Written by かつ丸
オペレーターの声が響いている。
ネルフ総司令である碇ゲンドウを始め、主だったメンバーのほとんどがこの部屋に来ている。
強化ガラスに隔てられた向こうの巨大な部屋には黄色いエヴァンゲリオンが繋がれている。
それに搭乗しているのは、ファーストチルドレン、綾波レイだ。
レイの姿はモニターを通じて見える。彼女が傍らに持っているのは、ゲンドウのメガネだろう。
「各回線、以上ありません」
「パイロットの脈拍、血圧、いずれも正常値です」
「わかったわ、続けて」
実験は順調に推移していた。
約2ヶ月前の起動実験で暴走事故を起こし、そのまま凍結されていた零号機。
もともと戦闘用ではなく武装や装甲も初号機に比べたら貧弱ではあるが、ドイツにある弐号機がここにくるまでは、つなぎとして働いてもらわなくてはならない。
もっともレイをエヴァとシンクロさせることには別の意味も持っているが。
今後量産される予定のエヴァ各機のパイロットの確保、その実験の第一歩でもあるのだ。今回のこの起動実験の成功が。
かつての暴走時とは違う、初号機の起動により多くのデータが蓄積されている、だから自信はあった。
失敗しても直ちにゲンドウに見捨てられるとは思わなかったが、彼を失望させることもしたくはないし、そのつもりもない。
それに……。
そう、それにシンジが言っていた。今日の実験は成功し、そして、その時に使徒がくると。
いつのまにか、そのことを半ば信じている自分がいる。
たとえ使徒を操る黒幕が存在しても、今日の実験の結果を知る者などいるはずがない、それなのに。
実験成功を願うあまりシンジの言葉にすがろうとしている、わけではないと思う。
自分にとって望ましいことではないからだ。
レイがシンジを依代として世界の全てを無に返す。それはゲンドウの計画とは違っている、そうリツコには思える。
彼の計画を全て理解しているとリツコには言えないけれど、リツコ自身がこのネルフという組織にいる理由、それはゲンドウの計画を助けるためであり他の誰のためでもない。
ゲンドウにとって必要な存在であり続けたい、その想いがこの5年間リツコを動かしていたのだ。
そうでなければ、彼はリツコを見てはくれないだろう。
他人に対する愛情が希薄なわけではない、むしろ彼の本質はとても情熱的だと思う。
ただ、前を見据えて走ることしかできないような不器用な男だから、彼の視界に入るには共に走るしかない、それだけのことだ。
たとえゲンドウが求めるものが、なんであったとしても。
今、ゲンドウは傍らに座っている。
赤い色のサングラスに隠れた鋭い瞳が、硝子の向こうの零号機を見つめている。
オペレータのカウントダウンに固唾をのむ様子も無い。
静かな、けれども溶けない氷のように蒼く燃える焔がその瞳にはやどっている、そう思えた。
かつてはリツコの母ナオコも、彼のこの瞳に惹かれていたのだろうか。
「零号機、起動しました!!」
マヤの言葉がモニター室に響く、一瞬の緊張がその場を走るが、モニターは正常値のまま安定していた。
前回の悪夢は繰り返されることはなかった、周囲から安堵のため息が聞こえる。
だが、その空気を壊すように、鋭い警報が鳴った。
シンジが話したとおりのタイミングで。
リツコにはわかった。
いや、ずっと前からわかっていた、認めようとしなかっただけだ。
シンジの言葉が全て真実だと、そのことを。
彼が確かに「未来」を知っている、そのことを。
「エヴァ初号機、リフトオフ!」
ミサトの指示する声が響く。モニターに写るプラグの中のシンジがいつになく青ざめているのが、リツコにはわかっていた。
ATフィールドをも突き破るという使徒の砲撃が彼を待っている、彼が知る戦いでは攻撃を受けて意識を失い、生死をさまよったと言っていた。同じことを繰り返そうというのだ、怯えるのは当然だろう。
そう、シンジには的になってもらうしかない。
たとえばマギによって使徒の能力を予測したと、そう言ってもミサトあたりならばごまかせるかも知れないが、ゲンドウや冬月は疑問を持つだろう、間違いなく。
使徒がいつ、どういう形で来襲し、そしてどんな能力を持っているか、そんなことは本来予測不能なはずだからだ。
使徒の正体すら明確にはわかっていないのだから、答えられるわけが無い。
サードインパクトが起こった未来からきたというシンジの言葉を話せば、もしかしたらゲンドウたちは自分などよりもっと素直にそれを信じるのかもしれない。
どんなかたちでそれが起こるか、そのことを誰よりもよく知っているのはおそらく彼らだろうから。
シンジの知る未来の記憶で、来襲する使徒がすべて事前に分かるのならば、それにあわせた準備を早期からすることもできる。
ミサトをはじめ作戦部はその真価を発揮できるに違いない。
