Written by かつ丸
何もない部屋だった。
それは予想していたとおりなのかもしれない。
周囲の印象もそうだったが、中に入っても思った、レイの部屋とよく似ていると。
片付いている、というのとも少し違う。ミサトの部屋のように衣服や物が散乱しているわけではないが、部屋の様子はどこか雑然としていた。
机からはなれたところにある学生鞄やイスにかけられたままのカッターシャツ、部屋の片隅に積まれたダンボール箱。
どこか几帳面な印象を彼に持っていたせいだろうか、整理されていないことに微妙に違和感を感じる。それでも、一人暮らしの男の子としては十分に綺麗な部屋だろうけれど。
「…ごめんなさい、もう寝ていたんじゃない?」
「いえ、そんなことないですけど……これ、座布団です、使ってください。……お茶かコーヒーでも買っておけばよかったですね。コーラしかないですけど、いいですか?」
「ええ、気にしないで。…この座布団、シンジくんが持ってきたの?」
「ああ、ここに備え付けのやつです。…使うのは初めてですね、そういえば」
ワンドアの小さな冷蔵庫から二本の缶を取り出しながら、シンジは苦笑している。どこか自嘲的な笑いだった。
シンジが部屋の奥から持ってきた小さなちゃぶ台のようなテーブルを挟んで、味も素っ気もない灰色の座布団にリツコは座った。少し窮屈だが、気になるほどではない。
軽く足を崩し、そして、あらためてあたりを見渡した。
机とベッドそしてタンスに冷蔵庫。ベッドは大人用だが、それでも全体に小ぶりな気がする。部屋の広さは全部で6畳もないだろう。一応別室にトイレと風呂、簡単な厨房設備も備えられているようだが、それをあわせてもたいしたものではない。
この施設のVIPともいえるたった3人のチルドレンの一人が住む場所にしては、あまりにも質素な気がする。
普通の中学生が暮らす部屋でも、もう少し豪勢なのではないだろうか。
建物の構造上窓がない。
それだけでもなにか圧迫されるように感じる。空調は完備されているので、気にしなければそうでもないのかもしれないけれど。
見回すリツコの視界に一瞬、何かが映った。シンジの背中の向こう。部屋の片隅。
通り過ぎた瞳を戻す。確かに見間違いではない。
いや、見間違えようがない。
「……あれは? シンジくんのかしら?」
「え、あ、ええ、そうです。…昔、少し習ってましたから」
「昔って? ここに来る前ってこと?」
「ええ、小学生になったころに先生に勧められて、それからずっと…」
その方向に振り向きながらシンジがつぶやいた。
彼の視線の先にある、壁に立てかけられた1台のチェロ。
サードチルドレンとしての彼には不要なもの、けれど、この何も無い部屋の中で、そこだけが生気を持っているようにリツコには思えた。
似合っているのかもしれない。スポーツマンにはとても見えないが、彼の持つ静かな雰囲気は芸術家然としたものがある。
「…いつも弾いてるの?」
「そういうわけでもないですけど、…でも、そうですね、この部屋に来てから、前よりはよく弾くようになったかもしれません。週に1、2回くらいかな…あんまり、上手じゃないですけど」
「前、ね…」
その微妙なニュアンスで「前の世界」という意味だとわかった。
この部屋は盗聴されている可能性がある。あえてリツコは事前に確認しなかったが、そのつもりで会話したほうがいいだろう。口ごもったリツコの様子で気づいたのか、シンジはかすかに笑っていた。
彼も承知の上なのかもしれない。
仮に盗聴器があったとしても、リツコにそれを排除したりすることはできない。仕掛けたのは間違いなくゲンドウの意向であるのだから、公然と彼に逆らうことになってしまう。
シンジは基本的に監視下にある。エヴァのパイロットとして巨大な力を持っている彼は、潜在的な反逆者として認知されているはずだ。保安部は間違いなくそう考えている。
だから「未来」について、今話すことは危険のはずだった。
ならば、自分は何をしにここに来たのだろう。
「いつもはせいぜい数十分なんですが、でも、今日はここに帰ってきてからずっと弾いてました。周りに誰も住んでいないから便利ですね、こういうときは」
「…そう…何か弾いてみてくれる?」
「え、ええ、別にいいですけど…」
少し戸惑った顔。
その時改めて気づいた。今日は彼にとっても特別な日なのだ。
「…いいえ、やっぱりいいわ」
「そうですか?」
「もう遅いし…また、機会があったらお願いね」
「はい…」
母を悼むために。
今日この部屋での演奏はそれが目的だったのだろう。
やはり来るべきではなかったのかもしれない。
「…なんだか、久しぶりでした。……父さんと二人きりになったのって」
