Written by かつ丸
オレンジ色の液体で満たされた巨大なカプセル。
その中に一人の少女がいる。
ドーム型のこの部屋の中心に据え付けられたそのカプセルに向かい、天井を張り巡らされた数十本のパイプが集まっている。
いりくんだその配線は、まるで脳と脊髄を模しているようだ。
情報の伝達過程は少し違うが、機能は同じようなものだ。
LCLに浸されながら、何も身に付けていない姿で、その少女は、綾波レイはかすかに笑っているように見えた。
うっすらと開いたまぶたの奥の紅い瞳は、リツコを見てはいない。
「…順調だな」
「はい…」
並んで、カプセルの中のレイを見ながら、ゲンドウがつぶやくように言った。
彼の視線もまた、さきほどからずっと動いてはいなかった。
この部屋にリツコが来てから、すでに20分ほどが経っているだろうか。リツコがいくつかのデータチェックを行なっている間も、そして今も、ゲンドウは同じ姿勢でレイを見ていた。おそらくはずっと前から。
リツコの意識は、ゲンドウを向いていた。
実験に集中しきれていないのは、酔いが残っているせいではない。
あれだけ気にしていたのに、シンジのことは、今は脳裏からほとんど消えていた。
5年の間重ねられた呪縛は、簡単に解けはしない。
ずっと、髭とサングラスで表情を隠した彼の、その奥にあるものを探っていた。
いつもと、少し違う。
ゲンドウがこの状態のレイを見るのは初めてではない。ダミーシステムの開発、そのメインとなるものなのだから。それでもどこか違和感があった。
原因は想像がついている。
今の彼に見えているのはレイではない。
今日彼が墓参した失われた妻、レイと同じ容姿を持った存在、碇ユイだろう。間違いなく。
彼女の、幻を見ている。
ゲンドウにその自覚は、はたしてあるのだろうか。
「……気になりますか?」
「…当然だ。これはE計画の要だからな、失敗は許されんさ」
「はい…そうですね」
リツコの言葉にかすかな険を感じたのかもしれない。
気まずさ、もしくは気恥ずかしさ、それを糊塗するように、ゲンドウの声は冷静だった。
追求する気は無い。リツコの声も激しいものではなかった。
お互い顔を見てはいない。並んだままだ。
ゲンドウがそうしているように、リツコもまた、カプセルの中のレイを見ている。
そこでたゆたっている彼女のことを、いや、彼女によく似た女性のことを考えながら。
E計画。
その最初の責任者であり被験者。
ゲンドウの妻。
そして、シンジの母。
彼女の魂はまだ生きている。
初号機のコアとして、今もシンジを守っている。
シンジはそれを知っていた。もしかしたらエヴァの中で存在を感じることもあるのかもしれない。
シンクロとはつまり、コアの中の魂との同一化なのだから、不思議ではない。
だからユイの居場所はわかっている。このカプセルの中にはいない。
そのことを、レイとユイが別人だということを、それを一番よく知るのはゲンドウではないかとも思う。
知っていながらも幻を見ることをやめない、きっと、それもロジックではないからなのだろうか。
理屈と感情は違う。制御できるものではない。
現に今こうしていてもリツコには止められないのだから、目の前のこの少女に対する嫉妬の心が湧き上がってくるのを。
レイのせいではない、彼女に罪など無い、そのことをわかっていても。
どんな思いが隠されているにしても、ゲンドウが今レイを見つめているという事実は動かされるものでは無いから、実のところ彼にとってどちらでもいいのではないかという疑念を消すことはかなわないから、リツコがレイを憎むことも止められないのだろう。
リツコでは埋められないものを、今この瞬間ゲンドウはレイに求めている。
レイがユイでないからといって、自分にとっての慰めになりはしない。
彼の視界にリツコがいない、その事実に変わりはないのだから。
――― 本当のユイさんだったら、私は許せるのかしら?
