どこかから聞こえてきた口笛。
視線を移せばそこには、初めて見る少年の姿。
「歌はいいねえ・・・・・」
それは仕組まれた出会いだったのだろうか。
零号機の自爆によってできた湖。
夕焼け色に光る水。
居場所を無くし、まるで引き寄せられるように、シンジはこの湖畔に来ていた。
友人たちはこの街を去り、同居していた栗色の髪の少女も何日も家に帰ってきていない。
今一番会いたいと思う相手は、その姿すら見ることが出来ない。
あれから何度かネルフに行く機会はあったが、出会うことは無かった。
水面の向こうに、シンジはあの時の幻を見ている。
オレンジ色の光と共に彼を包み込んだ、金髪の女性の白い肌を。
彼女は消えてしまった。あの日恐れていたとおりに。
だから、今、シンジは一人でいるしかなかった。
彼と心を通わす人は、もう誰もいないのかもしれない。
リツコと再び会うためには、ゲンドウを避けて通るわけにはいかないだろう。
レイのことにしてもそうだ。
しかし、シンジには父と向きあう勇気はなかった。
もう裏切られるのが嫌だったから。
これからどうするのか、どうすればいいのか。
自問するように湖を見つめ佇んでいたシンジに、その少年は声を掛けてきた。
制服姿、崩れ掛けたオブジェの上に身軽な様子で座っている。
銀色に輝く髪。風にたなびいている。
ゆっくりとこちらを向く。
かすかに微笑むその顔に光る・・・・紅い瞳。
一瞬シンジは目を奪われる、その瞳の色に。
まるで頓着せず、少年は言葉を続けた。
全てを見透かしたかのように、優しい声で。
「・・・リリンの生み出した文化の極みだよ。そう思わないかい? 碇シンジくん」
Written by かつ丸
ネルフ本部。
エレベーターホール。
シンクロテストが終わり、もう用事は無いはずなのに、シンジはそこで時間をつぶしていた。
聞き飽きた音楽。退屈な時間。
しかし、家に帰る気が起こらない。
リツコとの一件以来、ミサトとはまともに会話をしていない。
お互いに避けあっている。食事も別々にしていた。
この街に来てからずっと一緒に暮らしてきた彼女。
偽りの家族。
異性として、惹かれる気持ちがなかったとはいえない。
苛酷な戦いの中で、少しづつ紡がれた信頼。通い合う心。
ディラックの海から、そして初号機に取り込まれた時、帰ってきたのは蒼い髪の少女のためではなく彼女のためだったような気がする。
そう、ミサトが呼んでくれた。そしてシンジのために涙を流してくれた。
だが、それももう遠い昔のことだ。
あの日、レイが閃光と共に消えた後、うちひしがれる自分を抱きしめようとしたミサトをシンジは拒んだ。
かすかに触れた彼女の指先からは、嫌悪しか感じなかった。
突き放すような拒絶。それがシンジがした全てだった。
しかし、加持を失ったミサトとレイを失ったシンジ、慰め合うことはむしろ自然だったのかもしれない。
いつかリビングで泣き崩れていたミサトを、自分は抱きしめてあげなければいけなかったのだろうか。
リツコにそうしたように。
だがレイの正体を知ることが無ければ、リツコとああなることはなかったろう。
全ては必然だったように思う。後悔はしていない。
そのことをミサトに理解してもらえると思ってはいないが。
ミサトを拒否しながら、もう一方でリツコを受け入れた。そしてそれを知られた。
自分はミサトを裏切った。その意識はある。
だから、アスカのいないあの家で、ミサトと向き合うことはしたくなかった。
何を話せばいいかわからないから。
煩悶するシンジの目の前で、エレベーターのドアが開いた。
中から人が出てくる。
銀色の髪の少年。
シンジを見つけ、一瞬意外そうな顔をし、しかしすぐに微笑んだ彼に、シンジも微笑みを返した。
