気持ちだけの結びつきなど、脆いものだ。
けれど、利害だけの結びつきは、哀しい。
Written by かつ丸
溝が、できていた。
先の使徒戦以来、リツコはシンジへの接し方がどこか変わっている自分を感じた。
シンジの態度は変わっていない。
リツコの気持ちのほうに原因がある、それは確かだった。
何を考えているか、その全てをシンジが知らしめることは今まで無かった。
それでも彼と自分との間にはなにか絆がある、そう考えていたのに。
事前に相談することも無く、たった一人で使徒の内部に飲み込まれ、そしてそれでもシンジは帰ってきた。
その間のリツコの苦悩などする必要の無い不要なことだった、神の視点から見れば道化のようなものでしかなかった。
これからも、そうなのかもしれない。
退院後の再訊問で、使徒の中で何があったのか、使徒からなんらかの働きかけがあったのか、そうリツコが尋ねた時にシンジは首をかしげてそれらしいことは何も無かったと言った。
少し前のリツコなら素直に信じただろう。それ以上追求はしなかったが、しかし、やはり釈然としないものを感じていた。
それでもゲンドウにはシンジの言葉をそのまま伝えた。彼が信じたかどうかはわからないが、委員会にシンジが呼び出されることは見送られたらしい。
そのことが良かったのか、それとも悪かったのか。
結局、シンジは一人でしようとしている。
最初にシンジがエヴァを動かした時、その不自然さをリツコが指摘したから秘密を打ち明けただけで、そこに彼女に対する信頼も期待も無いのではないか。
そう思うことを、止められはしなかった。
「…それで、話は何?」
「……四号機のことです」
呼んだわけでもないのに、シンジが研究室に来ていた。
最近ではおおよそ珍しいことだ。
ノックの音がしたときはミサトか加持だと思った。扉を開けてシンジが入ってきた時、リツコは 少し驚かされた、いや、困惑、といったほうが正しいだろう。
平静に話ができる自信はまだない。
どうしてもつっけんどんな調子で話してしまっていた。
シンジのほうは、やはり何も気にした様子は無い。
「何か知ってるの?」
「…何かの実験してるんですよね。確かアメリカで」
「ええ…」
ネバダ州のネルフアメリカ第二支部。
そこで近々、四号機へのS2機関の搭載実験が行なわれる手はずになっている。
もちろんシンジに話してはいない。
エヴァの開発は世界各地で行なわれているし、その全ての指揮をリツコが取っているわけでもない。
だから日本にあるネルフ本部ではゲンドウと冬月、そしてリツコ以下数名の技術部員だけが情報として把握しているだけだ。
ただのチルドレンであるシンジとは今のところ無関係なはずの話題だった。
「…失敗、するんです。僕も人づてに聞いたことだから、くわしいことはわからないんですが」
「どういうこと? まさか使徒にでも襲われたというの?」
「いえ、そうじゃないと思いますけど、でも……消滅したって…四号機ごと支部が消えちゃったって聞きました」
「…そんな…どうして…」
思わず目を見張って、リツコは呟いた。
信じたくは無い、だが否定はできない。
シンジが嘘をついているわけはなかった。
S2機関はエヴァのシステム以上のブラックボックスだ。無限のエネルギーを持つそれが制御できなかったのなら、どれだけ大きな災害を招いても不思議ではないのかもしれない。
「理由は、僕も知りません…それから参号機が日本に運ばれてきて、今度は松代で…」
「…参号機が使徒に乗っ取られた、そうだったわね」
「……はい」
そのとき松代で起こった爆発にリツコとミサトが巻き込まれ怪我をしたと、かつてシンジは言っていた。
四号機のことは触れてはいなかったと思う。
なぜ今ごろ話すのか、とも思うが、訊かれもしないのにシンジから「記憶」について話すのは珍しい。
彼なりに悩んだ結果なのだろうか。
「…アメリカの事故のこと、くわしい原因や状況はあなたも知らないのね」
「はい…」
「そう……わかったわ、用はそれだけ?」
「…はい」
他になにか隠しているのではないのか、そう詮索することは今はしなかった。
たとえシンジがどう答えても、訊くことでそれだけ彼を信じている気持ちを揺るがすことにしかならないように思える。
いごこちが悪そうに、すぐにシンジは部屋を出て行った。