彼が見ているのが彼の妻なら。
その場合は糾弾されるべきは横恋慕しているリツコになるのだろうか。
それは愉快ではない想像だった。
ユイがもうすぐ目覚める、そうシンジは言った。
だから将来事実になることなのかもしれない。ゲンドウが望んでいることもそうだとすれば合点がいく。
かつてナオコが行い、そして失敗に終わった初号機からのサルベージ、それが「未来」では成功したのだろうか。
初号機のコアからユイが現れるというのか。
はたしてそんなことがありうるのか、リツコには想像もつかないけれど。
ただ単にコアとしてより明確に覚醒する、そういうことなのかもしれない。
どちらにしても、そんな状態ではたして初号機が制御できるのか、そこに大きな疑問もある。
だがシンジが言った以上、なんらかの変化が起こるのは確実だろう。
それがゲンドウの願いを叶えることになるのか、今、尋ねることができればいいのに。
時が止まった空間を壊すように、小さくアラームがなった。
沈んでいた思考の底から、無理やりに引きずり上げられたような気がする。
カプセルから視線を逸らすとリツコはゲンドウに顔を向けた。
彼は身じろぎもしていない。かまわず話し掛ける。
「…今日の予定数値はクリアしました」
「……わかった。…レイ、上がっていいぞ」
リツコへのそれとレイへの口調は、明らかに違っているように思えた。
LCL越しにはゲンドウの声が聞こえるはずもないのに、カプセルの中でレイが頷く。かすかに微笑んでいるようにも見える。カプセルの歪曲とLCLを通した光の屈折がそんな表情をつくっているだけかもしれない。
それでもリツコの目にはどこか艶美なようにすら映っている。
その瞬間、そこにいたのは確かにレイではなかった。そんなことがあるはずもない、そうわかっていたとしても。
リツコの操作によってオレンジ色の液体がカプセルから抜かれ、ゆっくりとレイの白い身体があらわになっていく。
陶磁器のような、それとも京人形のような、にごりのない、透明にすら思える白。
地下に眠る巨人と、同じ色の肌。
全身にLCLを滴らせたその姿は。まるで羊水から生まれでたばかりの女神のようだ。
それは決して比喩などではない。彼女は神なのだから。
レイは何も知らない。教えてはいない。
ゲンドウとリツコが複雑な視線で彼女を見ているのを、いったいどう感じているのだろうか。
いや、ずっと昔から、レイがレイとして生み出されたときからのことだから、すでに慣れてしまっているのだろうか。
「…おつかれさま、体調はどう?」
「……問題ありません」
「そう、じゃあ着替えてきなさい」
「はい…」
静かにレイが頷き、そして装置から離れた。
淡々としたやりとりもいつものことだが、リツコの声はかすかにかすれていたかもしれない。
先ほどまで心を渦巻いていた様ざまな想いを、すべて抑えきれるほどに強くはなかった。
リツコの反応など、レイは気にしていないだろう、かたわらで黙っているゲンドウが、どうかはわからなかったが。
部屋の片隅でレイが身体を拭き、服を身につけている。ゲンドウはすでにレイを見ていないようだ。
どこか遠くを見つめている。何かを思い出しているように。
「……………」
「……………」
「…………司令?」
「……シンジは……」
「…………」
「……強くなったのかも知れんな…」
「…………」
独り言ではない。その言葉はリツコに向けられたものだ。
息子の成長を喜ぶとか、そんな雰囲気ではない。ゲンドウの声には冷たさすら感じられた。
それとも、心の奥底では違うのだろうか。
「…今日、シンジくんに何か言われたんですか?」
「……いや…ただ、そう思っただけだ…」
「…そうですか…………」
「…………」
それきり、またゲンドウは黙ってしまった。
今日シンジが「未来」の真実を告げた、そういうことではないだろう。
仮にそうだとしたらいくらゲンドウでもここまで平静ではあるまい。それは今日最初にゲンドウに会ったときからわかっていたことだ。
今はただ感傷にひたっているだけのように見える。
これが父親の顔、なのかもしれない。不器用な。彼なりの。
彼が本当に話したい相手は、おそらくリツコではない。それにそんなことで代わりにされるのは愉快なことではなかった。リツコはシンジの母親ではないのだから。
レイへの感情とは矛盾している、けれどもどちらも本音なのだ。
シンジとゲンドウとの間で何があったのか知りたい、そのことともまた別の問題だと思える。
だからリツコからはそれ以上訊かなかった。
ゲンドウに気にした様子はないけれど。
佇むゲンドウから静かに離れ、リツコは装置の操作に集中した。
終了作業はマギが行なっている、だから簡単な異常確認をするだけのことだが。
会話のないままに数分すぎたろうか、一段落して振り向くといつのまにか制服を着たレイが戻ってきていた。
それに気づいたのか、ゲンドウも考えごとは止めたようだ。
リツコのほうを向き、いつもの事務的な口調で訊ねてきた。
「…これから予定はあるのか?」
