Written by かつ丸
テーブルの上には2つのコーヒーカップが置かれている。
それぞれ中に入った液体の色が違うのは、ブラックとミルク入りの差だろう。
なにかとリツコの真似をしたがるマヤではあるが、これだけは馴染めないようだ。もともとコーヒーそのものを好きでないのかもしれない。
これをいれてくれたのは彼女だったけれど。
ミルク入りのコーヒーを手に取りながら、マヤはこちらを向いた。
発令所の一角、休憩用のソファー。
時間はすでに深夜になろうとしている。
「ようやく、一息つきましたね」
「ええ、お疲れ様。…とんだイレギュラーだったけど」
「そうですね。…メインの実験日程は大きく遅れちゃいましたもんね」
マギを使ったエヴァの自動操縦システム、中止された実験はその確立の最終過程として必要なものだった。
パイロットが気絶等の不測の事態にあったとき、代わってマギが操縦を行い使徒と戦う、それが表向きの理由だ。実際の指示は発令所が行なうことになるのだろうが。
だが、その開発はかなり遅れることとなった。
そのための設備が根こそぎ使徒に汚染され、使用不能となったからだ。
採取できたデータはまるで不完全で、もののやくにもたちそうもない。ここのところかかりきりだったリツコたち技術部員の努力はほとんど徒労に終ってしまったようだ。
不本意だというのが、みなの本音かもしれない。時間をかければ再開することも可能なはずだ。
それでもE計画全体からすればさほど重要性がある実験とは言えない、ゲンドウからは後回しにして他の実験を進めていくよう指示があるだろう。
そう、あたえられた時間は多くはないのだから。
「…スケジュールの見直しはさけられないでしょう。これから本部ではエヴァ実機をつかった実験を重点にしていったほうがいいわね。それ以外の実験で可能なものはドイツやアメリカでもやってもらいましょう」
「でも、大丈夫なんでしょうか? 同じようなことがおきたら…」
「事故の可能性だけ考えてても前には進まないわ。他支部でのエヴァ開発も本格化しそうだし、ここで全てをするわけにはいかないでしょ」
「…そうですよね、確かに」
ようやく納得したのか、マヤが頷いた。逆らっているつもりなどないに違いない、リツコもそうは思っていない。
マヤの意見は他の技術部員の代弁でもある。この場にはマヤしかいないが、いずれ彼女の口から伝わるだろう。だからこんな会話は必要なことだと考えている。
技術部総括として、ネルフ本部の研究機関はほとんどすべてリツコの管理下にある、だがリツコは気安く話ができる上司ではないのだろう。
他の部員たちもどこか壁を作っているように感じる、それは若年にしてエヴァ開発を成し遂げた功績ゆえだろうか。
それはわからないけれど。
職務以外にほとんど接点のないリツコの部下たちの中で、ほとんど唯一臆することなくリツコと話すことができる存在、それがマヤだった。『先輩』などというおよそ職場にそぐわない呼び名も、 親しみの現れなのかもしれない。
マヤに言われている限り、リツコに違和感はなかった。
「もっともそれでここの負担が減るとも思えないけど…もう少し使徒の間隔が長ければ余裕もでるのかもしれないわね」
「一度出撃したら整備だけでたいへんですもんね」
「そう、常に三機とも臨戦体制にないと、ミサトあたりがうるさいし」
何気なく発した言葉だったが、マヤが苦虫をつぶしたような顔をした。別にミルクたっぷりのコーヒーを飲んだせいではないだろう。
この間の使徒来襲時、作戦部から出されたマギ破棄要求を根に持っているのだ。
「葛城さんはいつも勝手すぎます。作戦部は指示だけしてればいいかもしれませんけど、こっちは限られた人数しかいないんだから」
「それはそうだけど。彼女もあれで考えてくれてるのよ」
「そうでしょうか? 私にはそうは思えませんけど。…マギのことだって、今までの戦闘時のフォローを考えたら不可欠だってわかりそうじゃないですか。むしろ作戦部のほうが不要ですよ」
「マヤ、言いすぎよ」
「……すみません」
リツコに強い口調でさとされ、マヤはうつむいてしまった。彼女の気持ちがわからないわけではないが、リツコが同調していると考えられても困る。
少し間を置くように、リツコはコーヒーをすすった。マヤはまだ手に持ったカップを見つめている。
