Written by かつ丸
選挙カーにスピードを求めるものではない、それはわかっている。
民間人のこの運転手は、できうるかぎりとばしているのだろう。
焦ってもしかたがない、だが、なかなか地上が見えないことにリツコはいらだちをとめられなかった。
それを気にしているのだろうか、同乗している日向がちらちらとこちらを見ている。
「…葛城さんは、どうしたんですかね」
「さあ……どこかに閉じ込められてるんじゃないかしら。でも、よくうまい具合にこんなもの調達できたわね」
「ははは……どうせならスポーツカーでも探せばよかったですね」
「スピーカーがついてる車なんてあまりないもの。ちょうど良かったのかもしれないわ」
「そうですね…」
嫌味をいったつもりはないのだが、そうとられたのかもしれない。
だが、彼のことなど別に気にしてはいない。
ようやく出口が見えた。ゲートが破壊されているのは、この車が入ってくるときに壊したからだろう。考えれば、いかに電気が止められていたとはいえ、簡単に深部までの侵入を許していることになる。
これがたとえばテロリストなどであったら、なすすべはなかったのではないか。
考えてる間に車はゲートを抜け、市街地への道路を走っている。
まだ、使徒も初号機も見えない。
戦いが続いていることは無いだろう、すでに活動限界はとっくに過ぎているはずだ。
他に車が一台も通らない道路、避難しているのか通行人の姿もない。
電気が止まり全ての音が失われた街で、ただこの車が出す轟音だけが響いている。
「見えました!!」
日向の指差した方向、そこに頓挫した使徒の姿があった。
クモのような長い4本の足。「目」のような紋章がかたどられているようにもみえる不気味な身体。
動いてはいない、完全に活動を停止しているように見える。
そしてそのすぐ近くに、紫色の機体が、うずくまるようにして座っていた。
「……ひどいですね」
「ええ……」
初号機の装甲のところどころが溶けてただれている。
左腕にいたっては手首から先が失われていた。
アスファルトや建物も同じように溶けている。それこそが使徒の能力だったのだろう。
見たところ致命的な損壊はない、初号機が止まっているのは電池切れのためだ。
プラグは排出されている。
シンジはすでにあの中にはいないようだった。
「これ以上は近づかないほうがいいわ、止めて!」
リツコの合図で車が停止した。
危険だというわけではない。
運転手は民間人だ、エヴァや使徒を間近で見られるのは避けたい、それゆえの配慮だった。
車からおりた視界に、プラグスーツを着た少年の姿が映る。初号機のすぐそばで、初号機と同じようにうずくまって座っている。
念のため持ってきた救急箱を車から取り出し、リツコは日向の方を向いた。
「私はシンジくんの状況を確認するわ。あなたは下に使徒殲滅を報告してちょうだい」
「ええ…でも大丈夫ですか? シンジ君を乗せて帰ったほうがいいんじゃないですか?」
「一人で外に出たんだからたぶん怪我はしてないと思うけど。応急手当で足りないようなら、ここからなら地上の施設に連れて行ったほうが早いわ。…それじゃ、よろしく頼むわね」
「わかりました、急いでいってきますから」
そのまま走り去る選挙カーを見送ることもせず、リツコは初号機へと足を踏み出した。
日向が再び戻ってくるのは、当分先のことになるだろう。
「……よく、頑張ったわね」
口から出てきたのは、そんな言葉だった。
結局ここまで百メートルほど歩いただろうか。
その間、顔を伏せたままうずくまっているシンジから視線は外さなかった。
観察していたわけでもない。
遠くから見た彼が、また、泣いているように思えたから。
誰も通らない。誰も見ていない。
使徒のしかばねと、初号機に隠れるように。
誰もいない世界で、少年が一人泣いている。
そんなふうに見えた。
顔を上げた彼の瞳に、涙は見えなかったけれど。
「……リツコさん」
「…身体におかしいところはない? 初号機はかなりやられたみたいだけど」
苦戦だったのだろう。
近くで見ればそれが実感できる。左手を失っているだけではなく、肩口の装甲も大きく融解していた。
両足も素体部分も剥き出しになるほどに溶かされている。
よほど多くの溶解液を浴びねばこうはなるまい。
「ええ、…修理たいへんかもしれませんね。すみません」
「いいのよ。そんなことより、あなたはどうなの?」
言いながらシンジの左腕を軽く掴んだ。一瞬拒否するように彼の身体は強張ったが、そのままなすがままに任せている。救急箱から専用カッターを取り出し、肌を傷つけないように、肩口からプラグスーツを外した。あまり筋肉の無い、細い腕があらわになる。
うっすらとだが左手の皮膚が赤くなっていた。フィードバックの影響で炎症を起こしているのかもしれない。
「…大丈夫ですよ」
「……これだけじゃないんでしょ? 早めに治療を受けたほうがいいわね」
「…本当に、大丈夫ですから。…それよりいいんですか、リツコさん。こんなところにいて」
「あら、迷惑だったかしら?」
「い、いえ、べ、別に、そんなわけじゃないんですけど…」
リツコのすぐ前にシンジの顔はあった。彼はきっと戸惑っているのだろう、頬を赤くしてうつむいている。その様子はただの純情な中学生だ。
普段は冷めた接し方をする彼がたまに見せる素の姿。いくら未来を知っていても、それで世慣れるわけでもない。
からかうつもりはないが、そんな時のシンジは好ましく思えた。
そうリツコが意識することが、すでに彼をただの子供として見ていない証拠かもしれない。
「本部施設の電力復旧には当分時間がかかるわ。今は物理的に切断された回線を直してるころじゃないかしら」
「…誰がやったんでしょうね」
