類の互換性はありません。そのためか帝國陸軍ではこれを採用せず、日米関係が風雲急を告げ島嶼防衛の必要性が増した帝國海軍でイ式小銃として採用となり、おもに海軍陸戦隊に装備されました。
 よく言われるようにカルカノ小銃の機関部に三八式歩兵銃の銃床を組み合わせた物ではなく、どちらかといえば我が国の規格にあわせて製造されたカルカノ小銃といった印象の強い小銃です。
 実戦ではマーシャル諸島(現・米国信託統治領)、ギルバート諸島(現・キリバス共和国)などにおいて海軍守備隊が戦った、タワラ戦・クェゼリン戦等で使用されました。

機関部

刻印
 機関部の形状・機構は、ほぼカルカノを踏襲しているが、細部は三八式実包(6.5ミリ小銃弾)に合わせてある。  刻印は、菊花御紋章や帝国陸海軍を示すものはなく、イタリアの製造所のマークと製造番号のみが打たれている。