「…マギが不可欠なこと、当然ミサトも分かってるわ。分裂使徒や落下使徒もマギ抜きでは倒せなかったでしょうから」
どちらも表向きはマギの分析が勝因となっていた。
特に後者は落下位置をほとんど特定したことでスムーズな迎撃ができた。使徒を受け止めるというミサトのアイデアの勝利とも言えるが。
もちろん実際はシンジの記憶によっている、そこまで詳しい予測はマギでもできなかった、だがそれは教えられることではない。
ミサトや他のネルフ職員にはいまさらながらにマギの有用性が示されたことだろう。
「だったら…」
「だけどマギを守ったせいでサードインパクトが起こったら意味がないでしょ? だから作戦部の意見としてあえてああ言ったのよ、技術部の反論の誘い水にするために。もし司令が同じことを言っていたら、私にも拒否できなかったでしょうから」
「そうだったんですか…」
マヤが感心したような顔をしている。
おそらく違うだろう。ミサトにそんな意識はなかった。あの時は本気でマギの破棄を主張していた。他のコンピューターとの違いなど、きっと真剣に考えたことも無かっただろう。
別にミサトをかばっているつもりは無い。ほうっておいたらミサトについての愚痴を際限なく聞かされそうだから、それがいやだっただけだ。マヤと話すのは嫌いではないが、正直疲れていた。
ミサトのことなど、本当のところどうでもよかった。
リツコにとって、マギを守ったことは、母の遺志を守ったことでもある。
シンジに頼らず自分の手でそれを成し遂げたことを、リツコはどこか誇らしくも感じていた。
そしてあらためて実感した、シンジの記憶も完璧ではない、そのことに。
彼が知りえないことはやはりわからない。
まだ聞いていないこれからの使徒のことも含めて、より慎重な対応が求められていくのだろう。
「マギのチェックとデータの調整、すべて完了しました」
「…ご苦労だった。…近々に委員会の査察が入る可能性がある」
「問題ありません。すでに記録上は別のデータになっています」
「そうか」
過去ログからの使徒侵入痕跡の消去。それがゲンドウからリツコに指示されていた。
完全な消去はシステム上できないという建前ではある、しかし、あるていど隠蔽することは不可能ではなかった。
使徒を撃退した時のプログラム作業に比べれば、赤子の手をひねるほどたやすいともいえる。
マギを全て止めて綿密な調査をするならともかく、単純なログチェックで見つかることはない。
立て続けに使徒が来ているこの状態で、いかな委員会といえどもそこまでおおがかりなことはできないだろう。
それを見越しているのか、それともリツコを信頼しているのか、ゲンドウも、その傍らに立つ冬月も不安げな様子はなかった。
「今回の件…もうしわけありませんでした」
「君だけの責任ではないよ。隔壁の異状は私も気づいていたからね」
「ああ、今回の件はあくまで訓練だ。誰も責任をとる理由はない」
「…はい」
ゲンドウの言葉は事務的な響きを持っていた。
けれど、それは冬月の前だからだろう、サングラスの向こうの瞳に冷たさは感じない。ことさらに優しさがこもっている、そんなわけでもないけれど。
「……タイムスケジュールについては後れは許されない。ご苦労だが、そのつもりで頼む」
「分かりました。…今回の影響は少なくありませんが、来週中には相互互換実験にとりかかります」
「期待している。……知ってのとおり、まずはダミーシステムの開発が急務だ。それを最優先で進めてくれ」
「はい、……司令、お伺いしてよろしいですか?」
「…なんだ?」
リツコの問いかけに、顔を上げたゲンドウと目が合った。
三人だけの部屋とはいえ、上意下達がこの場の原則だ。リツコから質問することはほとんど異例だった。
リツコもなにか事前に考えていたわけではない。くちびるは思わず動いていた。
「…今回の使徒ですが、今までのものとは違っていたように思えます。直接的な攻撃ならばエヴァでの対処が有効ですが…」
「……確かにそうかもしれんな。マギを乗っ取っるなどとは、まるでこちらの弱点を知っているようだ」
リツコの言葉を冬月が引き継いだ。
今までの使徒はただ力押しに本部を攻めてくるだけだった。今回は明らかに異質なのだ。
しかし動じた様子もなく、ゲンドウは笑っていた。口元だけを歪ませて、声も立てずに。
「…それも、予想されていたことだ。使徒が進化している、それこそが証でもある」