リツコも、引止めはしなかった。しばらく距離を置きたい、そう思っていたから。
シンジの手で閉じられたドアを見つめながら、リツコは考えていた。
アメリカの第二支部には数百人の職員がいる。周辺地域に住んでいるものもあわせれば、消失事故が起きた時の被害者は数千人規模かそれ以上になるだろう。
彼らを助けてほしい、それがシンジの望みなのだろうか。
はっきりと口に出しはしなかったけれど。
そう、考えてみればいつもそうだった。
シンジがリツコに何かを頼むことはない、ただ伝えるだけだ。
リツコが何もしないわけが無い、そう思ってくれているのかもしれない。それとも、最初からどうでもいいと思っているのかもしれない。
本気でアメリカ支部を心配しているなら、今も帰ったりはしなかったのではないか。少なくとも、リツコがどう対策をうつのか、それを見届けようとするのではないのか。
少し前ならそんな疑いは持たなかっただろう。
しかし、今は違う。
サードインパクトを止めるという彼の意志は疑ってはいない、けれど、彼の視界にはリツコは最初から入っていない、とろうとする手段に関わっていない、そんなふうに思えた。
事件の後に話を聞いていれば、確実にリツコはシンジを責めただろう。
それを避けたい、ただそれだけの理由で、シンジは今日話に来たのではないのだろうか。
アリバイづくり、それだけのために。
うがちすぎた見方だ、もし加持あたりが事情を知っていれば、そう言って笑い飛ばしてくれたかもしれない。
もし誰かに相談することができたなら、愚痴をこぼすことでもできたなら、リツコの気持ちも少しは楽になるだろう。
秘密を持つのは、なれているはずだった。
5年間、誰にもいえない秘密をいくつもリツコは抱えて生きてきた。
けれどシンジはゲンドウとは違う。
肉体だけのつながりすらもない相手には、想いを吐き出すことすらできない。
この焦れたような気持ちが、肉欲の故とは思いたくは無い、まして相手はまだ子供だ。
それでも、シンジのことをもっと知りたいという気持ちは、その心の中を覗きたいという気持ちは、すでに彼への興味以上の、抑えがたいなにかとして自分の中に溢れている。
ゲンドウに対して、そうであるように。
シンジへのかすかな不信感、彼にとってリツコという存在が希薄なこと、それが逆にリツコの中のシンジを大きくしていた。
冷静でいられないのは、彼といると心が熱くなるのは、すべてそのためなのだ。
シガレットケースから取り出した煙草をくわえて、火をつけた。
ゆっくりと吸い、そして吐く。
薄白い煙が、口元から昇った。
その様子を、ぼんやりと目で追ってみた。ドアからは視線をはずし、部屋の空気にまぎれて煙が薄れていくさまだけを見ていた。
ほんの少しだけ落ち着けたような気がする。
たとえ気休めに過ぎないにしても。
今はシンジのことよりも、四号機の事故についてどうするか考える、それが急務だろう。
けれどそれがしょせん逃げているだけだということに、リツコは気づいていた。
リツコが心を開いていないのに、シンジにそれを求めるのは、卑怯なことだということにも。
「警告ですか、それは。…実験をやめろと?」
「…そこまで言う権限は、私にはありません。これは司令の意志でもありませんし。あくまで忠告です」
「ならば、強制力は無い、そう考えてかまわないわけですね」
「ええ…ただし、本部マギの出したかなり蓋然性の高い予測です。その点は含んで考慮してください」
国際電話の向こうでは、第二支部の技術が苦虫を噛み潰したような顔をしているはずだ。
声色でそれがわかった。リツコも逆をやられたら同様に感じただろう。
上部機関とはいえ無関係ともいえるところから実験の失敗を予告されたのだ、技術者としてこれ以上の恥辱はあるまい。
結局、思いついた手段は、マギがそう予測したと告げるという陳腐なものでしかなかった。
使徒戦でミサトたちを何度も誤魔化してきた方法ではあるが、やかり無理がある、なにより本部のマギがそんな予測をしなければいけない理由が無いのだから。
「…いくらオリジナルとはいえ、第一支部のマギが本部のそれより大きく劣るとは思えんのですがね。こちらではある程度の見込みを持って実験は行なっています。そちらにご心配をかけるまでもなく、ね」
