Written by かつ丸
口をぽかんと開けたまま、その少年は固まってしまっていた。
驚いているというより、言われたことが理解できない、そんな様子だ。
シンジよりも背が高いがやはりまだ幼さを残している。腹芸やはったりが使えるほどの胆力が備わる年齢ではない。
本当に普通の子供なのだ。
使徒が来る街とはいっても一般市民にとってはほとんどかかわりがない。サイレンとともに避難場所に入りじっとしていれば過ぎ去る嵐のようなもので、自分たちの敵だという認識をもった者などほとんどいないはずだ。
だから彼はのほほんと暮らしてきた。シンジやアスカやレイと同じ教室で、それでもこの数ヶ月乗り越えてきた試練は大きな違いがある。
なんの覚悟も決意も持っているはずが無い。ただ呼ばれたからこの場所に来ただけだ。
リツコの言葉を現実のものとして咀嚼するには、やはり時間がかかるのだろう。
エヴァのパイロットになれ、などとは。
鈴原トウジという名のその少年は、学生服ではなく黒いジャージ姿でこの部屋に現れた。運動部に入っているというデータは無かったが、体育の授業でもあったのかもしれない。
校長室にはふさわしくない気もするが、髪の毛を金色に染めたリツコが言えた義理ではないだろう。
実際トウジはリツコを見た瞬間驚いたような顔をしていた。
中学校では、自分はやはり異質なのかもしれない。
そうそう来る機会は無いから、別にどうでもいいことではあるが。
リツコがとりとめの無い思考を続けている間も、トウジは言葉を発することは無かった。
口ごもるように、声もだせずにこちらを見ている。それほど意外だったのだろうか。
「……もう一度、言ったほうがいいかしら?」
「…ど、ど、どういうことなんですか。なんでワシが…」
「エヴァに乗るための適性が認められたから、それ以外の理由は無いわ」
そう、それ以外なんの理由もない。条件さえ満たせば誰でもよかったのだ。
今までに繰り返された実験でネルフにはコアの蓄積がある。それらとシンクロする適性が予想される子供達は集められ、保護されてきた。第壱中学校2−A、そのクラスの少年少女の多くがそうだ。
親がネルフに勤めているからこの街にいる、トウジはそう思っていただろう。しかし逆なのだ。
子供がチルドレン候補だったからこそ家族ともども集められた、それが真相だった。
彼らの親はそのことを知っている。
もう何年も前からそうやって絡めとって来たのだ
ある程度の事情は説明し、覚悟もさせてある。もともとコアは一人の命と引き換えで作るようなものだ。セカンドインパクト後に荒廃した世界は人々の中の何かも麻痺させているのかもしれない。
トウジたちは知らないだろう、彼らの親の世代は地獄の只中で子供を産み、育てたのだ。
再びあの悪夢を蘇らせない、その大義名分は、子供を戦地へ向わせることも半ば正当化させた。
そもそも最高権力者のゲンドウ自らその一人息子を差し出しているのだ。二人の間にある深い溝を知らないとはいえ、目の当たりにして親子の情を理由に拒否できる職員などいない。そんな雰囲気ではない。
トウジの親を含めたシンジと同級の子供達の多くが、使徒が来た後も疎開もせずに残っているのは、それ相当の理由があった。
これから準備されるものも含めてエヴァの絶対数は少ないので、候補者全員がチルドレンになることはない。それでも一定の見込みが立つまでは禁足されているようなものなのだ。
今回トウジが選ばれたことにも、特別の理由などない。今現在準備できるコアの中でもっとも親和性が高い、それだけのことだ。
データは極秘ではあるが、リツコが独占しているわけではない。彼を排除して選ぶ方が、むしろ不自然だった。
たとえ彼が操るエヴァがシンジの「未来」の中で使徒に乗っ取られたのだとしても、その原因がトウジ自身にあるとは思えない以上、変更する必要はない、そう思える。
