Written by かつ丸
「……よろしいでしょうか?」
「…わかった。作戦部には私から正式に通達しておく」
ほとんど逡巡した様子も見せず、ゲンドウは頷いた。
いつもと同じように口元は隠している。歪んだ笑みすらも浮かべていないのは、さしたるこだわりを持っていないせいだろう。
もともと現時点での参号機の移管はイレギュラーだ。重要度が低いとはいえないが、その起動実験が失敗してもどうということはない、そう考えているのかもしれない。
リツコがフォースチルドレンを誰に選定しても、どう扱おうとも、ゲンドウは問題にはしない。信頼している、それだけではない。初号機やレイを扱う時や補完計画の根幹に関わる実験のときは、 むしろうるさいくらいに口を出すこともある。
だから、提案を却下されるかもしれないとも思っていた。
リツコの発案により修正が加えられた松代の実験は、E計画にとっても一定の意味を持つことになるからだ。
何も言われなかったことが物足りなくもあったが、安堵してもいた。
結果を知っているから後ろめたく感じる、そのせいかもしれない。ゲンドウは知らないのだ。同時期に襲われることは想像できても、起こる事態はその先を行っている。
失敗することが分かっていれば、そのうえ参号機が使徒に乗っ取られると分かっていれば、了承することはなかったはずだ。
「参号機の移送時期ですが…」
「向こうから連絡があった。準備作業はすでに始まっているそうだ。数日内に到着するだろう、そのつもりで進めてくれ」
「わかりました。…それでは、失礼します」
軽く頭を下げ、リツコは司令室を後にした。
問い合わせたアメリカ第一支部の技術担当は口を濁していたが、ゲンドウの方が情報が早かったようだ。技術者は実験の継続を望み、責任をとらなければいけない幹部は厄介払いをしようとした、その結果だろう。
意味の無い抵抗だが、その心情はわかる。いくら第二支部で事故があったとはいえ、同じことが起こるとは限らない、そう考えるだろう。しかも原因と考えられるS2機関は搭載しないのだから。
真摯に仕事を進めていた技術屋なら、自分の研究材料を頭越しに余所に振り分けられて、納得できるはずがない。
まさかそれゆえにエヴァに使徒を仕込んだ、などというわけはないだろうが。
何日か後、アメリカ第一支部の技術者は驚愕し、そして胸をなでおろすことになるだろう。研究の継続と引き換えに、悲劇を回避できたことで。
その時に彼らから同情されるのは、リツコの方だ。
ネルフ本部の技術主担という名声も泥をかぶることになる。場合によってはゲンドウの信用を大きく失うことになるかもしれない。
リツコだけではない、周辺地域は戒厳令並みに避難させるにしても、従事する作業員達やに被害がでるのはある程度避けられない。日本政府や委員会のネルフに対する風当たりは確実に強くなるだろう。
それでも、自分はやるしかない。
失敗するとわかっていても、実験を中止しようとは思わなかった。
事前の機体調査で原因を排除できればいい。だが先の本部に侵入した例もある。
同じ手が使えればともかく、参号機に侵入するなにかが使徒として覚醒すれば、エヴァを用いずに殲滅することは困難になる。たとえ乗っ取られることは回避できたとしても、それで問題が解決するわけではないのだ。
使徒殲滅に一番確実な方法を考えれば選択肢は無い。そのはずだった。
すでに迷いは無い。あとは準備をすすめるだけだ。
たとえ参号機が使徒となっても、「シンジの記憶」でそうであったように殲滅はなされるはずだ。
すでに作業を始めている技術部員の指揮をとるため彼らのいるケイジに向う、そのつもりだったが、エレベーターを降りたところで、佇む人影を見つけ足を止めた。
シンジだ。
あたりには他に誰もいない。こうして彼に会うのは何日ぶりだろうか。
怒っているようには見えない。けれども、表情には影が差しているようにも思えた。
「……リツコさん」
「…あら、どうしたの? こんなところで」
トウジをフォースチルドレンに選んでから、この日が来るのはわかっていた。こちらから説明していない以上、シンジが直接問いただしに来ると。
何度か会いたいというメールはあったが、多忙を理由に断っていた。反感を買うかもしれない、その覚悟もしていた。お互い様ではないか。
少しはシンジも焦れるような思いを味わえばいい。
今まで、彼の秘密主義のせいで、リツコが味わっていたのと同じ思いを。
一回り以上年下の中学生にするには、あまりに大人気ない行動だと自覚はしている。アメリカ第二支部の事故が心をささくらせた、そのせいかもしれない。
けれどもリツコが想像していたよりもずっと、シンジの口調は静かだった。
調子が狂う、思わず目をそらしてしまう。。
けれど、冷静さは失ってはいない。答える声は震えていないはずだ。
「…今、時間いいですか? 参号機の、フォースチルドレンのこと、訊きたいんです。…やっぱり、やっぱりトウジに決まったんですね」
