Written by かつ丸
ほのかなルームライトだけが、部屋を照らしている。
シャワーの音が、微かに響いている。
廊下へ続くドアが少しだけあいている、そのせいだろう。
白いシーツに身体をくるませ、リツコは水の音を聞いていた。
広いベッド。しかし冷たくはない。
乱れた敷布が、激しい情事の跡を残していた。
時計は午前1時を指している。もう電車は終わっている時刻だ。だが、それを気にする必要はないのかもしれない。
家に帰っても、誰が待っているわけではないのだから。
それにここは本部施設の中だ。どうせ朝には職場に顔を出さなければならないなら、このほうが合理的だろう。
言い訳めいた思考をしながら、リツコは自分がおかしくなった。
それこそ、誰も待ってくれる者がいないのに考える必要はないことだからだ。
ネコを飼っていた頃の癖が、まだ抜けていない。
それも、言い訳なのかもしれない。
シャワーの音が止んだ。
少し時間が経ったあと、音もなくドアが開く。
ガウンを着ている。うす暗い部屋の明かりを点けずにソファーの一つに座り、そのまま服に着替える様子はない。
つまり、今日は泊まるということだろう。
「おめずらしいんですね?」
つぶやくようなリツコの言葉に、暗がりの中の黒い瞳が少しだけ動いたような気がした。
答える言葉はない。
もっともリツコも、答えを求めたわけではなかった。
ただ、事実を述べただけだ。
ネルフ総司令、碇ゲンドウ。
彼と関係を持つようになって5年。
しかし同じ部屋で朝を迎えることは、二人にとってはまれなことだった。
お互いに家庭を持っているわけではない、だが、ゲンドウとの関係は秘すべきものだという意識が、リツコにはあったのかもしれない。
おそらくゲンドウにも。
暗闇の中で何処ともしれぬ遠くを見ている目の前の男は、リツコに対して愛をささやいたことなど一度もなかった。
この5年間、一度も。
お互い沈黙したまま、何分ほど時間がたっただろう。
こうしていて間が持たないわけではなかったが、ベッドの上にいたまま話しかけた。
少し声が擦れているのが自分でもわかる。
「……使徒の撤去にはかなり時間を要するようです」
「あれだけの大きさだからな。コアの状態はどうだ」
「目測ですが先の使徒よりも破損度が高いです。むしろ自爆に近い状態でしたから」
「…そうか」
閨でするような話ではない。
司令室とはトーンも口調も違っているが、それでも無粋のきわみだろう。
だが、リツコがゲンドウと共有できる話題など、他にはないのだ。
「……レイのこと、申し訳ありませんでした」
「…命に別状はなかった。零号機の改装はどのみち必要だったろう」
「はい…ですが当面は初号機1機での対処になります」
「今までもそうだった。弐号機が来るまではやむをえんさ」
使徒との戦いで、零号機の装甲は半ば融解していた。
先の初号機の時よりも、全体としてみれば被害は大きかっただろう。盾で威力が分散されていたから、プラグに与える影響はまだ低く、パイロットへの被害も少なくてすんではいたが。
薄氷の上の勝利だった。あと数秒照射が続いていれば、確実にレイは死んでいたに違いない。
いや、あの時シンジがすぐに助け出していなければ、やはり零号機にこもった高熱のために命を奪われていただろう。
戦闘から、すでにまる1日がすぎていた。
使徒殲滅の後、リツコは地上へと向った。破壊された零号機のもとへ、いや、その近くにいるであろうシンジのもとへと。
緊急ルートを使って、それでも10分以上かかっただろう。使徒の爆発の余韻から、粉塵と強風で地上はひどい状態だった。
もう少し使徒との距離が近ければ、とても近寄れたものではなかったかもしれない。
白衣をはためかせて向った先、救助隊員たちも同行していたその場所で、リツコが見たもの。
それはレイを抱きしめるシンジの姿だった。
零号機のエントリープラグは地上に置かれていた。初号機が抜き出したのだろう。
開いた入り口からは蒸気がでていた。それはプラグ内がかなりの高熱になっていた証拠だ。
そこから、おそらくシンジが救い出したのだろう。プラグ入り口のすぐ近く、アスファルトの上で、横たわるようになったレイの身体を膝に乗せ、シンジの両腕が支えていた。
抱きしめる、というのとも少し違ったのかもしれない。
けれどもリツコにはそう見えた。
レイは抵抗はしていない。意識はあるようだ。遠くから見ても赤い瞳は生気を失ってはいない。
抱えられたまま、身動きもせずにシンジの顔を見ている。
何をされているのかよく分からない、そんな様子だった。
いったい二人はどのくらいの間そうしていたのだろうか。発令所のミサトたちからは、見えているのだろうか。
駆け寄ろうとする救助隊員たちを手で制し、リツコはゆっくりと足を進めた。
壊してはいけないなにかが、そこには感じられたから。
わかったからかもしれない。
シンジが泣いていることが。
近づく気配が伝わったのだろうか。リツコたちの方を見ることもなくシンジはレイをそっと地面に置いた。そして立ち上がる。視線はレイから外していない。うつむくシンジの顔は見えなかった。
上半身だけ起こして、レイもシンジを見つめている。