そう、選択の余地はない。
「…ワシに…適性ですか? そないなこといきなり言われても…」
「すぐに戦えとか、そういうことではないのよ。当面は新たに導入されるエヴァンゲリオンのテストパイロットをしてもらうことになるわ。……訓練が終われば、実戦に出てもらうことになるけれど」
「……碇や惣流たちと同じことをせえと、そういうことですか? なんで、ワシらが…」
俯いたまま、呟くようにトウジが問い掛けてくる。
思ったより落ち着いているようだ。なかなか肝の座った子なのかもしれない。それでも、シンジのような凄みはないが。
「…エヴァに乗るのは資格が要るのよ。唯一使徒を倒せる手段だけど、その操縦はセカンドインパクト後に生まれた者にしかできないの。あれはロボットじゃなくて、生体兵器だから。そして素質を持った子ども達はあらかじめ集められていたの。あなたもその一人よ」
「………」
「これは強制じゃないわ。当然断ることも出来ます」
「…その時は、どないなるんですか?」
「他言しないことさえ約束できるなら別に拘禁などはしないわ。ただ…あなたに代わって別のパイロットが選ばれることになるでしょうね。おそらくは、あなたのクラスメイトから…」
リツコがそう言ったとき、トウジの体がかすかに震えたように見えた。
強張ったその顔は目の焦点があっていない。
自分の身を守るために友人を売るのか、リツコはそう問い掛けている。卑怯だというそしりを受けてもしかたのない行為だが、しかし事実でもある。
トウジの置かれた立場を正確に言っているだけだ。だからさほど呵責は感じない。そのことに気づかずに断り、その後自分の身代わりに誰かが選ばれた時、彼は心底から後悔するだろう。そういう子どもだということも、すでに調べていた。
もし違った性格なら、違った方法で追い詰めただろう。どのみち、彼らに拒否権はないのだ。
今年15年ぶりに使徒が現れたあの日、シンジがエヴァに乗って戦うことが彼が着く前から定められていたのと同じように。
そう、あの時、シンジは震えていた。
ミサトやゲンドウ、そしてリツコからエヴァに乗ることを強要されても、みなの言葉などまるで聞こえないかのように、下を向いて身を震わせていた。
今、目の前にいるトウジより、ずっと蒼ざめた顔で。
シンジが戦わねば人類が滅ぶと、そうゲンドウは言った。レイが戦えなかった以上、少なくともそれは事実だった。
けれど、シンジはすでに知っていたのだ。彼が戦っても、結局人類が滅んだことを。
彼はあの時何を恐れ、何に迷っていたのだろうか。
戦い、リツコに秘密をうちあけた時まで、そして今もあの一人の部屋で、何を見つめ、何を思っているのだろう。
未来のことを知っている。それは必ずしも幸福なことではない。
アメリカ第2支部の悲劇を回避できなかった、今のリツコならばそれがわかる。
リツコは自覚していた。自分が己のために、知りすぎていると悟られないために、取ることのできる手段をとらなかったのだと。
リツコの保身が、多くの人を殺したのだと。
今、トウジがチルドレンになるのを拒否しても、それを責める資格は自分には無い。
「…………わかりました。やらせてもらいます」
「…そう、それでいいのね」
「はい…よろしゅうたのんます」
顔を上げたその表情は、とても晴れやかと呼べるものではない。しかたない、そう書いてあるようだ。
けれども彼のその目は、その心は、けがれの無いとても澄んだもののように見えた。
昔の、彼と同じくらいの子どもだったころのリツコは、こんな瞳で他人を見つめることができただろうか。
それを思っても、きっと詮無いことなのだろう。
「ふーん、じゃあそんなに喜んでたってわけじゃないのね。その鈴原くんは」
いつものように、リツコの研究室の指定席に座り、コーヒーを飲みながらミサトが言った。