「データの蓄積量はご存知のとおりこちらの方が上です」
「使徒はそうでしょうが、S2機関はここ数ヶ月ドイツとアメリカでデータ採取したものです、本部には負けてませんよ」
「S2機関は使徒の根幹部分です。…先の使徒のこと、そちらでも分析をしてらっしゃるのではないのですか?」
「………」
リツコの言葉に、電話の向こうで一瞬息を飲むのが聞こえた。
第三新東京市の多くのビルを飲み込んだ、使徒が作り出した異界への門。
映像はアメリカにもいっているはずだ。違う次元とつながることなど、科学者として、信じ難い現象だろう。かつての第5使徒の無限に打ち出される加粒子砲などよりはるかに荒唐無稽だった。
少なくとも、あの平気は小規模でも人為的に作り出せるものだったのだから。
自信を失ったのだろうか、やや小さくなった声が、再び聞こえてきた。
「……しかし、実験の中止をするわけにも…これは本部の、碇司令の指示でしょうか?」
「…いいえ。司令は中止を望んではいません。遅延も…おそらくは認めないでしょう」
「で、では、私たちにどうしろと…」
シンジの「記憶」と何も変わっていないなら。実験は中止し、消失事故が起こるような原因を事前に解明するのが一番いいのだ。
だが、補完計画のスケジュールを管理するゲンドウが、それを認めるとは思えない。
危険性があることなど、もともと計算に入っていることだろうし、何よりアメリカ第2支部がなくなったとして何も痛痒を感じない可能性すらある。
だから「やめろ」とはリツコには言えなかった。
こうして連絡していることすら、ゲンドウには話していない。命令系統から言えば、越権行為に近い。
「…最悪の事態を前提に、実験を行なってください。実験場周辺からの関係者以外の退避や、できれば実験そのものを無人で行なうとか…」
「……まるで核実験ですな」
「S2機関は無限エネルギーです。当然熱総量は核兵器の比ではありませんわ」
「わかりました…時間はありませんが、考えてみましょう」
そして電話は切れた。
アメリカがどう対応するか、あとは彼らにまかせるしかない。
今持っている枠の中で、できる範囲のことはした、そう言えるだろうと思う。
意地のためになんの対策をとらないとか、そんな様子はなかった。しかし、市民の退避はそれだけで不満を呼ぶ。確実な危険も無いのに行なうことには無理があるし、危険があると言ってしまえば実験の中止を求められるだろう。
ネルフが行なっていることは基本的に秘匿事項なのだ。
この本部で行なっている実験についても、いちいち上の市議会や政府に通告されるわけではないのだから。
ここのように使徒が来るという大義名分があるならともかく、危機意識の低いアメリカでそれを行なうのは、かなり困難なことに違いない。
ゲンドウほどの政治力を持った者は支部にはいないだろうし。
このあとリツコができることといえば、アメリカを通じてゲンドウにこのことが伝わり、彼から意見を求められた時に、支部の後押しをするくらいだろう。
それがどれほどの力になるのか、そもそもそんな状況が果たしてくるのか、期待できるわけではなかったけれど。
結局、その後アメリカからリツコのところには連絡や問い合わせは無かった。
ゲンドウからも何も訊かれる事は無かった。
リツコも暇だったわけではない。
ダミーシステムの開発は追い込みにはいっており、シミュレーターでの実験をほぼ完了するところまで持ってこれた。
いくつかの問題点はあったが、実戦配備が可能なレベル近くに達した、そう言ってもよかった。
四号機のことを忘れていたわけではない。
心の中ではとどめていたが、しょせん地球の裏側でのことだ。本当のところ、実感はあまりなかった。
シンクロ実験などでシンジと顔を合わせる機会はあった。彼は何も訊かなかったし、リツコも何も言わなかった。二人きりでは無く、常に周りに誰かいたから、落ち着いては話せなかった。
それが全てではないが。
一見あたりまえの日常。
使徒も来ない、静かな日々。
報告がもたらされたのは、そんなある日のことだった。
シンジの言っていたとおり、ネルフ第2支部が、周辺部とともに消失したのだ。
衛星経由のその情報を聞いた時、リツコの足は震えていた。
行方不明推定2千人。
モニターにはそう映されていた。