リツコの迷いなど気にならないように、淡々とシンジが話しだした。
どう聞き出そうか、ここにくるまでリツコは悩んでいたのだが、それは杞憂だったようだ。
なんのこだわりも無いのか、シンジの表情はいつもと変わってはいなかった。
「…そう…それで、司令とはちゃんと話せた?」
「ええ。最初は心配だったんですけど、…思ってたよりも自然に話せました。…母さんのこととか、使徒のこととか…」
「使徒のこと?」
「ええ」
思い出したのか、クスクスとシンジは笑った。その瞬間だけ、彼は悪戯な子供のように見えた。
「…使徒は何のためにこの街にくるのかなって、そう訊いたんです。どうして戦わなくちゃならないのかって」
「……司令は何て答えたの」
「なんて言ったと思います?」
そう訊かれても困る。
ゲンドウの心のうちはリツコにも読みがたいのだ。平気で嘘をつくようにも思えるし、シンジには真実を告げそうな気もする。
間を空けるようにテーブルに置かれたままだった缶コーラのふたをあけ、少しだけ飲んだ。ストローが欲しかったが、それは贅沢だろう。
再び缶を置き、シンジを見た。
「…わからないわ」
「……全てを知る必要は無いって。人類を守る、それがおまえ達チルドレンの役目だって、父さんはそう言ってました。…なんだかずるいですよね」
「そう?」
「ええ、だって…結局何も答えてないじゃないですか。まあ、最初からあまり期待はしてなかったんですけど…」
それは本心なのだろう。さばさばとした表情でシンジが言った。だが、ゲンドウの立場なら無理も無い答えだとリツコには思えた。
父親に期待していなかったのら、なぜそんなことを訊いたのか。
矛盾している、それとも確認したということだろうか。ゲンドウとの断絶を、息子を利用しているだけだという事実を。
いや、それもうがちすぎた考えに思える。目の前のシンジからはそういった負の感情はあまり感じられないからだ。
「あなたは…司令が、憎くは無いの?」
思わずそう訊ねていた。
「…父さんを、ですか?」
虚をつかれた、といった表情で、シンジが答える。
「ええ…」
「……憎いっていうのとは何か違う気がします。…父さんのことは確かに好きじゃないですけど。……でも、父さんは父さんのやりたいことがあって、そのためには僕のことを考えてられないんじゃないかなって、今はそう思ってます」
「……」
「最近なんですけどね、そう考えるようになったのって」
晴れやかに言うシンジを、リツコはじっと見つめていた。
悟っている、それとも諦めているのか。達観した言葉とはうらはらに、彼の様子はどこか痛々しくもあった。
シンジの言葉は、ゲンドウとの決別そのもののようにも思えたから。
シンジが目指すなにか、そのためにはゲンドウのことを気にしている余裕などない、そういうことなのだろうか。
「………」
「………」
それ以上、何を話せばいいのか、リツコにはわからなくなってしまった。
シンジがゲンドウの真意を探るなら、今日は大きなチャンスだったはずだ。それを放棄しているように見えるが、なのに迷いも見えない。
何をすべきか、すでに彼にはわかっているというのだろうか。
いつかの、言葉のとおりに。
ただ、時を待っているだけなのだろうか。
黙ってしまったリツコを前に、シンジはただ静かにコーラをすすっている。
この狭い部屋で対峙していながらも、その距離はとても遠くにいるように感じられた。
寂しくはないのだろうか。
一人でいることが。
そう思ったリツコの言葉を見透かしたように、シンジが口を開いた。
「…この部屋でこうして話をするのって、リツコさんが初めてなんですけど。他にも一人だけ訪ねてきた人がいるんですよ」
「誰? ミサト? それとも加持くん?」
「いいえ、どちらも違いますよ。…加持さんは少し前まではこのブロックの入り口で会うこともありましたけど」
それはきっとシンジを張っていたのだろう。
最近はそうでもないが、一時期しきりに接近しようとしていたのはリツコも知っている。
ここのところ別の仕事がいそがしいのか、彼にその余裕はないようだが。
「…じゃあ、誰なの?」
「……綾波です」
それは一番意外な名前だった。
「レイが?」
「…もうかなり前ですけど、零号機が使徒の光線でやられたあの戦いの少し後で……」
「……何か話したの?」
リツコは思い出していた。
危険にさらされた零号機。動こうとしなかったシンジ。レイの悲鳴。司令塔に響く咆哮。
そしてシンジの涙を。
「…僕は、何も話してません。綾波も自分でも何が言いたいのかよくわからなかったみたいでしたし、僕も突然で驚いちゃったから……だからすぐ帰っちゃいました。…その、一度だけです」
「……そう」
