Written by かつ丸
―――― そろそろかもしれない。
シンジのその言葉は、リツコの心に微妙な焦りを生んでいた。
使徒が来るそのことよりも、この本部施設が一時的にせよ機能を失う、そのことの方によりプレッシャーを感じる。
それはここが、リツコの全てがある、そういってもいい場所だからだろうか。
初号機はすでにケイジに運んである。
結局、ミサトは午前の実験には現れなかった。
昨日の実験でもリツコに対してぶつぶつとグチを言っていたので予想していたことではあったけれど。
実際無理に来る必要はないとも言ってある。チルドレンの直属の上司、そのプライドで付き合っていたようなものだろう。
もともとミサトがエヴァの運動性向上を強く望んでいるわけではない、そうなるにこしたことはない、その程度の認識だ。
三機のエヴァがそろったことによる連携を考えるほうが、今の彼女には急務なのだろう。
ネルフ本部作戦部長は、別に閑職ではないのだから。
たいした役目も無い、チルドレンの付き添いというだけでしかないミサトがここに来なくても、後々問題になることはまずありえない。
そもそもミサトがいないことなど技術部の誰も気にしてはいない。言わずもがなの説明をしなくていい、きっとみなそう思っている。
リツコも同じだった。
制御室の硬質ガラスを挟んだ向こう側にある実験棟では、青い色のエヴァンゲリオンが据え付けられようとしていた。
その姿を、ガラスの前に並ぶようにしてシンジとマヤが眺めている。
実験の開始まではまだ当分かかりそうだ。
「…午後からは、零号機の実験だったんですか」
「ええ、そうよ。エネルギー効率の向上実験なの」
「そうなんですか、なんか難しそうですね」
「うふふ、エヴァについては私にもわからないこと多いもの。全部理解してるのは技術部でも先輩くらいだから」
「リツコさんですか。やっぱりすごいんですね」
「うん、すごいの」
マヤはすぐ後ろにリツコがいることを失念しているのかもしれない。別にお世辞をいっているつもりもないのだろう。
シンジはすでに普段着に着替えている。初号機の実験が終わったのにプラグスーツでいることはおかしいからだ。原則として日中は本部内で待機すること、それが彼に今与えられている命令だった。
本部内で連絡が取れる場所ならどこにいてもいい、だから面白そうな実験をしているここにいる。 それが不自然だと、疑問を持つものはそうはいないだろう。
幼児のようにガラスに張り付いたりはしないにしても、興味深げにみているシンジの姿には、無邪気という形容詞すらあてはまるようにも見える。マヤと話している様子にも違和感は感じない。
特別なところのない、ただの中学生。
人に誇れる能力など何も持ってはいない、ただ、エヴァに乗れるというそれだけの少年。
けれども、彼が背負ってしまった運命は、レイよりも重いのかもしれない。
未来の記憶を、
人の滅びの記憶を持ったまま、過去に帰る。
奇跡としか呼べない、起こりうるが筈がない、それでもシンジはここにいるのだ。
未来を変える、過ちを繰り返さない、その十字架を背負って。
それを求めたのは神か、それとも悪魔だろうか。
「先輩、先輩、準備できました」
「……ああ、ごめんなさい。それじゃあ、はじめましょうか」
いつのまにか思考の底に沈んでいた意識が、マヤの声で引き上げられた。
見れば零号機の据付は完了し、みな持ち場についている。
午前の初号機の実験とは違う、零号機の実験はE計画のスケジュールにのっとったものだ。気を抜いているわけにはいかない。
「稼動延長実験、開始します」
気をとりなおしてリツコが合図をしたその瞬間、部屋の明かりが消えた。
いや、明かりだけではない、全ての計器のランプも消えていた。
停電だ。
いずれ起きることはわかっていたはずなのに思わず身体が強張る。
顔を上げた。徐々に焦点が合う、部屋の片隅に彼がいる。
突如訪れた暗闇の中で、ざわめく他の職員たちなど気にならないように、シンジがリツコを見ていた。
かすかに笑っている。
この暗さでは表情など分かるはずもないのに、リツコにはそれはわかった。
ロープを引く職員たちのかけ声が響いている。
ここに世界の科学の粋が集められているなど、今、誰が信じるだろうか。
絶対に無くならない、そう想定しているものが失われると、システムというのはもろいものだ。
何段階の備えを設けたとしてもそれが全て取り払われる可能性がゼロではないのなら、やはりその時のことも考えていないといけなかったのだろう。
今さらいってもせん無いことだが。
ネルフ本部、いや、第三新東京市全体の電力供給が止まっている。
発令所の何も映さないモニターや計器を、数十本のろうそくの灯りが照らしていた。
少しだけ残った電力で、かろうじてマギは生きている。
だが地上から離れたこの場所では、センサー群が使えない現在、外の様子を知ることはできない。
外部との通信手段も失われている。
だから使徒の接近も知ることはできなかったのだ。
ゲンドウはケイジで弐号機の起動準備を進めている。その姿を発令所からリツコたちは眺めていた。
遊んでいるわけではない、復旧のためにマギの操作は続けている。
リツコたちを別に監督しているわけではないだろうが、冬月も中層部に降りてきていた。
一人では間が持たないのかもしれない。
「……初号機とパイロットが間に合ったのは、不幸中の幸いだったな」
「シンジくんが無事殲滅を果たせば、ですけど。…レイやアスカが来るまで待ったほうがよかったかもしれませんね」
「確かに1機のエヴァでは心もとないが…、贅沢を言える状況ではないよ」
「はい…」
日向がもたらした使徒接近の報告を受けて、すでにシンジは迎撃に向っている。射出装置は使えない、地上まで初号機自身の力で出なければならなかった。