「さあ……ネルフのことをよく思ってない人は多いから」
断言はできないが、この国の政府が動いたのだろうと思う。
先の使徒戦の時に発令したA−17の報復的な色合いも濃いのかもしれない。自分たちの国で大きな顔をするな、立場が逆ならリツコもそう思うだろう。
だが、それで結果的に使徒の侵攻の手助けをしていては本末転倒と言うしかない。
繰り返されないためにも、ネルフは強面で対応せざるをえない、工作過程の痕跡を洗い必ずつきとめる。必要ならば証拠はでっちあげてもいい。
おそらくゲンドウが圧力をかけ、近いうちに政府関係者の誰かの首が飛ぶ。それで手打ちとなるのだろう。
くだらないことだ。
滅びを前にしても実感が湧かなければ、日常を続けるしかない。
それは人の悲しさか、それとも強さだろうか。
シンジは停電の犯人にさほどの興味はないのかもしれない。
それについてそれ以上問い掛けることをせずに、リツコに顔を向けた。
すでにそこには、いつもの彼の表情が戻っていた。
「……でも、どうしてわざわざ来たんですかですか、リツコさん」
「どうしてって……当然、あなたが心配で来たのよ」
「……本当に?」
「……」
リツコに絡んでいるわけではない。シンジの声は静かだった。
言葉を失ったように、リツコが黙り込む。どう答えたらいいかわからなかったから。
この機に乗じてシンジが動くかもしれないと思った、だからリツコはそれを見極めに来た。
本音を言えばそうだが、口に出すことはできない。
彼は結局何もしてはいない、だがそれは、使徒との戦いが長引いたから何もできなかっただけではないのか。それは推測にしかすぎないのかもしれない。ネルフ本部の誰も信じないだろうが、シンジが何かを企んでいたのではないかという疑いを消したわけではない。
そのことが彼にはわかるのだろうか。
軽く微笑みながらシンジはリツコを見ている。怒っている様子もない。
そしてつと目をそらし、軽く腫れた自分の左手の甲に彼は視線を移した。
何も話はしない。くちびるはとじられたままだ。
リツコにもかける言葉はなかった。
沈黙が破られるまでに、どれくらい時間がすぎただろう。
独り言のように、彼は話し出した。
「前の時に…一度壊そうとしたことがあります、本部を。別の戦いの後でしたけれど」
「…そう」
先読みをしたような答え。しかし違和感は無かった。
シンジはずっと左手を見つめている。微笑みは消えていない。
「…プラグの緊急排出機能をロックして、通信を遮断して…それでも、ムダだったみたいですけど、止められましたから」
「…完全に本部からのコントロールを消すことはできないわ。そういうように造ってるの」
「みたいですね。……でも、今なら自由に動けた、そうでしょう?」
再びリツコの方を見て問い掛けたシンジに、静かに頷いた。
やはり、彼は気づいていたのだ。
「まだ…何もする気はないです」
「…なぜ? 使徒がまだ来るから?」
「ええ、それもあります」
「でも…あなたと初号機があれば、なんとかなるんじゃないの?」
ネルフでなくてもエヴァの運用は可能だ。
電力さえあれば動かすことはできる。メンテならドイツ支部の技術者もいる。
使徒を倒すためならこの国の政府もバックアップせざるをえまい。
絶対要素はエヴァとチルドレン、それ以外は付属物でしかない。
シンジの知識があれば残る使徒への対応は可能なのではないか?
「…そうかもしれませんけど、本部を壊しても僕は捕まるだけじゃないですか。イヤですよ、そんなの」
「そう、…それもそうね」
―――だが、サードインパクトと引き換えならば、シンジはそれを選ぶのではないか?
それは言うべきではない問いかけだった。
リツコたちの目的がサードインパクトの実行にこそあると、言外に認めているようなものだ。
しかしシンジが気づいていないとも思えなかった。
シンジが本気でそれを選べば、阻止することは必ずしも困難なことではない。
きっとミサトや加持も協力するだろう、リツコですらシンジが未来から来たことを今は信じているのだ。ミサトたちは自分ほど疑い深くはあるまい
元凶となる人物の排除、それをシンジが選びさえしたなら、
サードインパクトを本気で止めようと、それだけを考えているなら、
この停電を利用する必要すらなかったのではないか。
ミサトに真実を教えたその時には、彼女が自分たちを殺しにくるだろう。ネルフの幹部である彼女を保安部も警戒してはいない。ミサトの腕ならたった3発の銃弾で十分のはずだ。この本部の中心にいるのは3人だけなのだから。
そこに加持が加われば、たとえこちらが警戒していてもたやすく実行できるにちがいない。
しかしシンジはその道を選んではいない。
ミサトに手を汚させたくない、そういうことだろうか。
かつて一緒に暮らした彼女を巻き込みたくない、そう考えているのだろうか。
それほど余裕があるとも思えない。
サードインパクトを止める、そう言いながら、シンジは無為に過ごしているようにさえ見える。
まだ早い、なら、いつになれば条件が整うというのだろう。
リツコの心を見透かしたように、シンジは再び視線をそらした。
となりにそびえる初号機の顔を見上げ、そのままゆっくりと立ち上がる。
リツコよりも頭一つ低い身長しかないシンジのその瞳の先に、鬼面のようにいかつい鎧を着た巨人がいる。
彼がつぶやいた。ほとんど聞き取れないほどの、小さな声で。
ここにいるのは彼とリツコと、そして初号機だけなのに。
「…………目覚めたら…」
「…なに?」
「……母さんが目覚めたら、その時話します。僕がどうしたいのか。…リツコさんに何をしてもらいたいのか」
もう、彼の顔から笑みは消えている。
紫色の機体が映るその瞳には、いつかと同じ強い光が宿っていた。