少し言葉にイヤミな響きが含まれているのはリツコの気のせいではないだろうが、あえて指摘する気にはならない。
相槌を打ちながらも、モニターへの視線とタイプをリツコは止めてはいないからだ。
ただ言葉だけでミサトに答えている。
「…まあ普通の感覚の持ち主ってことだわね。遊び半分で了承されるよりは今後の説明が楽でいいわ」
「そうね、シンジくんの時ほどじゃないにしても、これからのチルドレンにはレイやアスカのような腰の据えた訓練はできないでしょうし、厳しいって自覚があったほうが話は早いかもね。…でも…」
「なに?」
話すのを止め、ミサトは小さくクスクスと笑っている。表情は見ていないが、響きから揶揄しているのがわかった。
「だって、チルドレン候補をあの学校に集めてるなら、最初から全員訓練させていればよかったのにって。それなら技術主任のあんた自らスカウトのまねごとみたいなことしなくても済んだし、実戦の時の作戦行動だってきっとスムーズだわ」
「いろいろ問題があるのよ。保安面とか、設備資金とかね。……それにチルドレン選考はあくまでマルドゥック機関が行なうことになってるから、たてまえでは候補なんてものは存在しないわ。…ただの中学生を戦闘訓練するのは問題が多いでしょう」
「今さらネルフに法律違反もないと思うけど。…それに今回のフォース選抜で囲い込みをしてるのがバレバレじゃない。全世界から選んだ結果です、なんて理屈、通用するわけ無いわ。ほんと、いっそ全然知らない子ならよかったのに……はあ」
リツコをからかっていたはずのミサトが、憂鬱そうにため息をついていた。
端末を叩く手を止めて彼女を見ると、いつになく暗い顔をしている。
「どうしたの?」
「ん〜、ちょっちね、うちのお姫様がなんて言うかと思って。それなりにプライド持ってるからあの子、クラスメートがいきなりチルドレンになったりしたら、きっと納得しないでしょうね」
「…しょせん子どもの駄々じゃないの。そんなことをいちいち気にしてもしょうがないと思うけど」
「そりゃああんたはいいわよ、実験の時でもない限り普段はほとんど関わっていないんだから。でもアスカの愚痴や罵倒の矢面に立つのはこっちなのよ。落ち着くまでギスギスした雰囲気で暮らさなくちゃいけないんだもの、ホントに気が重いわ」
口を尖らせてこちらを睨みつけている。冗談めかしているが本音なのは間違いない。
停電時の口論をきっかけにアスカとの関係が悪くなってから、リツコがミサトの家にいくことはずっと絶えていた。だから今彼女たち二人が家庭でどのように過ごしているのかを、リツコはほとんど知らない。
アスカの行状についてたまにミサトがぼやくことはあるが、そこに根深いものは感じ取れなかった。
きつい性格の妹に辟易しているだらしのない姉、ホームドラマによくあるそんな構図は、見方によれば微笑ましくもあったかもしれない。
それでもそれは表層的なものだ。
実際のところ彼女たちは上司と部下であり、もしかしたら加持をめぐる恋敵同士であり、そして利用する者とされる者のいびつな共生でもある。
姉妹はもちろん、家族にすらなれるわけがないのだ。そのことはミサトもきっとわかっている。
ミサトがアスカと同居しているのは、残酷なことなのかもしれない。
アスカにではなく、ミサトにとって。
復讐の道具としてチルドレンを使おうとしている彼女には、無意識でもアスカに強い負い目があるだろうから。
エヴァやチルドレンにこだわってアスカが嫌な少女の姿を晒せば晒すほど、そうやって彼女を追い詰めている自分自身を意識せずにはいられないだろう。
それゆえにミサトは、加持に逃げようとしているのかもしれない。だがそれは、加持を慕うアスカをさらに追い詰めていくことに、ミサトは気づいているのだろうか。
「………きっと、そんな余裕はないんでしょうね」
