Written by かつ丸
午前9時、一般的な通勤時間からは少しずれている。
こんな時間にコインクリーニンングを利用しているのは、まっとうな勤め人とはなかなかいいがたいだろう。
実際リツコの仕事はまっとうとはいえない、世間の基準ではきっとそうだ。
ここのところ実験が立てこんだ関係で残業が続き、洗濯物もかなりたまっていた。
同年代の友人のほとんどが結婚し一部では共稼ぎのものもいるが、この状態ではリツコには不可能だろう。
そのための相手もいないけれど。
「だいぶ雰囲気変わりましたね、ネルフも」
「…アスカが来てからってこと?」
「ええ、最初は生意気かな、とか思ってたんですけど。でも年相応に無邪気だし、可愛いですよね」
「それは…そうなのかもしれないわね」
リツコと並びながらマヤが話し掛けてくる。
なにげない世間話のつもりなのだろう。だが、彼女が言っているのは他の職員の代弁でもある。
確かにレイやシンジだけのときよりアスカが来てから全体の雰囲気は明るくなった。
それはミサトの態度も影響しているのかもしれない。彼女から以前のような張り詰めた重苦しさが消えつつあるように思う。
使徒の迎撃が順調なことも、理由の一つではあろうが。
人との接し方を知らないレイと、必要以上には人と接しようとしないシンジ、戦わせている子供たちがどちらもミサトと馴染もうとはしないことこそ、彼女にとって苦痛だったのだろう。
たとえ罵倒交じりでも、コミュニケーションを持つことで親近感は生まれる。
面と向って文句を言われることで、かえって楽になることもある。その相手に罪悪感を持っているときは特にそうだ。それが無意識のものであったとしても。
「…今日も、初号機の実験ですか?」
「ええ…零号機と並行になるけど。苦労かけるわね、あなたには」
「私は全然平気です。ただ…シンジくん今日も学校行けないなら、少しかわいそうかなって」
「しょうがないわ。…人類が生き延びるためなんですもの」
「それはそうですけど…でも、そんなに緊急性があるんでしょうか?」
マヤの言葉は無理のないことだ。
かれこれ一週間、シンジは学校を休んで本部に詰めている。高シンクロ下でのエヴァの連動適性を模索する、そのための実験が必要だとリツコが申請したのだ。
浅間山で破損し修理が進められていた弐号機は使えない、一番シンクロ率の低いレイでは十分な実験ができない、だからシンジを使うことの必然性は説明できた。
レイはともかく、アスカは不服のようだった。どんなことにせよ自分が『選ばれない』ことには強い反発を示す彼女も、やはりどこか欠けているのだろう。
別にアスカでも良かった。ただ、実際には実験の中身などほとんどない、効果がほとんど見込めないことを考えると、時間をつぶしているだけのようなものだ。
本当の事情を知らないアスカでは、退屈で耐えられなかっただろう。実験につきあわされているマヤがそうであるように。
シンジは文句一つ言わずリツコに従っている。それは彼は知っているからだ。
もうすぐ、使徒が来ることを。
「緊急性というより、今くらいしか余裕がないじゃない。…零号機の実験が成功したら、E計画も次の段階にうつるんだもの」
「…確かに、そうですね」
一瞬彼女が暗い顔をしたのは、きっと気のせいではない。だが、それはマヤの内面の問題だ。
ネルフは何も強制しない。これまでも、これからも、彼女に選択肢が無いわけではないのだから。
「あなたの言うとおり、実用化の見込みが少ない実験ではあるけどね。でも、うまくいけばエヴァの戦闘力は上がるわ。それで生還率が高まればシンジくんのためになることでしょ?」
「…はい、すみません生意気言って」
「いいのよ。でも、気になるなら、シンジくんに勉強教えて上げたら? 中学生の問題なんてあなたには役不足でしょうけど」
澱んだ空気を振り払うように軽口を言った。マヤにそんな余裕など無い、それはよくわかっているけれど。
それでも、もし実現すれば、きっとそれはほほえましい光景になるだろう。