「……はい、もう少しデータチェックをしてから帰ります」
「そうか、…では、私は今日は帰る。レイの警備を手配してやってくれ」
リツコの返事を待たずに、ゲンドウは部屋から出て行った。
誘われていたのかもしれないが、その気にはなれなかった。
ゲンドウもさほどこだわりはなかったのかもしれない、ユイの命日なのだから。
それでも去り際に声をかけてきたのはむしろリツコへのいたわりのような気もする。
やはり、とても不器用だと思うが。
時間は深夜と言うほどではない、電車はまだ動いているだろう。
傍らでゲンドウの後姿をずっと眺めていたレイに、リツコは声をかけた。もう先ほどまでのようなどす黒い感情は消えていた。少なくとも表面上は。
ゲンドウがレイとともに帰ることを選んでいたらまた違ったかもしれない。普段そうすることが、ゲンドウの車にレイが同乗することが皆無ではないけれど、今日はやはり特別だったから。
「…じゃあ、今日はもういいわよ、レイ。ゲートのほうに連絡しておくから、いつもどおり指示に従ってちょうだい」
「はい…」
頷き、レイが去ろうとする。
「ちょっと待って、レイ」
思わず、リツコはそう呼び止めていた。
レイが振り向く。少し怪訝そうな顔をして。
「はい?」
「……レイ、あなたは、気にならないの? ユイさんのことは」
「………」
意味不明な質問だ。我ながらそう思った。
しかし真実を知る者にとっては、むしろ残酷な質問なのかもしれない。
「…すみません、誰のことかよくわかりません」
「お母さんよ、シンジくんの。司令の奥さんだった人。…今日あの二人がいっしょにお墓参りしたのは知ってるでしょう?」
「…名前は聞いていませんでしたから」
「そう…それで興味はある?」
「………」
しばらく考えて、レイは小さく首を振った。
紅い瞳に浮んだ戸惑いの色は、おかしな質問をするリツコに対してのものだろうか、それとも他の何かに対してのものだろうか。
「…そう、ならいいの」
「それでは私は帰ります…」
「ええ…」
出て行くレイを見送りながら、リツコは軽い自己嫌悪に陥っていた。
ユイへの鬱憤をレイで晴らした、そんな自分のいやらしさに気づいていたから。
レイが事実を知っていたなら、詰られても反論できなかっただろう。
なぜここにいるのか。
今日本部に来た時、最初から決めていたようにも思えるし、そうでないようにも思える。
いつものようにマヤ達がいれば、来ることはなかったかもしれない。
実験の後始末をすませたあと、自分の研究室ではなく、足をここに向けていた。
当然、通り道ではない。
ネルフ本部第5ブロック。
数十個の扉が向かい合った長い廊下を白銀灯の光がうっすらと照らしていた。
扉の向こうにはそれぞれベッドや家具がそなえつけられた部屋があるはずだが、人やテレビの声も聞こえることはなかった。
時刻は午後10時過ぎ、普通の住宅地やマンションなら、まだこうこうと明かりが灯っている時間だ。
けれどここは違った。
生活の臭い、そういったものがまるで感じられない。
当然だろう、通称居住ブロックと呼ばれているが、実際に住んでいる者はほとんどいないのだから。
資料としては知っていた。
だから当然想像できたことなのかもしれない。けれどリツコはこの静けさに息を飲んでいた。
こんなところで、彼は今まで過ごしてきていたのだろうか。
無人の廊下を進む。誰ともすれ違うことはない。ただリツコの足跡だけが、木霊とともに響いている。
まるで墓地だ。
漠然とそう思った。
はじめてくる場所だがずっと既視感があるのはそのせいだろうか。
扉も廊下も別に特別なところはないのだけれど。
人付き合いが好きなほうではないが、ここまで寂しいところで暮らしたいとは思えない。
最初は確かに総務部が決めたことだが、彼からの申し出があれば別の場所に住むことは難しくなかったろうに。
ゲンドウとともには暮らさないまでも、地上には日向や青葉が住む施設もあるのだから。
非常時の緊急性ではオペレーターもチルドレンもそう変わるものではない、拒否される理由は少ない。
やがて一つの扉の前で、リツコは立ち止まった。
目的の場所。
碇シンジの――部屋。
扉の向こうから、物音は聞こえない。他と同様に、人の気配はしなかった。
訪ねるとは言っていない。だからもう寝ているのだろうか。
しかし、それだけが原因ではない。
似ている。
そう思った。
レイの部屋で感じる空気と同じだと。
いや、それも違う。郵便受けにダイレクトメールやチラシが無造作に溢れていたレイの家の玄関のような、あのような荒みきった様子はない。
ただ温かさをどこにも感じないだけだ。
ほとんど使われていない施設だから。それだけでもないように思える。
まるで全てを拒むような、冷たい世界がこのドアの向こうにある。
そんな気がする。
ただの錯覚だろうか。
我知らず生つばを飲み込み、そして、リツコは扉を2度叩いた。
おそらくこの場所はモニターされているのだろう、それも今は気にならなかった。