彼は何処からきたのだろう。
私たちは何処にいくのだろう。
Written by かつ丸
黒い髪の少年がベッドで寝ている。
その傍らに一人立ち、リツコは少年の顔を見つめていた。
ネルフ本部内の病院施設の一室。医療業務はリツコの専門ではなく、少年の主治医とも言える医師も存在してはいるが、この組織の実質的なナンバー3であるリツコの指示に席を外している。
当然看護婦も部屋にはいない。
少年に先程までの苦悶はもう見えない。安らかな表情。
報告書に添付された写真は見知っていたが、実際に会ったのは今日が初めてだった。サードチルドレン。碇シンジ。
父親の面影はあまり感じられない。それとも彼も中学生の頃はこんな風だったのだろうか。今からは想像もつかないが。
全体に華奢で線が細い。スポーツや格闘技とは無縁に見える。今日ミサトと初めて会った時も顔を見るなり逃げ出そうとしたそうだから、実際臆病な子供なのだろう。
エヴァに乗るのも嫌がった。普通の感覚ならいきなり乗れと言われて乗るものではないとは思うが、全身に包帯をまき血をにじませてさえいるレイの姿を見ても何も感じなかったのだろうか。
むしろ最初は恐れているようにさえ見えた。会ったことも無いはずのレイを。
使徒の攻撃による衝撃で彼女がベッドから投げ出された時も反応しなかった。
そういった感情が希薄なのか、顔色も変えなかったように思える。
結局エヴァに彼が乗ったのは、レイに見切りをつけたミサトに再度詰め寄られたから。
そう、違和感を感じたのはその時もだ。シンジはずっとミサトの顔を見ていない。こちらにはその怯えた目でときおり何かを訴えるようにするが、ミサトのほうには彼女が何を言っても顔をあげようとはしなかった。
彼の行動に疑問を持ったのは当然だろう。
異常に高いシンクロ率、いや、それはまだいい。シンジがシンクロできることはある程度予想できていた。零号機のレイやドイツにいるセカンドチルドレンよりも数値が上回っても、比較対象の少ないエヴァのデータではそういうことがある可能性はゼロではない。
問題はシンジが知っていたことだ。
知るはずの無いことを。
突然初号機の手が動き少年を守ったあの時、確かにシンジは言った。
「母さん」、と。
その小さな呟きは発令所にいる彼の父親のところまでは聞こえなかったろう。けれども聞き間違いなどでは無かった。
初号機の中に眠る魂、そのことを知っているのはこのネルフでもごく限られた者だけだ。ミサトが言ったわけはない。作戦の指揮をとるとは言っても、彼女が知らされている真実はほんのわずかだ。
それをシンジは知っていた。
それだけではない。ATフィールドの展開、訓練も無しにエヴァを操る能力、シンクロ率の高さだけでは説明がつかない、天才などというものとも違う、そこにみえるのは「経験」の二文字だった。
考えてみれば分かる。F1ドライバーは何千万人もいる自動車を運転する人たちの中でも群を抜いた操縦能力がある。練習や努力で得られる技術には限界があるのだから、運転について天性の才能を持っているはずだ。
けれどもどんなに才能があっても、今まで一度も自動車の運転をしたことが無い者がサーキットを走ることができるだろうか?
仮に操縦者の思うとおりに走る車があったとしても、いきなり乗せられた車に戸惑うことも無しにレースに参加することができる者などいるだろうか?