マヤが相手なら、子供らしく笑うシンジの顔が見られるかもしれない。
それがどんなものか、リツコにはすでに想像もできなかった。
アラームが鳴り、完了の文字が点滅した。
パッキングされた洗濯物が出てくる。それを受け取り二人そろって表に出た。ギターを抱えて青葉が待っている。彼や日向の住居はマヤと同じく独身寮だ。彼らオペレーターたちはいちおうニ尉の肩書きを持つ軍属でもあるから、それも当然なのだろう。
ミサトがマンションで暮らしていることのほうが、不自然なのかもしれない。
「早いのね、シンジくん」
「……おはようございます…別に早くなんかないですよ、もう9時半だし、それに僕の部屋は本部の中ですから」
ネルフ本部の休憩室、自動販売機前で座っていたシンジが顔を上げた。
何を飲んでいたわけでもないようだ。備え付けられた椅子で休んでいただけかもしれない、他に人影は無かった。
技術部の面々が出勤するのはもう少し先だし、総務をはじめとしたいわゆる官房系の職員はちょうど仕事をしている最中だ。だから休憩している者などいないのだろう。
立会いをするはずのミサトも、まだ来てはいないようだった。彼女はそろそろ実験に飽きてきた頃だろう、別に具体的な仕事もない、だから遅れてくるつもりなのかもしれない。
「不便じゃないの? ここ、買い物するところもないし」
「もう慣れましたから、大丈夫ですよ、マヤさん」
そう言ってリツコの隣のマヤに微笑む彼の表情は、子供らしいという表現からは程遠かった。
達観したような、そんなふうにも思える。
ほとんどの職員はここではなく上の街に家を持っている。数百人分の居住設備があるとはいえ、夜間ここに残るのは宿直の職員を除けばそう多くはない。
実験や仕事で徹夜をするものはいるかもしれないが。
シンジの住むところは施設内といってもかなりはずれにある、それこそ誰もいなくなるのではないだろうか。
マヤはそのことを知っている。青葉も同様だ。
「なあ、シンジくん、何か困ったことがあったらいつでも俺たちに言ってくれよ。…女性には頼めないことでも、何でも相談にのるぜ」
「……青葉さん、何か厭らしいこと考えてません?」
「あはは、ありがとうございます。その時はお願いしますね」
少し笑い声は乾いていたかもしれないが、シンジは普通に答えている。
マヤや青葉に対しては、ことさらに拒絶することはないようだ。
ミサトにアスカ、そして加持。
シンジが避けているのは、かつて彼が親しかった人たちなのだろうか。
「じゃあ、またあとでね 10時半から実験は始まるから、それまでに準備しておいて」
「…あの、リツコさん」
「どうしたの?」
「昨日の実験の時に、ちょっと気になることがあったんですけど…」
「そう……」
シンジの遠まわしな言葉は、マヤや青葉の存在に気を使ってのものだろう。
この一連の実験をはじめてからシンジと二人で会う機会は無かった。次の戦いについてもう一度確認しておきたいのかもしれない。
「わかったわ。ここじゃなんだから、着替えたらいったん研究室に来て」
「はい…それじゃ、失礼します」
頷いてシンジは去っていった。その背中を3人の大人たちが見ている。
白のカッターシャツに学生服の黒いズボン、マヤよりも低い身長の彼は、どこから見ても普通の子供だ。
そう、子供なのだ、チルドレンは。
彼らを戦わせていることに、ミサトも含めたネルフの職員たちが疑問を感じるのはあたりまえだろう。
だから必要以上に前向きなアスカが、逆に好まれるのだ。
「…だいじょうぶでしょうか、シンジくん」
「一度様子を見に行ったほうがいいかもしれないなあ」
「司令もどうしてほうっておくんでしょうね。親子なのに」
ゲンドウもシンジも同居することなど微塵も考えてはいない。少なくともゲンドウはシンジを避けているようにリツコには思えた。
ことさらに、冷たく接している。近づけないようにしている。利用するつもりなら、むしろそうしないほうが効果的だろうに。
ゲンドウに愛情が無いわけではない、彼は人に言われるほど冷血ではない。リツコはそれを良く知っている。