その後使徒と戦うのも、初号機一機だけだ。
シンジの知る「未来」とは違う。彼が負けないという保証はない。
来るのがわかっているのだから、最初から地上で3機のエヴァを待機させておけばよかったのかもしれない。
世界の命運がかかっているのだから、確実な手段をとる、それが当然だ。
そうしなかったのは、あまりにも不自然すぎるから、それだけだ。
一度戦ったことのある相手ゆえ、さほど不安のないようなことをシンジも言っていた。
大言壮語するような子ではない、本当に自信があるのだろう。
だが、リツコが冬月に漏らした言葉は本心からだった。
レイやアスカがいずれ来るなら、それを待ってから出すべきだったのではないか。シンジの「未来」にあえて逆らわず、彼を学校に通わせておいたほうが良かったのではないか。
シンジ一人で出すよりは。
ミサトからもゲンドウからも、そしてリツコからも、目の届かないところでシンジは戦おうとしている。
自走砲にも兵装ビルの兵器群にも頼ることはできない、アスカたちももう間に合わないだろう。
動いているのは初号機だけなのだ。
彼が何をしても、誰も止めることはできない。
エヴァを操作するいかなる信号も発することができないうえに、物理的に止められる他の機体にはパイロットはいない。
たとえば使徒に向わず、このケイジで暴れることもできたのだ。マギもゲンドウもリツコも、そして残った2機のエヴァも、今の彼なら全て壊すことができた。
いや、使徒を倒した後エネルギーが残っていたら、なおそうすることはできる。
リツコは気づいていた。今、この瞬間、選択肢をシンジが握っていることを。
少なくとも彼がそう考えてもおかしくない状態であることを。
サードインパクトを止めるといったシンジの言葉、それがこの間のミサトの言葉と重なる。
ネルフ本部の消去。
それがもしかしたら、シンジの本当の目的なのかもしれない。
だが、それはリツコの予想のうちにあったのではないのか?
もしも過去の南極に戻れたならあそこにあった全てを消し去りたい、そう考えていたとミサトに聞いた時から。
そして、今のこの状態も、予想できなかったはずがない。無意識下ではわかっていたようにも思える。
シンジを信じているから、あの時結局レイを救ったように彼にはそこまで踏み切ることはできない、そう思っているからだろうか。
いや、それは嘘だ。
確かにシンジはレイを助けた。
だが、それは彼女に罪がないことを知っているからなのかもしれない。
レイ自身、何も知らないことを知っているからかもしれない。
ゲンドウや冬月やリツコとは、おのずと違うだろう。
いつか彼が動く時が来る。
使徒を倒すためではなく、インパクトを止めるそのために直接的な行動をとる時が来る。
それはもしかしたら、今、なのかもしれない。
わかっていたはずなのに、リツコはシンジの手助けをした。
初号機のその刃が向けられるのはリツコ自身になるかもしれないのに。
どうしようもなく湧き上がってくる恐怖に思わず身体を震わせながら、それでもリツコは望んでいた。
シンジが彼自身の望みどおりに動くことを。
彼がどうするのか見てみたい。少しでも彼の心理を知るよすがになればいい、たとえリツコやみなが危険にさらされるとしても。
今、初号機の紫色の機体がこの施設に現れて虐殺を始めたなら、少なくとも納得はできるだろう。
自分自身の息遣いが、やけに大きく聞こえていた。
作業の手はずっと止めている。ただマヤたちの動きを見ているだけだ。
シンジがここを襲うなどと、それは結局リツコの考えすぎだったのだろうか。
暗闇が包む施設になんの変化も訪れはしなかった。
何分か時間が経った、男たちの掛け声はまだ続いている。
そしてまだ初号機は戻ってきてはいない。
使徒の爆発があれば振動くらいは伝わるはずだが、それも無かった。
「……間に合いそうにありませんね」
「レイたちか……こちらに向っているにしても地上からでは時間がかかるだろうな」
「ええ、それにそろそろ初号機のバッテリーが切れるころですわ」
内部電源が最長で5分間、大型の簡易電池を背負ってはいたが、あのまま戦闘するのは困難かもしれない。
たとえ使いつづけたとしても無限稼動できるわけではない。
「……どうなっているか、確認する必要がありますわね」
「誰か行かせるしかないか」
「…私が行きます。ミサトは来ていませんから」
「君がかね? 他の職員でよかろう。復旧作業のこともある」
「ソフト上の復旧はマギが行なっていますから、その間は手持ち無沙汰になりますし。それに手の空いてるのは私たちだけのようですしね」
リツコの言葉に冬月が周囲を見渡した。
ほとんどの者は発進準備の手伝いに追われている、それがわかったのだろう。しかたないと言うように苦笑いをしている。
最初からその機会を図るためにリツコはゲンドウを手伝わなかった、そこまではわからないだろうけれど、それでもリツコの行動が冬月にはどこかおかしく映ったかもしれない。
苦笑はそれゆえだろうか。だが、止めるつもりはないようだ。
かすかだけれど、優しさのこもった口調で冬月は言った。
「…気をつけて行きたまえ、あまり無理をしないようにな」
「はい、すみません」
答えながら、リツコはマヤがこちらを見ているのを感じた。
何も言わずに不安そうな瞳をしている彼女に顔を向け、なだめるように頷いた。
彼女の言葉を待たず、そのままリフトを降りる。
意識は別の場所を向いていた。
地上までは日向の乗ってきた車で向えばいいだろう。
シンジが負けていれば使徒はまもなくこの場所に来る。途中で襲われることになるかもしれない。
だが、そのことは、最初から考えてはいなかった。