目の前のミサトにも聞き取れないほど小さな声でリツコは呟いた。
ターミナルドグマに眠る巨人の姿をミサトは見たのだ。直接リツコに詰問はしてこないものの、頭の中はそのこととネルフへの疑念でいっぱいだろう。アスカの心情を思いやるゆとりなど、今の彼女に持てるとは思えなかった。
けれど、どちらにしても、リツコにとっては大きな問題ではないと思える。
ミサトがもうシンジのことをほとんど気にしなくなったように、アスカの優先順位はリツコにとってずっと低いところにあるからだ。
「何? 何か言った?」
「なんでもないわよ。……それよりいいの? いつまでも油売ってても。また日向くんを泣かせてるんでしょ」
「優秀な部下を使いこなすのも上司の勤めよ。 あんただってマヤを酷使してるじゃない。…でも、そうね、そろそろ戻るとしますか。じゃあ、コーヒーご馳走様」
飲み干したカップを机の上に置き、ミサトが立ち上がった。
「じゃあね」と軽く手を振り、研究室を出て行こうとする。
「…ねえ、ミサト」
引き止めるように、リツコは声をかけた。
「…なあに?」
緊張感のかけらもない軽い返事が応える。
「……参号機の起動実験、技術部マターでやらせてほしいんだけど、かまわないかしら?」
「………それはつまり作戦部は実験現場に来なくていいってこと?」
「…ええ」
リツコの言葉に、今日始めてミサトが険しい表情をした。
怒ってるわけではないようだ。リツコの提案の意図がつかめない、だからだと思う。
「…ねえリツコ、チルドレンの所管は作戦部にあるってこと、あんた忘れてるんじゃないんでしょ。あの子たちの直属の上司は私なんだから、少なくとも作戦部長の私が立ち会わないわけにはいかないわよ」
「原則はそうね…でも、今回は例の事故の後でもあるし、極度に機密性の高い実験になるの」
「危険性が高いなら、なおさら私は子どもたちについている義務があるわ」
「…危険性じゃないわ、ミサト。私が言ったのは機密性よ」
「なっ…」
絶句したミサトが目を見開いている。
つまるところ、ミサトには隠したいから来るなとそう言っているのだ。対外的にはネルフ本部ナンバー3の彼女にとって、受け入れられない言葉だろうとリツコにもわかっていた。
「……それは司令の意志なの?」
「…いえ、私の判断よ。当然、承認は得るつもりだけど」
「………理由、訊いても教えてくれないんでしょうね」
「実験が終わったら、ちゃんと報告するわ」
「…リツコ…」
いつしか、ミサトの表情から険しさは消えていた。
普段とも少し違う、静かな、落ち着いたまなざしでリツコを見ている。
研究室のドアを背に、イスに座ったリツコを見下ろすその姿は、初めて出合った見知らぬ人のように遠くて、それでも、やはり10年来の唯一心を許した友で、その狭間で揺れる陽炎のように儚げに感じた。
ミサトにはどう見えているのだろうか。
今のリツコがどう映っているのだろうか。
「……お願い、私を信じて……」
すがりつくように出したその言葉は、ミサトの心に届いたのだろうか。
しばらくリツコを見つめた後、微笑みとともに無言でうなずいて、ミサトは部屋を出て行った。
消えてしまったその背中の残像を追いながら、リツコはシガレットケースから一本の煙草を取り出し、火をつけた。
一人だけの研究室に煙がほのかに漂っている。
予想される使徒による事故からミサトを守る、そのためには彼女が現場に来ないのが一番いい。
真実は明かせない以上、憎まれ役になることを厭おうとは思わなかった。
結局ミサトも最後は納得してくれたようだ、だから関係が悪化はしていない。
リツコの考えどおりに、ここまでは進んでいる。
しかし胸に広がるシミのような感情。
そんな理由などないはずなのに、ミサトに深い罪悪感を感じていることを、リツコは気づかずにはいられなかった。
そう、自分には、彼女に信じてもらう資格など、ないのだ。