少しずつ、時は進んでいく。
少しずつ、何かを失いながら。
Written by かつ丸
小さな写真が、その書類にはついていた。
数ヶ月前からリツコの手元にあったそれを、もう何度見返したことだろう。
気の弱そうなただの子供の肖像が、写真には写っている。
書類に書かれた身体データにも特別なところはない。運動部に入っていないせいか体力的には平均値を下回っているほどだ。
知能指数も平均より少し高い程度だ。彼の両親がそれぞれ優秀な学者であり、特に母親はまぎれもなく天才であったことを考えれば意外だともいえるかもしれない。
一般的な、どこにでもいる中学生、エヴァとのシンクロ適性を示す符号の他に特別なものなどなにもありはしない。
そのことがどこか信じられないように思えた。
黒い髪は変わっていない。しかし瞳は違う気がする。
色も形も変わらないけれど、宿した光はあきらかに今の彼のそれとは違う。
まだ、「戻る」前だからだろうか。
この写真に写っているのは、リツコが知る彼とはすでに別人なのだろうか。
碇シンジ。サードチルドレン。
碇ゲンドウと、そして碇ユイの子供。
未来から返ってきた、そう言った少年。
そのことをすでに疑ってはいない。
確かにシンジは未来の出来事を知っている。
ありえないことでも、信じ難いことでも、真実を曲げることはできない。
認めるしかなかった。
記憶を持ったまま過去に戻る。
人の意思でできるものではない、それはすでに神や悪魔の領域に属することがらだろう。
科学で説明がつくことではおそらくない。
事実として受け入れる、そうすることしかできなかった。
あの時に戻れたら。
そう思うことがリツコにもないわけではない。
たとえば子供の頃。
なにも知らないまま祖母に世話を焼かせ母の後をついてまわりはしゃいでいるだけだったあの頃。
たとえば学生時代。
セカンドインパクトの傷痕が街のそこかしこに残っていたとはいえ、ミサトや加持たちとなんの思惑も隠し事もなく付き合えた日々は振り返ると輝いていたように思える。
もう一度繰り返すことができたら、それはきっと幸せなことだろう。
実際にすごしていた時には、今はもう思い出せない様ざまな悩みや苦しみもあったのかもしれないけれど。
あの時に戻れたら。
今とは違う自分になっていたのだろうか?
たとえばマギ完成の前夜、飲みに行こうというミサトの誘いを断って、ナオコと一緒に帰っていたら。
そうしたら母を失うことはなかったのかもしれない。
直前まで会っていたが、彼女が自殺することなど感じられはしなかった。
警備からの連絡を受けた時も悪い冗談だとしか思えなかったほどだ。
実際に死体を見るまで信じることは出来なかった。
ナオコがいなくなったために、リツコはE計画の全てを背負うことになった。
学会でも有名だった母の庇護の元から、とつぜん独り立ちすることを強要されたのだ。
何の実績もない20代半ばの小娘が世界最高峰の研究機関の中心になる、そこに摩擦が起こらないはずがない。
侮蔑や疑問の視線、それを跳ね返すにはリツコはただがむしゃらに走るしかなかった。
エヴァの完成を目指すことが生活の全てになり、ジオフロントの底で機械に囲まれて5年間をすごした。
もしあの日に帰れたら、ナオコがまだこの世にいたら。
自分の20代はもっと違ったものだったかもしれない。
たとえば…ゲンドウに初めて抱かれた夜、途中で諦め身を任すことをせずに最後まで抵抗していたら。
暗い研究室の中で、突然襲い掛かられたあの時。
確かに力ではかなわなかったろう、けれどゲンドウにはどこか試すような様子もあったような気がする、今思えば。
抗ったことは確かだ、あの時は彼に愛情など感じてはいなかったはずだから。それでも自分に打算はなかっただろうか。
彼に抱かれることの意味、ゲヒルンの頂点で権力をふるうゲンドウをバックにもてば組織の中でリツコの発言力はあがる、そう考えなかったといえるだろうか。
汚れた。
そう思った。
抱かれたことが、ではない。
できるはずの抵抗を途中でやめたことで、リツコは自らを汚した、そう思った。
あの時、自分は売ったのだ、この身体を。
もし抱かれなかったら、ここにはいられなかったかもしれない。ゲンドウがいやがらせをするとは考えにくいが、自分の方がいたたまれなくなっていただろう。
ゲヒルンを抜けることはできなくても、ドイツやアメリカの他の支部に異動を申し入れれば拒否はされなかったに違いない。
エヴァの開発はリツコでなければできない、そういうわけではないのだから。
ゲンドウに抱かれ、秘密を共有し、数少ない彼の協力者としてこの場所にいる。
名実ともにかつてナオコがいたポジションにリツコはいるのかもしれない。
母と同じ道をなぞるようにたどっているだけなのかもしれない。
あの時に戻れたら、もう一度繰り返せるなら、自分は違う道を選ぶのだろうか。
ゲンドウの元を離れ、エヴァからも離れ、刺激のない、しかし落ちついた生を選ぶのだろうか。
後悔をしているわけではない。
今の地位に不満があるわけではない。
ゲンドウとの関係も、すでに失うことを考えられないものになっている。
だが、将来はどうだろう。
