Written by かつ丸
沈黙が場を占めていた。
重苦しい空気、というわけではない。
不躾な、そして値踏みするような視線で加持はシンジを見ている。シンジは戸惑ったのか、黙ってしまっている。
それを取り持つわけでもなく、リツコは二人の様子を見ていた。
我慢しきれなくなったのか、シンジがこちらを向く。
「…え、えっと…リ、リツコさん?」
「ああ、初対面だったわね。彼は加持リョウジくん、私やミサトの学生時代からの友人よ。今まではドイツにいて、今度から本部付きになったの」
「特殊監査部所属の加持リョウジだ。よろしくな、碇シンジくん」
「…はい、よろしくお願いします」
挨拶に不自然なところはなかった。
安心したように、シンジは破顔している。少しリツコの悪戯がすぎたかもしれない。
当然シンジは加持のことは知っている。アスカと一緒にくることも知っていた。
太平洋艦隊へ弐号機のソケットを運ぶのにあたってはミサトが派遣されたのだが、シンジが同行するという案もあったのだ。
そして「未来」ではそうだったとシンジからリツコは聞いていた。
ゲンドウの意向はどこにあったのかわからなかったが、リツコは難色を示した。弐号機とシンクロする見込みのないシンジがいっても意味はないはずだし、なにより目の届かないところで加持とシンジをあわせたくない、そう思ったからだ。
もとより前者の理由しか言いはしなかったが。
仮に弐号機がやられることがあっても、本部に被害が及ぶわけではない。万が一船ごと沈められたら、ネルフは二人のチルドレンを同時に失うことになるのだ。
結果としてシンジは本部待機となった。
アスカのみでの使徒戦を、シンジは不安に感じていたのかもしれない、しかしリツコに強く抗議するということはなかった。
レイやミサトに対してそうであるように、アスカと接触することも彼は恐れているのだろう。
それは彼自身の犯した罪と向き合うことになる、その思いゆえなのだろうか。
「訊きたいことがあるんじゃないの、加持くん」
「え、僕にですか?」
「いや、ただどんな子かなと思ってね。ドイツでも評判だったからな、アスカも気にしてたし」
「…そうですか」
シンジの表情が微かに翳った。
それに気づいたのか、加持の眉が少し上がる。
「アスカにはもう会ったんだろう、シンジくんは」
「ええ…同じクラスになりましたから。話したことはほとんどないですけど」
「そうか、まあ同じパイロット同士、仲良くしてやってくれよ。ここでは君のほうが先輩だしね」
「……そうですね……」
静かな口調で答え、シンジが加持を見つめ返した。
表情の翳りはそのままに、奇妙な微笑みを浮かべながら。
「…命令があれば、そうしますよ」
「よかったの、あれで?」
「…はい」
研究室にはすでにリツコとシンジの二人しかいない。加持はすでにこの場を去っている。
居心地の悪さにいたたまれなくなった、というわけではないだろう。それほど神経は細くないはずだ。
今日はただの顔見せ、きっかけづくり、そしてその目的は達したということだろう。
先ほどまで加持が座っていた椅子に座るシンジを見ながら、リツコは彼の表情から消えない翳りについて考えていた。
その原因、それはやはりアスカにあるのだろうかと。
そしてもう一つ意外だったこと、加持には秘密を明かすかと思ったが、言外にシンジはそれを拒否した。シンジだけの話ならともかく、リツコが肯定すれば加持はおそらく信じただろうに。
自分から話すつもりはないが、シンジから頼まれれば、拒否するつもりもなかった。
サードインパクトを阻止するためなら、加持は協力を惜しまないだろう。
この国の政府や戦自にもパイプを持つ彼は、ある意味ゲンドウにも対抗しうる力を持っている。
しかし、最初からシンジにそのつもりはなかったようだ。
もっとも今そのつもりがないだけでいずれ話すつもりなのかもしれないけれど、ならば先ほどのような拒み方をする理由はないはずだ。
いつかシンジは言っていた。加持もミサトも真実から遠いところにいると。
その本当の意味を、リツコはまだ掴んでいないのかもしれない。
そしてリツコだけが、秘密を共有している理由も。
その疑念を振り切るように、リツコはシンジを見つめた。
シンジが言おうとしないなら、考えてもしょうがないだろう。今話すべきことは別にある。
「…それで、これからのことだけど…」
「…はい」
「当分、私から呼び出すことはしないわ。もし、必要があるなら電話して頂戴…メールでもいいけど。…できるだけ都合をつけるから」
「……わかりました」
メモに番号とアドレスを書き、リツコはシンジに手渡した。
受け取りながら、シンジが不思議そうな顔をする。こちらを向くその瞳が戸惑っているのが分かる。
少しはリツコに頼っている部分がある、だから急に突き放されるようで不安なのかもしれない。
そう考えるとおかしく思えた。
なだめるように笑い、そして少年の耳元にくちびるを近づけた。ほとんどつなげるようにしてささやく。
「安心して、少しの間だけよ。…加持くんがどう動くか、見極めるまで、ね」
シンジ以外の誰にも、それは聞こえることはなかっただろう。くちびるが動く様すら見えることはなかったはずだ。
おそらく加持がさきほどこの部屋に仕掛けたであろう、「耳」や「目」を使ったとしても。
