Written by かつ丸
研究室の自分の椅子に座り、ようやく落ち着いた気がした。
使徒の襲来から、何時間がたったのだろう。
ネコの絵の描かれた白いマグカップを口元に近づけた。
中に入れられたのがインスタントのブラックコーヒーでは少しバランスが悪いかもしれない。
別に少女趣味というわけではないのだが。
混乱した思考を静めるように熱い液体を飲む。
夢ではない。
のどを嚥下するその感触は、確かに今この時が現実だと認識させてくれる。
だが、それはむしろリツコの混乱に拍車をかけていた。
ゲンドウには現状では問題は感知できないと報告した。
シンジの戦闘能力については彼のシンクロ率の高さが原因ではないかと。
エヴァ自体が持つものだけでなく、シンジ自身の防衛本能がエヴァに働きかけ、相乗してあの卓越した戦闘力を生み出したのではないかと。
そう話したことにゲンドウは疑問を持たなかったようだ。
エヴァによる実戦は初めてだ。技術主任である自分によって説明さえされればある程度納得する、そんなものかもしれない。
委員会との調整や破壊された施設修復の手続き、ゲンドウや冬月の抱えるさまざまな用務が深く考える暇を失わさせているのかもしれなかったが。
なにより初号機が強い力を持っているのは彼らにとっていいことなのだろう。
裏切ったことになるのだろうか。
シンジの言葉を報告しなかったことが。
だが、あまりにも荒唐無稽なその内容を、どんな顔をして話せばいいのか。
『僕は……帰ってきました……未来から』
『人類が滅びた………サードインパクトの後から』
嘘を言っているようには見えなかった。
少なくとも本人は事実を語っているつもりだろう。
なにかの強烈な暗示か、妄想癖があるのか、それとも…………本当に事実なのだろうか。
およそ科学的ではない。生身の人間が時をさかのぼることなどありうるわけがない。
理性では分かっている。
だがエヴァの存在、それ自体が示しているのではないのか?
人智を超えた何者かの意思を、常識では計れない「事実」を。
いや、それでも、そんなことが起こるなどとは、やはり信じられなかった。
「なにボーっとしてんのよ、あんた」
「………なんだ。ノックぐらいしなさいよ」
「したつもりなんだけど〜、聞こえなかったの?」
いつのまにそこに立っていたのだろうか。
椅子に座るリツコを見下ろしながら、ミサトが呆れたように言った。
初めての使徒戦、けれど作戦部長といっても彼女はほとんど役には立っていない。
シンジをパイロットとして使うことすら直前まで知らされていなかったのだから。
戦自のミサイルやN2爆弾から彼を守り、無事に本部まで連れてきたこと、それは評価されるのかもしれないが。
そんなことをミサトは喜んではいないだろう。
けれどどこかその顔は昂揚しているようにも見える。
さきほどまでの初号機の戦い、それに自分を重ねていたのかもしれない。
使徒を倒す、そのためだけに彼女はここに、ネルフにいるのだから。
そして今日はじめてそれが無駄ではなかったと証明されたのだから。再び使徒が人類の前に現れたことで。
南極基地の崩壊から15年、ミサトにとっては人生のほとんどを賭けた復讐がようやく始まる、そう考えているのがよくわかる。
そのことを不謹慎だとは、誰にも言えないだろう。
「…それで? 何か用事?」
「なによ、なんか冷たいわね。休んでたんでしょ? 今」
冗談めかして言いながら、ミサトは傍らの丸いすに腰掛けた。
この部屋に来る者はそう多くない。そこは彼女の指定席のようなものだ。
「瞑想、とは言わないけど、でも思索にふけるのも私にとっては立派に仕事のうちなのよ。なんのための個室だと思ってるの」
「はいはい。そんなことよりどうだったのシンジ君は。会えたんでしょう?」
やはり目的はそのことか。
あの後シンジには鎮痛剤をうち、その後面会は謝絶にしてある。
ケイジで倒れたのもそうだが、戦闘時の脳神経への負荷が原因らしい。プラグの調整をすれば、次の戦闘では緩和されるだろう。
シンジをどう取り扱えばいいかリツコには決めかねていた。
ミサトに今の彼を会わせていいものかどうか、まだ判断はつかなかった。
だが彼女は先にシンジと接触していたはずではないのか?
