Written by かつ丸
誰かに、呼ばれたような気がした。
懐かしい、声だと思った。
――― リッちゃん
遥か遠いところから、そう呼びかけてくる。
見渡しても誰もいない。
リツコは一人で立っていた。
建物は見えない。葉をつけていない木がところどころに立っている小高い丘。
頭上に広がる濃灰色の空。そしてどこまでも白く染まった地面。
履いているピンクの長靴はほとんどその白に埋まっている。
思わず手を伸ばした。
いけないことをしているように、おそるおそる。指先が白いなにかに触れる。
少しの抵抗があっただけで何も感じない。ただ、先端からじわじわと冷たさがつたわってくる。
その時はじめて手袋をしていることに気づいた。毛糸の赤い手袋をはずし、スカートのポケットに入れ、もう一度手を伸ばした。
サクっと握ったそれが手の中でさらさらとこぼれる。焼けるように冷たい。
それはあたりに吹く風のせいかもしれない。
――― リッちゃん
また、声がした。
振り返る。そこにも誰もいない。
気がつけばあたりの景色は全て白く染まっていた。
灰色の空から、とめどなく落ちてくる白い粉のせいだ。
いつしか肩にも積もってきている。
寒い。
ここにいてはいけない。そう考え歩こうとした。
埋まった長靴ごと、やっとの思いで足を踏み出す。一歩、一歩、ゆっくりと。
それでも、視界は開けない。
――― リッちゃん
かすかに聞こえる声、それを頼りに進む。
自分を探しに来てくれたのだ。ここから助けてくれるのだ
何も怖くはない。きっと見つけてくれる。声の場所へたどり着けさえすれば、全ては解決する。
涙で潤んだ瞳をぬぐい、ひたすらに歩きつづけた。
疲れで身体が重い。長靴の中には氷のような水がたまり、足先の感覚は痺れてなくなってしまっている。
それでも歩みは止めなかった。よろめきながら。声に向って。
――― リッちゃん
その声は間近で聞こえた。
白一色の世界のなかで、誰かがそこに立っていた。
触れられるほど近くではない。けれどもう数歩行けば、そこにいるはずだ。
相手の顔はよく見えない。泣いているせいかもしれない。
リツコよりずっと背が高い、だからかもしれない
けれどそれが誰か、リツコはよく知っていた。
安心してその場にへたり込んでしまったリツコのところにかけより。服を白く染めたものを払い落としてくれる。
大きな胸に飛び込みながら、リツコはその名を叫んだ。
「……おかあ、さん?」
その言葉はしかし、口の中からかすかに漏れただけだった。
誰かの顔が覆うようにリツコの上にある。ぼやけてよくわからないが、少なくとも母ではない、それはわかった。
頭の中の霞がゆっくりと消え、徐々に焦点が合う。見知った笑顔がそこにあった。
「…リッちゃん、目が覚めたみたいだな?」
「………加持くん…どうして?」
「ヤボ用で松代に来てたのさ。…まあ、あまり気にしないでくれ。ほら、迎えがきた」
彼の後ろから数名の救急隊員がタンカとともに現れた。リツコを運ぶためのもののようだ。
加持はおそらく参号機の実験を探りに来ていたのだろう、乾いた笑いがそう語っていた。それに触発されたのか、リツコはようやく自分の置かれていた状況を思い出してきた。
仰向けに床に寝ている。衝撃で倒されたのか。
空が見える。茜色の空。
建物の中にいたはずなのに。天井が吹き飛んでいる、そのせいだ。
そして異臭がする。暗灰色の煙も視界の端に見える。まだ、どこか燃えているのだろう。それほど長い時間は経っていないらしい。あれが夕焼けなら、ほんの数時間だ。
身体のあちこちが痛む。タンカに乗せられる前に救急隊員が軽易な治療をしてくれたが、大きなケガはないようだ。
痛み止めを打ってもらうと、少し楽になった。
起き上がれないこともないのかもしれない、だが、その気力は湧かなかった。全身がだるい。
傍らにいる加持と目があった。リツコは病院まで搬送されるのだろうが、途中までついてきてくれるつもりらしい。
「……参号機は、どうなったの?」
「…どうやら、使徒に乗っ取られたらしい。ここをでて、箱根方面に向ったよ」
「………本部に?」
「ああ、だがもう殲滅はすんだよ、野辺山でね。だから気にしなくていい」
まだ長野県内だ。いつもの水際作戦ではなく、積極策を採ったということだろう。
箱根との直線上には市街地もある、放置はできなかったということか。
「…他のエヴァに被害は無いの?」