シンジがしたのはそれと同じことだ。
シンジ自身の手による使徒殲滅など、ゲンドウや自分は期待していなかった。初号機の防衛本能の発動、すなわち暴走、それが勝利をもたらすと、そう信じていたのだ。
けれど彼は実際にやって見せた。暴走ではなく、初号機を完全にコントロールして、使徒を殲滅したのだ。
ありえない、だが事実を否定するわけにはいかないだろう。
論理的に考えれば、答は一つしかない。
ここ以外のどこかで、シンジがエヴァ操縦の訓練を受けているということだ。
初号機にユイの魂が眠るのを知っている者は、ネルフ本部以外では一つしか思いつかなかった。すなわちネルフの上部機関、人類補完委員会しか。
ゲンドウとて万能ではない。敵対する勢力は組織内にもあるはずだ。
エヴァが汎用兵器である以上、そのパイロットを取り込んで切り札にする。そう考えた勢力がいてもおかしくはない。
今現在存在するエヴァは三機、それにシンクロする可能性がある者は限られているのだから。
知らぬ間にそこの手が伸びていたのかもしれない、シンジに。
ユイのコアが入ったエヴァは初号機のみだ。マギの中にあるそのデータが漏れたとは考えにくい、 だからあくまでシミュレーター上での訓練だろうが。
それでも唯一といえる戦力に色がついていることは望ましいことではないだろう。
リツコやゲンドウが必要としているのは、便利使いができる「子供」だ。よけいな「意思」などは、それは不要なものだった。
それがこの少年自身のものであれ、他の誰かのものであれ。
見過ごしにするわけにはいかないだろう。
戦闘の後始末をマヤに押し付けてこの病室にきたのは、彼への疑念をぬぐえなかったからだ。
「……う……うん」
小さなつぶやきが聞こえた。
目が覚めたようだ。
うっすらとまぶたを開いている。
かける言葉も思いつかないまま、シンジを見つめる。自分は彼を警戒しているのかもしれない。
だがぼんやりと天井を見つめている様子は、ただの子供にしか見えなかった。
見慣れない部屋にとまどったのだろうか、視線をさまよわせた後、シンジはこちらに瞳を向けた。
徐々に焦点が合っていく。
「……リツコ…さん?」
「…おはよう。どう、具合は?」
自分でも冷めた声色なのがわかる。けれど彼は気づかなかったようだ。
ただ、こちらを見ている。
戦いの後の怯えは感じられない。レイのように感情が希薄なわけではないだろうが。
自分の状態がよくわかっていない、そんな様子だ。
「……はい、ええと……どうして、僕は、ここに…?」
「ケイジで倒れたのよ」
「ケイジで? ………じゃあ……あれは……夢じゃないんだ」
微かなつぶやき。それでもリツコには聞こえていた。
現実感がないのだろう。それは理解できる。
「ええ、夢なんかじゃないわ。あなたは見事にエヴァを操って、そして使徒を倒した。……覚えてるでしょう?」
「……はい」
ようやく意識がはっきりとしてきたのか、シンジが上半身を起こした。
傍らに立つリツコを見上げるようにしている。
どこか怯えた顔。
時間はあまりない。本題に移らなければならない。
ミサトが来るまでにかたをつけたほうがいいだろう。
相手は子供だ、直接的に訊いたほうがいい。
たとえ口止めされているにしろ、反応を見れば分かることもある。
「シンジくん」
「…はい?」
「あなたは、以前エヴァの訓練をうけていたのね」
ただの問いかけではない、それは断定。
そしてシンジの返答は沈黙だった。
答えたくない、もしくは知らない、そういう雰囲気ではない。
どう答えたらいいのか、それを考え悩んでいるようにリツコには見えた。
「……安心して、今、この部屋には私しかいないわ。あなたが望むなら、誰にも話さないから」
集音機や盗聴器のたぐいは事前に止めてある。
リツコの判断だ。
なにかあるとして、ゲンドウや冬月以外にそれが漏れるのはまずい。彼らには自分が報告すればそれですむ。
「……父さんにも、ですか?」
「…ええ、だから答えなさい」
「………」
また、彼は押し黙った。
とまどい、怖れ、それが入り混じった視線で、ずっとリツコを見ている。
考えれば少し強引だったかもしれない。
今日はじめて会う自分を、信用しろという方に無理があるだろう。
時間をかけたほうがよかっただろうか。心を開くまで。
しかし、長い逡巡の末、シンジのくちびるは動いた。
そこから紡がれる言葉、それがリツコに告げたのは、全く予想していないことだった。
「はい……僕は……エヴァに乗ったことがあります」
「エヴァに? ドイツの弐号機のこと? でもあなたには……」
弐号機を操縦することなどできはしないはずだ。
そのコアに眠る惣琉キョウコ博士の魂、それが無関係なシンジとシンクロするはずがないのだから。
だが、シンジはかぶりをふって否定した。
「弐号機じゃありません、初号機です。……今日と同じように、初号機に乗って使徒と戦っていたんです」
「な、なにをバカなことを……」
寝ている間に幻覚でも見たのではないか、そう笑い飛ばそうとする。
けれども目の前の少年の瞳の中には強い光があった。
狂気、錯乱、懇願、哀訴、そのどれとも違う。
その光に押されて、リツコは思わず口をつぐんだ。
彼が「嘘」をついているわけではない、少なくとも彼自身はそう思っていない、それがわかったから。
リツコを見据えたまま、シンジが言葉を続けた。
意味が理解できない、信じているわけでもない、けれど、リツコは背中を冷たい汗が流れることを止めることはできなかった。
「………僕は……帰ってきたんです。……未来から………人類が滅びた…サードインパクトの後から」
「…………」
「……本当……なん…です…」
言葉を失うリツコの前で、シンジが頭を抑え顔をゆがめている。
痛むのか、それとも、なにかを思い出しているのか。
「分かったから、もう休みなさい、シンジくん」
「……信……じて……」
横たわると、そのまま彼は沈黙した。
意識を失ったようだ。
医師を呼ぶことも忘れ、リツコはシンジを見ていた。
目の前にいるはずのこの少年が何者なのか、今の彼女にはもう分からなかった。