リツコにとっては初めて聞く話だが、シンジは嘘はついていないだろう。レイもそんなことがあったは一度も言わなかった。しかしそれは、リツコが彼女に訊かなかったからかもしれない。
今日ユイの名を出したときのレイのかすかな動揺、それはゲンドウのせいだけではなかったのかもしれない。
「…毎日学校では会うんでしょう? その時は何も言わないの?」
「ええ、クラスではほとんど喋らないです。綾波とも、アスカとも」
「…レイは、あなたの視線を感じるって言ってたわよ」
「はは……それは別に用事があるとかじゃなくて、綾波を見てるとどうしてもいろいろと考えることがあるからで……たぶん、アスカに対してもそうなんですけど」
自嘲気味に言いながらも、彼に動揺した様子は無かった。
大人びている、いや、まるで他人事のように話している。
何を考えているのだろう。
何を望んでいるのだろう。
改めてそう思った。
人とのつながりを排して、ふれあいを避けて、それでつらくないのだろうか。
ゲンドウですら、けっして一人ではないというのに。
「……ねえ、シンジくん」
「はい?」
「…やっぱり、何か聴かせてくれないかしら」
「チェロですか? かまいませんよ。…なにかリクエストはあります? そんなに何でも弾けるわけじゃないですけど」
「いいえ、シンジくんの好きな曲でいいわ」
頷いて、シンジは立ち上がった。
チェロと弦を持つと、机の前のイスに座ってこちらを向く。大きく両足を開き、その間に彼の座高とさほど変わらない大きさの楽器を置いて構えた姿は、なかなか様になっていた。年季が感じられる。
何も言わず目をつぶると、ゆっくりとシンジは演奏を始めた。
それほど大きな音ではない、部屋の広さを考えて抑えているのだろう。
クラシックにさほど詳しくないリツコでも聴いたことがある。有名な曲だ。
記憶を探り、やがて思い出した。
バッハ、無伴奏チェロ組曲第一番、その中のワンパート。
確かそうだったように思う。
すぐに気づかなかったのは、比較的ポピュラーな冒頭部分ではなかったせいだった。
軽快なテンポで演奏は進む。
プロ級とはいかないが、中学生にしては立派なものだろう。
リツコも目をつぶり、集中した。
チェロの低い音階にもかかわらず、奏でるそれは澱みなく明るい。
これが、シンジの心なのだろうか。
いや、それでも、底流には何かがあるように思える。
絶望? ―― 違う、そうではない。
ただ暗いものではない、そう思える。
それでも、シンジのチェロの響きに、胸が締め付けられるような気持ちになるのを、リツコは止めることは出来なかった。
旋律の先に何かがある。
目をつぶったリツコの脳裏に何かが映る。
閉ざされたシンジの心がこぼれ落ちているのだろうか。
泣いている。
世界の底で、一人泣いている。
かつて、停電した街で見た彼に感じたのと同じように。
そこは彼がいつか言っていた、赤く染まった終末の果てなのかもしれない。
赤い海のほとりで、シンジが泣いている。
一人うずくまり、声も出さず、寄せ来る波を見ながら涙を流している。
その姿が見える、そんな気がした。
ほんの一瞬だけだったが。
「じゃあ、失礼するわ。…今日はごめんさいね」
演奏が終わりしばらくして、リツコは立ち上がった。シンジはチェロを脇に置いて微笑んでいる。
結局最後まで、なにをしにリツコが訪ねてきたのか、彼が訊くことはなかった。
ふと思いつき、ドアに手をかけながら、リツコは振り向いた。
「ねえ、シンジくん。今日ずっと演奏してたのはさっきの曲?」
「…いいえ。…でも、どうしてですか?」
「いえ、いいのよ。じゃ、おやすみなさい…」
命日に、おそらくは母のために弾く曲と、ほとんど無関係なリツコに頼まれて弾く曲が、同じのはずがない。
訊くだけ野暮だったろう。
また違う日に来たならば、聴かせてもらうこともできるかもしれない。
それとも、もう一度今日と同じ曲を聴くことができれば、それでもいいのかもしれない。
あまり頻繁に訪れるのは、問題がある、だからまた先のことだろうけれど。
誰もいない深夜の廊下を歩きながら、リツコは小さく笑っていた。
今日はほんの少しだけシンジに近づけた気がした、彼の心に触れられたような気がした、そのことが嬉しかったのだ。
たとえ、それが錯覚にすぎないかもしれないとしても。
ゲンドウのことも、この瞬間だけは遠く感じていた。
次の使徒が来たのは、その数日後のことだった。
それはシンジがかつて言ったとおりのタイミングで、リツコにも予想できていた。
しかし、その使徒がどんな使徒でどういう能力を持っているかは、結局知ることは出来なかった。
初号機が、使徒の持つ闇に飲み込まれたその時まで。