「……ああ、みたいだな。無傷ってわけじゃないらしいがね。詳しいことが知りたいなら葛城と連絡つけようか? 今ならもう電話もつながるんじゃないかな」
「いえ、いいわ、ありがとう。……ねえ、加持くん」」
「なんだい?」
「……さっきまで……夢を見ていたわ。………ずっと子供の頃の…」
また、頭に霞がかかってきた。痛み止めの副作用だろう。
口から出る言葉が何を紡いでいるか、リツコ自身よくわからない。加持は頷いて聞いているようだが、ただ相手をしてくれているだけなのかもしれない。
急速に眠気が襲ってくる。
いつしか目をつぶっていた。
エヴァに被害が無いということは、シンジたちも無事だということだ。それがわかっただけで今は十分だと思えた。後は本部に帰ってからでもいい。
その前に病院で少し休んで、松代の被害状況を把握しなければいけない。参号機の状態によっては野辺山近辺での事後調査を命じられる可能性もある。
だが、今はただ眠りたかった。
「……ずっと……忘れていたの……どうして……夢にみたの……かしら……」
呟きはもう口から出ていない。加持にはすでに聞こえていないだろう。
あの白い景色は、おそらくリツコの母ナオコの実家だ。祖母が暮らしていたそこに、一時期、幼少時のリツコは預けられていた。
そのころ、学会で認められる前のナオコには、幼子を育てる余裕がなかったのだ。
だから夢で着ていた服も覚えがある。そして風景も。
夢が記憶の断片ならそんなものなのかもしれない。
あのころ、道に迷ったことがあるのか、それは覚えていない。ただ、ナオコが実家に帰るのは年に数回もなかったような気がする。
だから、本当にあったことだとしたら、あの人影は違う誰かだったのかもしれない。
おそらくは祖母だ。
そうに決まっている。
意識が暗く深い場所に沈む。
もうあの白い世界には向っていないようだ。冷たく、懐かしい場所。
……雪
そう、今はもうこの国で見ることの出来ないものだ。その名をようやく思い出す。
納得したようなかすかな頬笑みとともに、再びリツコの意識は途切れた。
目が覚めた時、すでに加持はいなかった。
ちょうど近くにいた看護婦はリツコの顔見知りだったため、ここが本部施設と気づいた。寝ている間に運ばれたのだろう。理由は推測がついた。松代近辺の病院には他の怪我人がはいったのだろう。箱根まではヘリならさほど時間はかからない、あとあとのことを考えての措置だ。
ここならすぐにゲンドウのところに行ける、落ち着いたら呼び出しがあるに違いない。
包帯が巻かれて違和感のある頭にそっと手を当てる。裂傷でもあったのかもしれない。なにかがあたったのか、腕や足は打撲しているようだ。数箇所湿布がはってある。痛みはそちらのほうが大きい気がする。
どちらにしても骨折や大きな傷はない。少し休みさえすればすぐに動けるだろう。
寝起きだが思考はクリアーだ。薬物の影響はもうあまり無いようだった。
ゲンドウに会う前に現状を把握する必要がある。そう思い看護婦に呼び出しを頼もうと身体を起こしたその時、病室のドアが開いた。
「リツコー、おじゃまするわよ〜」
「あの、し、失礼します」
「……あら、珍しい取り合わせね」
連絡をとろうとしていた二人、ミサトとマヤがそこにはいた。
タイミングが良すぎる気がするが、おそらく病室をモニターしていたのに違いない。
心配してくれていたのだろうか。
いや、それは愚問だろう。彼女たちの顔を見ればわかる。
「ちょうど手すきになったからね、私がマヤを誘ったのよ。具合はどうなの?」
「特に問題無いわ。爆発の規模はよくわからないけど、我ながら丈夫にできていたみたいね」
「映像で見たけど松代は酷かったわよ。死者がいないのは奇跡じゃないかしら」
「…それでも良かったです、先輩が無事で」
「ありがとう。……それじゃ経過を報告してくれるかしらマヤ、参号機は使徒として倒したのよね?」
リツコの言葉にミサトたちは驚いたような顔をした。
一瞬意味がわからなかったがすぐに気がついた。リツコは今まで眠っていたのだ、何も知らないと思われていたのだろう。助けられた時に加持に聞いたと告げると、納得したようだ。
ミサトのまゆが少し吊りあがった気がしたが、あえて触れないことにしてマヤを促す。
「…松代の異変はすぐに伝わりました。ご存知のとおり本部のマギとも繋がっていましたから。衛星からの映像で爆心地でうごめく物体を発見したのも十数分後です。野辺山での迎撃配備完了が二時間、参号機を使徒と認定後、戦闘。実際の戦闘は約5分間でした」