「……証、ですか?」
「…ああ。……もう、いいだろう。それでは、よろしく頼む」
それ以上多くを語ることも無く、ゲンドウは退室を促した。
リツコには、ただ、それに従うことしかできなかった。
コーヒーカップを持ち、その香りを楽しんだ。
いつもよりも芳醇な気がする。インスタントなので気のせいに違いないけれど。
そのコーヒーを入れてくれた相手は、いつものように向かいのイスに座っていた。
どこか和んだような空気があるのは、おたがい馴染んだせいかもしれない。
黒髪の少年がそこにいた。
研究室では、すでに見慣れた風景だった。
「緘口令が敷かれたわ。表向きはマギの検査を兼ねた非常訓練、そういうことになってるの」
「…父さんの指示ですか?」
「まあ、そういうことになるわね。…この本部は最後の防御壁でもあるもの、その奥深くに使徒が侵入したとなれば責任問題になるわ。たとえ撃退したとしてもね」
特に今回のケースは人為的なミスともいえる。
予測できることではないとはいえ、本部中枢に搬入する機材や資材のチェックはしておくべきだったろう。
計画の速やかな遂行のために重ねた無理が表面にでてきた、その結果かもしれない。
使徒を撃退してからすでに2日たっていた。
シンジがこのリツコの研究室にきたのは、その後初めてだ。ミサトと同居しているアスカと違い、 いろいろな情報は入ってはこないのだろう。
もっともミサトがアスカにちゃんと伝えているかは疑問だが。
シンジが持っていた「記憶」を考慮すると、問われるままにいい加減な返事をしているだけのような気もする。
もっとも、アスカもエヴァと関係の無いところで倒される使徒など、興味はないにちがいない。
どのみち彼女の相手ではなかった。
本来ならシンジやアスカに伝えることには問題はある。
ただのパイロットに知らしめる必要の無い情報だからだ。子供がうっかり喋ってクラスメートから伝われば、機密にしている意味がない。
「…責任回避のため、ですか?」
「正確には、罰を与えられる口実をなくすため、かしらね。…ずるいと思う?」
「…さあ? でも、父さんでも怒られることとかあるんですか?」
「そりゃあるわよ。司令はこの組織のトップだけど、その上には委員会や国連があるもの」
「なんか不思議ですね。……父さんが怒られたり謝ったりしてるところなんて、想像もつかないです」
シンジの言葉に、リツコも思わず笑ってしまった。確かにそれは想像できない。
もっとも、一方的な叱責を受けるほどゲンドウがおとなしいとも思えなかったけれど。
「…でも、使徒の撃退、うまくいったんですね。やっぱり前のときと同じだったのかな」
「それは私にはわからないけれど、たぶん同じだと思うわ。マギを乗っ取ろうとした使徒を、逆に自滅させる。内部への侵食にはそれしかないわね」
「乗っ取られかけたんですか、マギが……そうですか…」
具体的な状況は教えてなかったかもしれない。シンジは少し遠い目をしている。
彼がマギと係わりがあるとは思えない、考えているのはなにか別のことだろう。
彼の「記憶」に関わるなにかだ。
「…どうしたの?」
「……ねえ、リツコさん…内部に侵食してきた相手は、やはり内部からはじき出すしかない、そういうことなんですか?」
真剣な顔で、シンジがリツコを見つめていた。
すでに和んだ空気はどこにも無い。思わず息をのんだ。
気圧されながらも、冷静なふうを装う。微笑みながら答えた。
「…そうね、内部からはじき出すか、侵食されたものごと破壊するか。…後者のほうが安易な手段ね。今回の件ではミサトもそう主張したわ。マギごと破壊しろって」
「……やっぱり…そう、ですよね」
うつむいてシンジが黙る。
何かを考えている、そんなように見えた。今回の使徒のことではあるまい、これから襲ってくる使徒のことか、もしくはそれ以外のなにかだろうか。
彼が避けようとする未来、それに関わってくる事柄だろうか。
これからくる使徒についてはまだ漠然としか聞いていない。
だが、ゲンドウの口ぶりから、残っている時間がそう多くないことも感じる。すでに9体の使徒を倒しているのだ。
無理に作っていた頬笑みを消し、シンジを見つめた。
今こそその時なのかもしれない。
「…シンジくん、教えてくれないかしら…これから来る使徒のことを、全部」
長い時間が経ち、そして、うつむいたままシンジはゆっくりと頷いた。