ひとこと、ふたこと、何かを話している。遠すぎてその内容は聞こえないけれど。
歩み寄る。今気づいたのか、レイの視線がこちらを向いた。
それを潮にしたように、シンジがレイから離れた。
こちらを向いたその目が、リツコの視線と絡む。
黒い瞳からいまだに流れ続けている涙を、少年は隠そうとはしなかった。
視線を外し、そのまま歩き出す。
表情は読めない。
哀しみも、喜びも見えはしない。
何も言わないまますれ違い歩みさるシンジに、リツコは声をかけることはしなかった。
できなかった、それが正しい答えだろう。
後はまた喧騒の中の作業だった。
レイは応急処置のあと救急車両に収容し、そのまま本部の病院に運び届けた。
追いついてきたミサトに事情を話し、ついていってもらった。戦闘が終わった今、彼女に仕事はないからだ。
使徒の状況調査などの事後処理の段取りを済ませリツコが休憩できるようになったのは、使徒殲滅から数時間がすぎ日の出を迎えようという時間だった。
その時仮眠をとらなかったら、今、こうしてゲンドウといる気力はなかっただろう。その前日から眠っていなかったのだから。
「レイとは話したのか?」
「はい、…問題ないと、本人は言っていました」
「ATフィールドの弱さ、あれはどう考える」
「シンクロ率も影響していますが、基本的にエヴァへの慣れの問題だと思います。シミュレーターによる訓練で調整可能でしょう。シンジくんにノウハウを聞く必要はあるかもしれません」
「……シンジにか…」
「実際に発生させているのは彼だけです」
あまりシンジをレイに近づけることを望んでいないのかもしれない。
おそらくあの二人が抱き合う姿は、モニターを通じてゲンドウも見ていたのだろう。
嫉妬している、そういうことだろうか。自覚があるのかどうかはわからないが。
「………」
「…気になりますか?」
黙ってしまったゲンドウにそう問い掛けたのは、リツコ自身が嫉妬していたからかもしれない。
レイに、もしくは、レイに似ている誰かに。
「…いや、必要ならかまわんさ」
「はい…」
ゲンドウの答えは、二人の間に流れた空気を察してのものだったのだろう。
リツコがそこからもう一歩踏み出せば、ゲンドウの隠れた本音を知ろうとしたならば、二人の関係は変わるのかもしれない。
それをしないまま、もう5年がすぎた。
しかし使徒が訪れた今、終末の時は確実に近づいている。こうして二人の時を過ごせることが、あとどれだけあるだろうか。
話を断ち切るように、ゲンドウが立ち上がった。
リツコの隣に滑り込み、ルームライトの灯りを消す。
天井を見ているゲンドウのその腕に掴まりながら、リツコはしずかに顔を寄せた。
そのままささやく。彼にだけ聞こえる声で。
「…レイに訊きました、シンジくんと何を話していたのか」
「……なんと言っていた?」
「………会話らしい会話はなかったそうです、ただ…」
「…どうした?」
「……ごめん、と、そう言っていたそうです。シンジくんは」
「……」
そのままゲンドウは黙ってしまった。
眠ってはいない、目を開けたまま、天井を見ている。シンジの言葉の意味を考えているのかもしれない、それとも、他の何かのことを。
それはリツコには分からないことだ。心の中は分からない。たとえ隣で寝ていても、どれだけ抱かれても。
戦闘開始時シンジが躊躇してレイが危険にさらされたことは、不問にされていた。
使徒を倒したのは通常兵器の力だとはいえ、強大なATフィールドで無力化したのは初号機の力だったからだ。
直前の戦闘で命も危ぶまれたシンジが、戦う寸前に怖気づいたとしても、それはむしろ当然のことだとみな感じたのだ。結果的に使徒は倒され、シンジの働きで二人のパイロットは生きている、処罰する理由はないと。
これまでの超人的な働きにシンジを警戒していた者もいたが、今回見せた脆さに一様に安心したようだ。ミサトなどはその典型だろう。
だが、リツコには分かっていた。
故意にシンジがATフィールドを発生させなかったということが。
零号機が倒されるのを、見過ごしにしようとしていたということが。
けれども結局彼にはそれを果たすことができなかった、そのことが。
言っても誰も信じないだろうが。
ゲンドウならば信じるかもしれない、すでにそう疑っているかもしれない。
だが、シンジの、そしてリツコが知る「未来」のことを知らない限り、正解に行き着くことはないだろう。
シンジにはレイを死なせる動機などないはずなのだから。
ゲンドウの目は天井を見つづけている。すでにリツコの存在など失念しているかのように、暗闇の向こうの何かを見つめている。
その瞳は、シンジに良く似ていると、リツコは思った。
サードインパクトを止めると言った時の、彼の瞳と。
ゲンドウが望む「未来」とシンジが求める「未来」、同じ色の瞳で、二人が見ているものはどれほど違うのだろうか。
そしてそこに、自分はどう関わっていかなければならないのだろうか。
ゲンドウを見ることをやめ目を閉じると、リツコは彼にいっそうすりよった。
拒否されることはない、抱き返されるわけでもない。
それでも、今はこの温かさを感じることだけできればいい、そう思えた。