「……誰かから訊いたの?」
「いえ…学校でのトウジの様子見てたら、なんとなくわかりました。……昼休みに呼び出されてたし、…前も、そうだったから…」
動揺しているのはシンジの方かも知れない。彼の声は小さく、そして擦れていた。
淡々と、ではなく、心の深いところから搾り出すように言葉を出している、そんな声に思えた。
自分を押さえつけている、いや、そうではない。少なからず落胆しているのかもしれない。
シンジは初めから気づいていたのかもしれない。
彼自身の力では、ただチルドレンというだけの、なんの権力も持たないその小さな手では、トウジを、もしくは、他の誰かをフォースチルドレンに選ばせないなどということは、望むべくもないと。
リツコにならできると、そう考えたのだろうか。
彼の口調には、リツコを責める気持ちは感じ取れない。
暗い瞳で、うなだれているだけだ。
「…シンジくんの言うとおり、フォースチルドレンは鈴原トウジ君に決定したわ。……本人の了承も得ているけど、一応まだ機密事項だから誰にも言わないでもらえるかしら」
「……はい」
「…じゃあ、私は参号機の実験準備があるから、行くわね。しばらくは忙しいから時間はとれそうにないけど、一段落したらゆっくり話しましょう」
「……それって、松代での実験の後ってことですか?」
顔を上げて、シンジが問い掛けてきた。
その意味は、もちろんリツコにもわかっている。
あたりに人影はいない。エレベーターは止まっている。
「ええ…たぶん週末か来週早々になるでしょうね」
「…侵食を防ぐ手段があるってことですか? だから……」
「いいえ、そうではないわよシンジくん。参号機がいつどうやって使徒に乗っ取られたのかはわからないから。起動させてからじゃ、すでに遅いでしょうし」
「リツコさん…じゃあ、どうして……」
いささか呆然として、シンジがこちらを見ている。何も対策をとらない、リツコはそう言ったに等しいからだ。
少しだけ溜飲が下がる気になるのは、しかたがないのかもしれない。
八つ当たりをしている、そう自覚していても、今は止めようとは思えなかった。
「下手に刺激して予測していない動きをされるよりも、あらかじめ分かっている形で出現したほうがはるかに対処がしやすいわ。今までの使徒もそうやって倒してきた、そうでしょ?」
「でも、それじゃあトウジが…、それに前の時は僕じゃなくて父さんが…」
「そうだったわね……ダミーシステムはすでに初号機に搭載されているわ。自分の手を汚すのがいやなら、司令にまかせてもいいかもしれないわね。…それは、あなたが決めなさい」
「そんな……」
突き放すように、リツコは言った。
ここまで冷たく彼に接したことはごく最初の頃を除いてなかったと思う。絶句するシンジの姿は、いつもより小さく見えた。
知り合いをその手にかけろといわれて平静でいられるほど、冷酷な心は持ってはいない。
普通の人間であれば、必ず葛藤がある。彼も木石ではない、あたりまえのことだ。
彼の話では、「前」は知らなかったという、だが、今度はその言い訳は使えない。
たとえ初号機の操作をしなくても、それが理由にはならない。
本当のところ、シンジの力で回避する方法はある。
彼の抱えている秘密を、ゲンドウに話せばいいのだ。参号機が乗っ取られると。
そうしないことですでに、答えは出ているのだ。
そんなことは、おそらくシンジは気づいている。
悩んでもリツコを責めないのは、そのせいなのだろう。
「私は、もう行くわね。戦闘の時は私は立ち会えないと思うけど、ミサトはこちらに残るから。……戦闘の時は、きっと彼女が指示してくれるわ」
リツコの言葉に、驚いたようにシンジは目を大きく開いた。
「ミサトさんが? でも、いいんですか?」
「…すでに歴史は変わっているんでしょう? 同じ実験でも同じ立ち位置でも、結果が全て同じだとは限らないわ。大規模な爆発に巻き込まれるなら、あなたの知っているそれでは軽い怪我ですんだとしても、今度はそうとは限らない。……それに、別にミサトがいなくても実験に影響はないもの」
「そうですか……ありがとうございます」
心の底から礼を言っているシンジが微笑ましく、そしていささか滑稽でもあった。
ミサトがこの事実を知っても困惑するだけだろう、シンジに気にかけられていることを、彼女は想像もしていない。
管轄下のチルドレンではあるが、レイに対してそうであるように心理的な距離は遠い。戦闘時に造反さえしなければいい、そう思っているはずだ。
シンジの戦闘能力や判断力を信頼はしているが、プライベートなところで関わろうとは思っていない。苦手だと、そう言っていたこともある。
シンジはミサトに積極的に接しようとしない、そのことに、ミサトももう慣れてしまっているのだ。
「…礼はいいわ、彼女には本来の仕事をしてもらうだけだから。…それじゃあ、頑張って」
「はい……リツコさんも、気をつけてください」
蒼ざめた顔のまま、微笑んでシンジは言った。