生き方が不器用なだけ、ずっとそう思っていた。
しかし、はたしてそれだけなのだろうか。
「それで、どうしたの?」
研究室にシンジを迎え、リツコは問い掛けた。
当然盗聴器のたぐいのチェックはしている。加持もあれ以来仕掛けた様子はない。
シンジは気にしていないようだ。リツコが問いかけた以上答えても問題ないはず、そう考えているのかもしれない。
いつものように、淡々とした調子で話し始めた。
「…たぶん、そろそろだと思うんです。はっきりとは言えませんが」
「進路指導面談の日時について連絡があった日、だったわね。…でも、それが今日かどうかはわからないんでしょう?」
「はい、学校に確認してもらえば分かるのかもしれませんけど。ただ、そんなに大きく違うことはないと思います」
使徒が来た日時まですべてシンジが完全に覚えているわけではない。なにか出現と前後して印象深いことがあれば記憶に残る、そういうものだろう。
次の使徒出現についても、そういったできごとはある。ネルフ、いや、この街全体が停電に襲われ、それと時同じくして使徒が現れたと。
最初は耳を疑った。正副予備すべての電源が同時に落ちるなど理論上はありえないからだ。けれども事故ではなく故意なら、確かにそれは可能だろう。リツコにでもできる。
ただの事故なら点検すればすむが、故意におこされるそれを自然な形で防ぐのはかなりの困難を要する。不可能といってもいい。
ならば使徒にだけ対処していたほうが効率がいい、リツコがそう判断した結果がシンジのネルフ待機だった。
地上に上がるタイミングや方法など、クリアすべき問題は多いけれど。
シンジの言うように、中学校に進路指導の予定を聞けばいいのかもしれない。
だが「プリントを配るのはいつか?」などと訊くのは、あまりにも不自然だった。
「…じゃあ、心積もりはしておきましょう。実験は午前で終わって午後の適当な時間に初号機は実験場からケイジに戻す、あそこのほうが出撃はしやすいはずだから。…それでいいわね」
「はい…やっぱりこれからは僕が乗ってケイジまで動かしたほうがいいんですよね」
「…あまり、都合よく見えないほうがいいでしょうね。いつもどおり、ケイジか制御室で待機して。…そうね、私たちの近くにいるのが一番いいわ」
「……わかりました」
納得したようにシンジが頷いた。
レイもアスカも簡単に本部までは来れまい。今回はシンジ一人で戦うことになるだろう。発令所からのミサトの指示も兵装ビルの援護も望めない。
しかし彼の顔に怯えた様子は見えなかった。
いつもの、リツコが良く知る顔だ。レイとは違った意味で感情がうかがえない、表情が無いわけではないのに。
「…ねえ、シンジくん」
思わず、声を出していた。
「はい、なんですか?」
「……次の使徒を倒せば7体目ね、あなたがここに来てから」
「…はい」
少し怪訝そうにシンジが答える。訊かれていることの意味がわからないのだろう。当然だ、リツコ自身よくわからないのだから。
「使徒を倒していくこと、それはネルフの目的そのものだわ。……あなたは、それでいいの?」
全ての使徒を倒したその先にあること。人類補完計画。
その時が着実に近づいていることを彼は知っているはずだ。だが、それを阻止するための行動をしているようには見えない。リツコとの協力関係もあくまで使徒を倒すためだけのものでしかない。
ゲンドウの計画の真意も、ネルフの秘密についても、シンジから訊いてくることはなかった。
「…今は、まだいいんです」
「今は?」
「はい。それに…ちゃんと変わっていますから、前の時とは」
そう言ってシンジは微かに笑った。すでにリツコが見慣れてしまった冷めた笑いだった。
変わっているもの。
ミサトやアスカ、そしてレイとの関係、きっとそのことを指しているのだろう。
それがどういう意味を持つのかは、リツコには良く分からない。
思わず言葉をなくしたまま、研究室を出て行くシンジの後姿を、ただ見ているしかなかった。
華奢で、小さくて、今にも折れそうな、その背中を。