このまま行き着く先は、自分が望む場所なのだろうか。
人の種の終わり。滅亡の時。
補完という名の死。
微笑むゲンドウとレイの姿。
『あの時に戻れたら』
いつか自分が後悔とともに思うかもしれない、その「あの時」が、「今」ではないのだろうか。
「今」ならまだ引き返すことが出来る。
「今」ならまだ未来を変えることが出来る。
「今」なら…
だからシンジは帰ってきたのかもしれない、未来から。
リツコに、そのことを教えるために。
だからといって、簡単に生き方が変えられるものではないけれど。
迷いがないわけではない。
それでも、いまさらという気もした。
エヴァは完成し、使徒はもう来ている。
補完への道を進み始めてしまったのに、どうすることができるだろう。
使徒の倒し方を変えたからといって、それで何が変えられるというのだろう。
シンジがいつか言っていたように、それでも変わっているのかもしれない。
リツコが知らないうちに、未来は変化しているのかもしれない。
ならばなおさら、リツコに出来ることはないような気もする。
使徒をどう倒せばいいか、シンジがリツコに求めているのはまだそれだけだ。
他に何も訊かないのは、知ろうとしないのは、彼がすでに知っているからなのだろうか。
わからない。
判断するには、データがあまりにも不足している。
シンジが何をしたいのか、何をしようとしているのか、サードインパクトを止めるために、そのためにどうするつもりなのか。
「……まだしばらくは、様子を見ていくしかないわね」
独り言とともに、リツコはシンジの写真がついた書類を戻しファイルを置いた。
今、結論を出す必要はない。
シンジが動き出す、その時でも遅くはないだろう。
考えを振り払うように、リツコは机の上にある別の書類に視線を移した。
一枚の報告書。
これは先ほど届いたものだ。
『JA事故報告』、先ごろ行なわれた対使徒用巨大ロボット開発実験の顛末がそこには書かれている。
民間企業と日本政府によって共同開発されたジェットアローンという名のロボット。核燃料、無人、遠隔操作、エヴァと全く違うアプローチでつくられたその兵器が、完成披露会での披露運転中に操作不能となった事件、その事後報告だ。
現場の責任者である時田の左遷だけでなく、政府や企業団体の何人かが詰め腹を切らされたようだ。
原子炉の暴走でメルトダウン一歩手前までいったのだ、たとえ周囲に民家が無かったとはいえ許されるわけが無い。
それが世論だった。
事故が、たとえ第三者に仕組まれたものであれ。
嵌められたことに気づかない無能は、やはり罪なのだと思う。
ATフィールドを持たないロボットに使徒が倒せるはずが無い。それでも使徒に対する兵器をネルフ以外が開発しようとすること、それは許してはならないことだった。
完膚なきまでに叩き潰す、そうすることをゲンドウは選んだのだ。
児戯に等しいとはいえ、一大プロジェクトであるJA計画を頓挫させる、その意味は大きい。協力していたのはいずれもネルフに反目、もしくは距離を置こうとする者たちだ。彼らの発言力は確実に低下しただろう。
ミサトあたりが唾棄しそうな考え方ではあるが。
JAの事故についても、やはりシンジは知っていた。
彼の知る『未来』では、ミサトが直接乗り込んで止めたそうだ。
正直言ってなぜそうなるのか理解できない。
危険を冒して彼女が動かなければならない理由などなかっただろう。
ネルフとは関係の無い、責任をとる必要の無いことなのに。
彼女らしい。そう思ったのも確かだが。
結局JAの発表会にミサトを連れて行くことはしなかった。
もともと向こうが招待していたのはリツコなのだ、なんの問題も無い。
発表会へミサトの代わりに連れて行ったたマヤが、JAの暴走に怯えて震えていたのは、少しかわいそうだったかもしれない。
その様子を見れば、あの事故がネルフの手によって起こったなどとは誰も思いはしなかっただろう。
ゲンドウたちが事故を仕組んだことについて、シンジには話さざるをえなかった。
暴走しても、自然と止まるように細工されていることも。
驚いたような顔をした後、少しして彼は苦笑していた。
怒っている様子はない。呆れているようにも見える。
人類の滅びを前にしての縄張り争い。確かにあまりにも下らないことだ。
そう考えても不思議は無い。
それ以上そのことは話題にはならなかったけれど。
仕組まれたシナリオ。誰かに定められた運命。
シンジには同じに思えたのかもしれない。
JAのたどった道と、ネルフで使徒と戦う自分たちのことが、重なって見えるのかもしれない。
それはリツコの考えすぎだろうか。
読み終えた報告書を丸め、灰皿に置いて火をつけた。
すでにこれはリツコにとって必要のないものだからだ。
オレンジ色にゆらめく炎が書類をみるみる灰へと変えていく。
またたくまに形が失われていく。
一度灰になったものを元の紙へ戻そうと思っても、できることではない。
それとも時をさかのぼれば、それは可能になるのだろうか。
燃やしたこと自体が、なかったことになるのだろうか。
そのことへの答えを一番欲しがっているのが、シンジなのかもしれない。