加持をひきいれないなら、逆に一番注意すべきなのは彼だ。
リツコやシンジの行動に違和感を持つとすれば、ゲンドウや冬月を除けば彼以外考えられない。
当分は使徒がくることはない、そして次にくる使徒のことも聞いている。
ここで間を空けることも必要かもしれない、第五使徒とのあの戦い以降、シンジは実験のあったときはほとんど必ずこの研究室にも来ていたのだから。
そうするようにリツコが指示したせいもあるが。
表向きは聞き取り調査、ミサトやゲンドウにはそう言ってあった。
積極的にシンジの持つ情報を訊き出す、それが目的だった。
シンジの言葉が真実だと確信した以上、未来から帰ったという事実は、科学者として興味深いことでもある。
リツコが開き直ったというわけではないが、ずっとシンジに持っていた畏れのような気持ちは少し薄らいでいた。
それは彼が結局レイを見殺しにはできなかった、それゆえかもしれない。
彼の知るサードインパクトを避ける、もっとも安易だとも思える手段、綾波レイの排除、それを成し遂げはしなかった。
涙を流しながら、レイを助けた。
そこに彼の真実を見たような気がしたから。
レイには代わりがいる、今のレイを殺してもそれは殺したことにはならない。表向き死んだ者を生き返らせるのは確かに簡単ではないが、決定的なものではない。
だからリツコも無理にシンジを止めることはしなかった。避けようとはしたけれど。
あの作戦の後、初めてこの研究室で二人きりになった時、シンジは言った。
怒らないんですか、と。
それにリツコは何も言わなかった。ただ訊ねただけだ。
シンジはそれでよかったのか、そのことを。
分からないと首を振りながら、シンジは微かに笑っていた。自嘲的な笑いだったかもしれない。
それでも、何かを諦めたようなそんな様子ではなかった。
『どちらにしても、同じことだったかもしれないですから…』
独り言のようにつぶやいた彼の言葉は、もしかしたらレイの秘密をすでに知っている証だったのかもしれない。
シンジはレイが人間とは言えないことを、おそらく知っている、そしてそれでもリツコにレイの「正体」を訊ねたことはなかったのだから。
ならばなおさら、シンジがレイを助けたこと、そのことに意味があると思える。
彼が何を知っていて何を知らないのか、そして何を考え、何をしようとしているのか。
強い決意と脆い心の狭間で流したのが、あの時の涙ではなかったろうか。
それを知りたいがゆえに、リツコも一歩踏み出した、シンジのほうに。
ゲンドウから心を移したわけではない、彼を裏切るつもりなどない。
それでも不満足な知識以外何の力も持たないシンジがあがいていることが、自分の心を引き裂きながら運命に抗おうとしていることが、とても好ましく思えたのは確かだ。
もしかしたらレイを助けてくれたことに、リツコは感謝しているのかもしれない。
あの時レイを危機に陥れたのは、シンジ自身だというのに。
「リ、リツコさん、あの……」
目の前ではシンジが耳朶まで赤く染めていた。少々刺激が強すぎたようだ。
ミサトやマヤにこんなところを見られたら、きっと大騒ぎになることだろう。
その時ゲンドウは、どう思うだろうか。
「はい」
「…どうしたんだ、これ?」
「返すわ。忘れ物よ」
自動販売機の前。
白衣のポケットから取り出したいくつかの電子機器を、リツコは加持に手渡した。
シンジが部屋を出た後研究室内をスキャンし、発見した盗聴器や電子カメラ。あの短時間でリツコの目を盗みながら、よくこれだけしかけられたものだと思う。
それを受け取りながら、加持はとぼけた返事をしている。
騙し合いにすらなっていない、せいぜいとぼけ合いだ。
もちろんゲンドウが仕掛けたものではない。そこまで姑息な男ではない。
定期的に研究室や自宅をスキャンしているリツコの方が、むしろ疑い深いのだろう。
「…記憶にないけどな。とりあえず預かっておくよ」
「どちらでもいいわ。でも、もうやめてね」
笑いながら、それでも加持の目を睨んでリツコは言った。そんな言葉で彼が臆するとは思わなかったけれど。
苦笑して加持が頷いた。そして言う。
「……お父さんに似ているのかもしれないな」
「誰が?」
「彼だよ、碇シンジくん。…さっきの彼の答はなかなか凄みがあったぜ。中学生とは思えなかった」
「…そうだった?」
実際加持はあの後絶句していた。
確かに華奢な外見からは想像もつかない、大人びた返事だったかもしれない。
「ああ、なかなか興味深いね。機会があればまた話させてもらうよ」
「別に私の許可は要らないわよ。あの子はミサトの管轄なんだし」
「そんな雰囲気はなかったけどな。葛城が僻むのも無理は無いな」
シンジとリツコの関係に探りを入れているわけではない、ただの軽口だ。加持もリツコがあんな子供を相手にするとは思ってはいないだろう。
たとえさきほどの会話を聞いていたとしても。
ただ、リツコが彼から何かを隠そうとしていること、それには気づいているにちがいない。
事態は彼の想像力の範囲から大きく外れている、たどりつけるはずもないが。
「仕事とプライベートは別よ、当然」
「…リッちゃん?」
「あまり、おかしな噂広めないでね。まだ、邪魔されたくないの、あの子とのこと」
その言葉を、どう受け取ったのだろうか。
小さく口をあけたまま言葉を失っている加持の姿が、少し愉快だった。