しかし、このことをゲンドウたちに話すつもりは、リツコには無かった。
今のところは、まだ。
確信したのもついさきほどだ、状況証拠以外に明確な根拠があるわけではない。
それでも、リツコが話せば、ある程度の信憑性をもって迎えられるのかもしれない。シンジが言うよりはずっと。
だからシンジはリツコにだけ真実を告げたのだろうか。
彼女の口からゲンドウやミサトに伝えろと。
しかし実際のところシンジがそれを望んでいないことも、リツコには分かっている。
真実を知ってゲンドウがシンジをどうするのか。
真実を知ってミサトがシンジをどう思うのか。それを知りたくないのかもしれない、彼の本心は。
自分に話したのは、それだけ彼にとって遠い存在だったからのではないかと思う、どう思われようとかまわないほどに。
それは自虐的な考え方だろうか。
その上で、彼は託しているのかもしれない、リツコに。
おのれの将来を。
人類を滅ぼさない、そのためなら何でもすると言った時の彼の瞳が、リツコの頭に焼きついて消えない。
深い覚悟、そして哀しみ。
14才の子供の目の色ではなかった。
悲痛な影が宿った黒い瞳の奥に、彼が背負ったものの重さが見えた気がした。
もしかしたら、シンジはリツコに弾劾して欲しかったのだろうか。
彼自身のことを。
彼がしてしまったことを。
人類を守ることがネルフの目的なら、彼の「未来」での結果は間違っていることになる。
リツコをはじめとした大人たちは、そうならないために全力をつくさなければならない、それが理屈だろう。
いつか彼が言ったように、シンジをネルフから隔離しエヴァからも遠ざける、それも選択肢の一つだ。
ミサトが事実を知れば、そうするかもしれない。
たとえ相手が子供でも。
人類を滅ぼす要因を排除することとなるなら、サードインパクトを防ぐという大義のためなら、十分に正当化されることだ。
結果未来が変えられるなら、喜んでシンジは受け入れるのだろう。
そしてゲンドウが事実を知れば……。
おそらく彼は利用するだけだ、シンジを。彼の目的のために。
それすらも予想した上で、シンジはリツコに話している。
けれど告げられた真実を、リツコは誰にも話すつもりは無かった。
ゲンドウにも、そしてミサトにも。
別に意地を張っているわけでもない。
シンジの姿勢に胸を打たれたわけでもない。
ただ、知りたくなった。
シンジの知る未来で、いったい何が起こったのか。
ゲンドウが行なおうとしたことは、いったい何だったのか。
今、シンジをゲンドウに引き渡せば、それを知る機会は永久に失われることは確かだ。
その瞬間シンジは自分の元から離れるだろう、たとえ彼の身に危害を加えられることが無くても。
自分の手の中にある真実を、みすみす逃すような真似はできない。
それはゲンドウへの想いとは、また別の感情だと思う。
いや、ゲンドウを想うがゆえにリツコは知っておきたいのかもしれない。
彼に対してアドバンテージを握っておきたいのかもしれない。
ゲンドウをつなぎとめるために。
まだ、シンジの知る未来を誰にも言うわけにはいかない。知られるわけにはいかない。
だから、シンジの出撃も、当初の方針通りでいくしかないのだ。
使徒が来れば即座に迎撃する。
地上の使徒はすでに都市部にまで侵入している。偵察をしているゆとりなどない。
一刻も早い初号機の発進、それが現在のマニュアルに沿ったやり方だった。
何の根拠もなしにそれを変える権限は、技術部長のリツコにはない。
「目標内部に高エネルギー反応!!」
「何よそれ!?」
青葉の報告に、ミサトが叫び返す。
初号機の存在を感知したのだろう、使徒が砲撃の準備を始めたのだ。
地上に上った瞬間から、戦いは始まるはずだ。
この施設の直上に使徒は向ってきている。初号機の射出口もできるだけ使徒に近いところに設定した、それはリツコの操作によってだ。
たとえばそれが百メートル違ったところで、砲撃から受けるダメージにあたえる影響はほとんどない。
避けられないのも分かっている。
リツコの目的は別のところにあった。
「周円部を加速!! 収束していきます!!」
「か、加粒子砲なの!?」
正八面体の無機的な形状そのままに、生物ではありえない攻撃が行なわれる。
これまでの使徒からは想像もつかない。
普通ならばそうだ。
予測ができたらおかしい。
「シンジくん、よけて!!!」
ミサトがシンジの座るプラグ内を写したモニターに叫ぶ。
初号機はようやく地上に上がったところだ。レールを通るための拘束具はまだ解かれていない。
避けられるはずがないのだ。
彼女がすべきことは、他にあるはずだ。
「ミサト!! 今よ!!!」
促すリツコの声を掻き消すように、使徒からの砲撃が初号機を捕らえ、司令室内にはシンジの叫び声が響いていた。
14才の少年の、ふりしぼるような悲鳴が。