ジオフロントにつれてきたのは彼女なのだから。
「ええ、でもまだ混乱してるみたいだったわ。しばらくは安静にしたほうがいいみたいね」
「……そう。なにか不思議な子ね、あの子…」
ひとりごちるようにミサトが言う。
彼女もシンジに疑問を持っているのかもしれない。
「そうかしら?」
「だってそうじゃない。…あれだけエヴァに乗るのを嫌がっておいて、乗ったらいきなり大活躍でしょう? で、誉めてあげようと待ってたらいきなり倒れちゃうし」
「嫌がるのは普通の感覚じゃないの?……いきなりは乗れないわよ、あんなものに」
「まあ、それはそうだと思うけど。……じゃあ、あの戦闘は? 操縦ってよりなんか生きてるみたいな動きだったけど」
そう、発令所からの指示を受けるまでもなく、シンジの操るエヴァは、走り、跳び、吼え、そして使徒を引き裂いた。
暴走ではない、理性を失った動きではない、けれどあれは解き放たれた獣そのものだった。
「言ったでしょう。エヴァは生きているって。人造人間の名は伊達ではないのよ」
「じゃあアレはエヴァの真の力ってこと?」
「エヴァとシンジくんの力ね。レイがパイロットならあそこまでの戦闘ができるかは分からないわ。ずばぬけたシンクロ率の高さが相乗効果になってあの戦闘力を生み出したんじゃないかしら。エヴァがもつ潜在的な力と、シンジくんの防衛本能とでね」
正確ではない、それだけで本来説明はつかない、だが分かりはしないだろう。
エヴァにとってはじめての実戦、前例などはないのだ。
「なるほどね、天才ってわけ? 人は見かけによらないってことかしら。頼んなさそうな子だったけど」
「……どうだったの、あの子? 迎えに行ったときに少しくらい話したんでしょう?」
「言ったでしょう。何だか知らないけどずっと黙って下向いてたわよ。話しかけても返事もろくにしなかったし。こんなきれいなお姉さんがとなりにいるのに怯えて震えてるんだもの。失礼よね、まったく」
状況を思い出したのだろう。
ミサトは本気で憤慨している。
回収したときシンジは戦自と使徒の戦闘に巻き込まれていたはずだ、怯えていたのはそれが原因ではないかと、最初に聞いたときリツコは考えていたが。
だが、違うのかもしれない。
「……それだけ?」
「え、なにが?」
「……だから、ほんとに何も話さなかったの? あの子」
冷静を装って訊ねた。
それでもいささか唐突かもしれない。
けれどミサトは気にした様子もなくしばらく考えた後、リツコの方を向いて首を振った。
「ええ、私には何も言わなかったわ。……そうね、なんか下を向いて独り言いってたみたいだけど、あまりよく聞き取れなかったし」
「独り言を?」
「そう、青ざめた顔して、嘘だ、とか、どうして、とか、ぶつぶつ言ってたわよ。……あんな化け物見たんじゃ動揺してて当然だけどね」
「………そうね」
たいした材料はミサトも持っていないようだ。
シンジの言葉の真偽はまだ判断はできない。
もう一度彼に会う、そのときまでにリツコも考えを整理しておかないといけないだろう。
「ねえ、それでシンジくんに会えないの? バタバタしてろくに案内も説明もしてなかったから、ちゃんと話ときたいんだけど」
「…今はまだ寝てるわ。意識が回復して精密検査が終わったら連絡するわよ」
「……精神汚染、ほんとに大丈夫なんでしょうね?」
「………ええ、その心配はないわ」
精神の異常、そうであれば自分は納得できるのだろうか?
あのシンジの言葉が狂気から生まれたたわごとならば。
だがそれはありえないことを一番よく知っているのもリツコ自身なのだ。
シンジは狂ってなどいない。
それが意味することは、いったいなんなのだろう。
サードインパクト。
人類の滅亡。
それが起こりうることを自分は知っている。
このネルフという組織の本当の目的も。
未来から来たなどとはやはり信じられはしない。
けれどシンジのあの言葉、あれは啓示ではないのか。
滅びをいざなおうとしている自分たちへの。
「リツコ!! なに、ボーーーーっとしてんのよ、もう」
「あら、ごめんなさい」
傍らでミサトが怒っている。その存在を失念していた。
別にたいした話があるわけではないだろうが。
「まあいいけど。あんたも疲れてるのかもね、それもそうか」
「…あなたも寝てないんでしょ? 少しは休んだら?」
「そうなんだけどね。なんか、そんな気になれなくて。…だってホントに来たんですもの、使徒が」
瞳を輝かせて言う。
父の仇が現れたことに、本気で喜んでいるのがわかる。
あの戦闘で死んだ人々のことなどきっと頭にはないはずだ。
それを指摘するのは偽善だろう、リツコ自身見知らぬ誰かが視界の外で死んだところで気にとめたりはしない。
かわりに少しだけ冷めた口調で、ミサトに応えた。
「これからが本番よ。あれで終わりじゃないわ、きっと」
「そうよね、そのためのネルフだもの」
なんのためのネルフか、何も知らないミサトが笑っている。
返したリツコの微笑みに含まれていたのは、哀れみだったかもしれない。
「入るわよ、シンジくん」
ノックの後に声をかけ、リツコは病室へ入った。
医師からの報告で、目がさめているのは知っている。
返事はなかったが、シンジはベッドの上に起き上がってこちらを向いていた。
数時間前よりもずっと落ち着いた表情。
神々しさなどは別に感じない。
あたりまえだ。彼はただの中学生なのだから。
「どう、調子は?」
「…はい、……別に問題はないです」
黒い瞳はしずかに揺らいでいる。 伺うようにリツコを見ている。
自分が言ったこと、それがその後どんな影響を見せたのか計っているのかもしれない。
「シンジくん。詳しく聞かせてもらえるわね、……今朝の話」
「………………はい」
沈黙の後、かすかに頷いたシンジのその目に、もう迷いは見えなかった。