「……参号機そのものが使徒だったの? それとも他の要因があったの?」
「粘菌状の生物が素体を侵食していました、それが使徒の本体だったようです。かつてのマイクロマシーン型と共通する性質はありますが、参号機の活動停止と同時に死滅しましたので、寄生をしていたと思われます。サンプル取得には成功していません」
直立不動というわけではないが、少し事務的な口調でマヤが話す。いつになく固いのは、正確な伝達を心がけているためだろう。
事実を早く知りたいというリツコの気持ちがよく分かっている。勘のいいところが好きだった。
口を挟みそうなミサトが隣で黙っていることに、むしろ違和感があった。
「…つまり、使徒殲滅のために参号機そのものを破壊したってことね。S2機関は載せていないしケーブルも意味が無かったでしょうけど、それでも動き続けたの? そこは使徒の力かしら」
「はい、おそらくそうだと思います。正確な計測はできませんでしたが、腕力、脚力ともに想定値を遥かに超えていたように思えますし」
「……それで、どうやって倒したの?」
「それは……」
口ごもったマヤが、傍らの丸イスに座っているミサトに目配せした。
ミサトは何もいわずに頷き、厳しい顔でリツコのほうを向く。
その時わかった。これから話すことのために、ミサトがこの場に来たのだと。友人としてだけではなく、ネルフ作戦部長として。
機先を制すように、リツコは口を開いた。
「……エヴァに大きな被害は無いって、加持くんからは聞いてたけど、…何かあったの?」
「加持がそう言ったの? …零号機と弐号機はほとんど無傷だけど、初号機はひどいものよ。大きな損傷は無いとはいえ、装甲はボロボロだわ。……ほとんど一機で戦ったから、当然なんだけど」
「………じゃあ使徒は、シンジくんが一人で倒したの?」
何も知らぬ口調で、リツコは尋ねた。
ゲンドウがダミーシステムを使った可能性はある。搭載された参号機の暴走事故で実戦投入をためらうかもしれないとも思ったが、リリスベースの初号機のほうが親和性は高いはずだ。
かつての彼の話のように、シンジが戦う意思を見せなければ、ゲンドウはダミーで使徒を倒そうとしただろう。
だが、リツコはすでに気づいていた。初号機のダミーシステムについて尋ねたいからミサトがここに、おそらくはリツコに詰問するために来たのではないと。
初号機への搭載は、まだ話す必要の無いことだったし、実際の使用をゲンドウが決定したなら、リツコに矛先を向けるのはお門違いだと彼女にもわかるはずだ。
眉間にしわを寄せたまま、ミサトが頷いた。
「…ええ、使徒を倒したのはシンジくんよ。最初に接触したのはアスカだけど、それを制してほとんど彼一人で倒したわ」
「……そう」
「………ねえ、リツコ、教えて欲しいの。参号機にフォースチルドレンが乗っていなかったこと、あんたはシンジくんには教えていたの?」
刺すような視線が、リツコを見つめている。
口調は静かだったが、彼女が激しく怒っていることはリツコにも伝わっていた。なんに対してか、リツコか、それとも、シンジにだろうか。
「…いいえ、直接話したのは司令にだけよ、副司令には伝わったと思うけど。あとはフォースチルドレン本人と、松代で直接携わっていた人たちだけでしょうね、知ってたのは」
「……本当に?」
「ええ、機密事項だからあなたや、それからマヤにすら話してないんじゃない。…無関係なシンジくんに話すわけないでしょう」
ミサトの隣で息を飲むようにして黙っているマヤに視線を向けた。張り詰めた空気に何もいえないのか、懸命に頷いている。
まだ疑わしそうな目をしていたが、しぶしぶ納得したようにミサトも頷いた。
「そう………そうよね……」
「シンジくんがどうかしたの?」
「…いいえ、なんでもないわ。…詳しい戦闘経過はマヤから聞いてちょうだい、私はアスカの様子を見てくるから。それじゃ、お大事にね」
そう言ってミサトが立ち上がった。
ドアの方に向うのかと思ったが、動きを止め一瞬リツコを見ている。どうしたのかと、そう口に出す前に彼女が口を開いた。呟くように。
「…ねえ、リツコ?」
「……なに?」
「…あなたは、あの子が怖くはないの?」
それは返事を期待した問いかけではなかったようだ。そのまますぐにむこうを向き、ミサトは病室から出て行った。
真意はわからないが、リツコにも答えることなどできないと、気づいていたのかもしれない。