嫌味など微塵も含んでいない。本気で心配してくれている。
「…シンジくん」
「はい…」
「…いい? ためらっては駄目よ。あなたが本当にすべきことが何か、それを忘れないで」
「………」
黙ってしまったシンジの答えを待たずに、リツコは踵を返した。
そのまま歩き出す。呼び止められることはもうなかった。
シンジがしようとしていることはなんなのか、リツコに分かっているとは言えない。それでもサードインパクトを回避するには、選択の余地はないはずだ。相手が使徒なら、殲滅するしかない。
いくら、彼の友人、クラスメートが巻き込まれているものであっても。
命の重さは、第二支部の事故で死んだ人たちと同じはずだ。ならばすでに手は汚れている。シンジも、そしてリツコも。
それでもやはり大人気なかったと、リツコは思った。
シンジとの会話から、すでに数日が過ぎている。松代のネルフ第二実験場。
リツコがいるケイジには、参号機の据え付け作業が行われている。あたりをバタバタと走り回っている技術者は、ほとんどが馴染みの薄い顔だ。アメリカからついてきた参号機の開発関係者が、その大部分を行なっている。
昨日、予定より数時間遅れて到着した後、挨拶もそこそこに搬入をはじめた。アメリカでは成功していないが、ドイツ支部で弐号機起動に立ち会った者もいるようだった。
責任者であるため、行程の仕切りとおおまかな指示はリツコがしているが、やはりこのエヴァは彼らのものなのだ。おかげでマヤをはじめ主な本部の技術員は来ていない。これからのことを考えれば、好都合だと思う。
おおまかな検査では、やはり異状は発見できなかった。露骨にチェックをいれると技術者同士で摩擦を生むことになる、だからプラグや素体を徹底的に解析することまではしていない。
「シンジの記憶」がなくても、そう変わりはなかっただろうと思う。
実験施設周辺からは訓練名目で住民を避難させている。そのために時間をかけられない、というのも起動実験を急ぐ理由ではあった。
アメリカの技術者達もそう長期間滞在できるわけでもない。
いくつかの事情が絡んで、「その時」に向ってまるで急かされるように動いている。
最初から回避しようとはしていない、だから恐怖はなかった。起きる爆発に対する不安は、確かにあったけれど。
参号機を見上げるリツコに、赤茶色の髪をした白衣の男が近づいて来た。
アメリカでの参号機開発主任だ。
「赤木博士、機体の準備全て整いました」
「そう、じゃあエントリープラグを挿入、システム再チェックの後、起動実験に入りましょう。実験棟内の作業者は事前に指名した者を除いて施設から退避させて」
「……彼らも実験のためにこの異国まで来たんです。起動の瞬間を見せてあげるわけには行かないんでしょうか?」
「その件については何度も説明して納得していただいていると思いましたが。これはネルフ総司令の特命です、私達に覆す権限はありませんわ。……起動の瞬間はモニターで中継しますから…これは万一のことを考えた措置でもあるんです」
「それだけ、危険なことをするということですか? どうしてわざわざ……」
困惑した様子で呟く彼の疑問は、しごく妥当なものだ。四号機のあんな事件があった後だというのに、押してする理由がわからないだろう。
だが、今さら止められることでもない、他の方法で行なおうにも、予備のパイロットはこの街にはいないのだから。
「さあ? 委員会の意向ではないでしょうか? それに、この実験は本来本部のみの機密事項です。認められていないあなたの立会いは、私達本部技術部の配慮だということをご理解ください」
「…確かに、すでにこの機体は本部に移管されたのでしたな」
感慨深げに、そして寂しそうに、この誠実そうな米国人の技術者は自らが作った黒いエヴァを見上げた。
これから起こることを、彼は知らないのだ。
10分後、参号機にプラグが挿入され、起動実験が開始された。
最小限の人員だけになった官制室から、オペレータの声を聞きながら、ガラス越しにリツコ達は機体を注視していた。
日本では4機目になるエヴァンゲリオンの起動。
「…シンクロ率30パーセントを超えました。ハーモニクス若干不安定ですが問題ありません」
そして、チルドレンを乗せない、ダミープラグでの起動。
後者が行なわれていることを知るものはここにいる数名と、後はゲンドウと冬月だけだ。
トウジはここにいない。一旦松代につれてきた後、秘密裏に隔離したのだ。
政府にはフォースチルドレンでの試験と情報を流しながら、秘密裏にダミープラグの本格テストをする。暴走など失敗の可能性がある以上、運用中の機体を使うよりも安全だ、そう説明していた。
「臨界突破しました! 起動します」
その時だった。突然、光がはじけた。
振動。轟音。思わず身を伏せたリツコの周りで誰かの叫び声が聞こえる。
大きな爆発音がした。暗い。明かりが消えていた。地面が揺れている。
壁が崩れるのが視界に入った気がした。
しかし次の瞬間、リツコの意識は跳んでしまっていた。