渚カヲル。フィフスチルドレン。
「やあ、僕を待っていてくれたのかい?」
ひとなつっこい笑顔でこちらに問いかけてくる。
思わずシンジは頬を染めた。
そう、シンジは彼を待っていたのだ。
「それで、君はなにを話したいんだい?」
ネルフ本部のなかの居住棟。カヲルの部屋。
シングルベッドと簡単な家具しかないそこに、シンジは来ていた。
ベッドに横になっているカヲルの隣。床にマットを敷いてそこで寝ている。
明りは消えている。薄暗い部屋で、カヲルの横顔が見える。
居心地は悪くない。
「・・・・・いろいろあったんだ、ここに来て」
優しく問いかけてきたカヲルに、訥々とシンジが答える。
先生のこと、ゲンドウのこと、自分のこと。
自分のことを好きだと言ってくれたカヲル。初めて人から好きだと言われた。
優しい微笑みは信じられる気がした。
だから話せたのだろうか。ネルフに来てから、ずっと心の中で溜まっていた様々なことを。
「僕は、君に会うために生まれてきたのかもしれない・・・」
一人で喋っている自分に我に返り、カヲルの方を見たシンジに、邪気の無い笑顔が応える。
しかし、嬉しいはずのその言葉に、シンジは何故か哀しくなった。
「ありがとう、カヲルくん・・・・」
「・・・・・・・・・どうして泣いているんだい?」
突然目から涙を流し始めたシンジに、戸惑いながらカヲルが尋ねる。
あわててシンジは涙を拭いた。
「・・・ごめん・・・ただ・・・彼女は何のために生まれたのかなって・・・そう思ったから」
「彼女?」
「ううん・・・・いいんだ。・・・もう、昔のことだから・・・」
そう言って言葉を濁す。そんなシンジにカヲルも掛ける言葉を失っていた。
長い沈黙。
そしてまた静かにシンジのくちびるが動く。
「・・・・・だめなんだ、僕は・・」
「・・・なにがだい? シンジくん」
「僕は守れなかったんだ・・・この街も・・・綾波も・・・リツコさんも・・・」
「・・・・シンジくん」
「せっかく・・・・せっかくみんなのために・・・・エヴァに乗ったのに・・・・僕は・・・・・」
そのまま声が小さくなる。
怪訝そうに顔を上げたカヲルの横で、シンジはもう寝息を立てていた。
涙で顔を濡らしたまま。
そんなシンジを、カヲルは静かに見つめていた。
「本当に、君は好意に値するよ・・・君に会えてよかった」
もう、何日ここにいるのだろう。
やはりあれ以来ゲンドウは顔を見せなかった。
部屋にあるのはベッドとトイレ、そしてなぜか端末。
こちらからはROMしかできない設定。クラッキングを恐れているのだろう。
情報だけは与える、つまりこれからもまだ利用するつもりはあるということか。
皮肉な微笑みを浮かべながら、しかしリツコはアクセスを止めてはいなかった。
それが技術者の性なのかもしれない。
マギのデータはもとより、本部施設のほとんどをここからモニターできる。
だから彼女には分かっていた。
渚カヲルのことも、シンジの揺らぎも。
これから彼らのあいだに起こることも。
ただ何もできないだけ。
壊され、深く傷つくだろうシンジの心を思えば、少し胸が痛んだ。
突然背後でドアが開く。
聞こえてきたのは彼女がよく知る女性の声。
そう、彼女がもう来る頃だろうとは思っていた。
「あの少年の・・・・フィフスの正体は何?」
「・・・・おそらくは、最後のシシャね」
「・・・・なによそれ?」
「・・・人類を試し、滅びをいざなう者。もう動きだすわ、きっと」
その言葉を待っていたように警報の音が響く。
舌打ちをしミサトが走り去り、扉が閉まる。
再び暗闇に閉ざされた部屋で、リツコの呟きは続いた。
「全てが終わった後、最後に立っているのは誰かしら?・・・ねえ碇司令?」