傍らで、ドアが閉まったあともその背中を追うようにその方向を見つめていたマヤに声をかけると、彼女はリツコに向き直り、さきほどまでよりはくだけた口調で話し出した。
野辺山に展開した際の配置は使徒に近いほうから弐号機、初号機、零号機の順だったそうだ。
ライフル携帯の零号機を補助として遠隔に配置し、アスカ、シンジがふたりがかりで近接戦闘する、兵装ビルの援護が望めない市外での戦闘プランとして予てよりシミュレートされていた形だ。ミサトの指示に違いない。
予定どおりの使徒との接触、さきほどのミサトの話では弐号機が先だったということだが、これはアスカがより前に出ていたからだろう。それをシンジが制したということだが、素直にアスカが引き下がるだろうか。
「ミサトの言ったことは本当なの?」
「…参号機を前にして、アスカが、一瞬攻撃を躊躇したんです。その時にいつのまにか近づいていた初号機が間に飛び込んできて…」
参号機を、いや、『使徒』を突き飛ばし、その後すぐに跳びかかった初号機は、もつれあうようにして相手を組伏した。
ミサトの指示ではない、シンジの独断だ。マヤの話では、乗っているはずのトウジを助ける方法が無いか、ミサトもまた思い巡らしている途中だったようだ。それまで使徒が目立った動きをしていなかったせいもある。
だが、シンジには一片のためらいもなかったらしい。使徒に馬乗りになると暴れまわる敵を押さえつけ、右手に持ったプログナイフを何度も使徒に突き刺したという。
使徒も無抵抗ではなかったそうだが、それを排除しながら邪魔な腕を切り落とし、そしてうつぶせにした使徒の背中を引き裂くようにして、中からエントリープラグを掴みだした。
冷静だったわけではない。
その間シンジはずっと叫んでいたそうだ。錯乱している、発令所ではそう受け取った者もいた。
乱暴にプラグを取り除いた後も、シンジは参号機を刻む作業を止めなかったから。
使徒が完全に停止してもなお、何かに憑かれたように、初号機は黒いエヴァンゲリオンの装甲を素体を破壊しつづけたという。
ミサトが制止しても、止めようとはしなかったそうだ。外部電源をストップしてエネルギーが切れるまで、シンジは耳をかそうとしなかったらしい。聞こえていなかったのだろう。
結果だけを見れば、シンジはトウジを助けようとした、そう受け取るのが普通のはずだ。
だがその際の異常ともいえる行動は、そのことにすら疑いを持たせた。
いくら乗っ取られたとはいえ、万一シンクロが続いていれば痛みは伝わる。ろくに訓練も受けていないのだ。ショックが強ければなにかあってもおかしくはない。
何を考えているのか、それがみなの…少なくともミサトの反応だった。
ゲンドウに対して、命令違反とフォースチルドレンへの危害について、シンジの厳罰を求めたのだ、彼女は。
そのとき初めて、ゲンドウはミサトに真相を告げた。もっとも参号機は使徒と定めた時点で攻撃対象となっている、仮にトウジが乗っていても、そのことでシンジが罰せられることはなかっただろうが。
帰還後プラグから降りてなおも興奮しているシンジを、警備員らがとりおさえ、今は眠らせているという。
その後彼の目が覚めた時になんらかの処分が出るのか、それはまだわからないとマヤは言った。
「…シンジくんが使徒を倒した、その事実は変わらないんじゃないの?」
いくら命令に従わなかったとはいえ、それだけで責めるのは理不尽な気もする。
トウジは当然としてもアスカやレイにも被害が及ばなかったのなら、なおさらだ。
しかし、マヤはリツコから目をそらし、俯いて言った。
「……先輩は見てないから、そう言えるんだと思います」
強張った表情。どこか違う場所を見ている。
彼女のまぶたには参号機を破壊する初号機の姿が焼きついているのかもしれない。
それともシンジの叫び声が。
かつて暴走して異空間から帰ってきた初号機を見たとき、リツコも恐怖心を持った。だが今回のマヤの反応はその時よりもずっと重い。おそらくはミサトも。
シンジが怖くはないのか、その問いかけは、ミサトが彼に怖れを抱いた、その現れだろう。
リツコのように真実を知らされたからではない、シンジの行動に、使徒を倒すその姿に、彼女は恐怖したのだ。
リツコの心を読んだように、マヤが下を向いたまま、か細い声で呟いた。
「…私も、怖くなりました、シンジくんが……」
それは、ネルフ職員全ての代弁だったのかもしれない。