Written by かつ丸
そこにいるのは、まだ子どもとも言える、たかだか14才の少年のはずだった。
ただの中学生などではない、そのことは知っていたが。
夕刻の研究室。二人きりで話したことなど今までに幾度もある。
最近、いささかぎくしゃくしていたとはいえ、それでも今日は何かが違った。
そうしたのはリツコなのかもしれない。
トウジが乗ると思い込ませたまま参号機と戦わせたことが、彼を予想より刺激してしまったのかもしれない。
「大事なのは結果じゃないんですか? 僕の想いがどうあれ、ミサトさんやトウジが傷つかなかったこと、その選択をリツコさんがしたこと、それだけが事実です。そしてそれこそが、僕が、ずっと願っていたことなんです」
「…気持ちは関係無い、そういうこと?」
「僕は、参号機と戦う前に考えてました。なんとかして、なんとかしてプラグを取り出さなきゃいけないって。そうするしかトウジを助ける道は無いんだって。……でも、それは嘘だったんです、確信なんかなかった。僕は、僕はただもうあんな思いをしたくなかっただけだ。何もせず、ただ喚くだけで、父さんのせいにして、誰かのせいにして…」
「…シンジくん」
「それも一度じゃない。…最後のあの時もそうだ、ミサトさんに手を汚させて、アスカを見捨てて、ただ逃げていたんだ、だからあんなことになったんだ。逃げちゃ、逃げちゃダメだって、僕は知ってたはずなのに! 僕が逃げたせいで、トウジが傷ついて、綾波もアスカも助けられなくて、いつも、いつも、僕のせいだったのに、だから、だから分かっていたはずなのに!」
「シンジくん、シンジくん、落ち着きなさい!」
リツコの静止の言葉にも気づいたそぶりはない。彼の視線はどこか遠くを見ている。
熱に浮かされたように喋るシンジの肩を掴み、リツコは大きく揺すった。
それでようやく、我に返ったようだ。黒い瞳の焦点が、ゆっくりとリツコに合わされた。
「……大丈夫?」
「…はい」
「あなたは、ちゃんとプラグを抜き出すことができたわ。私のたくらみがなくても、トウジくんは助かったはずよ」
「…リツコさん、僕は、トウジを助けたかったんじゃない。僕のこの手で参号機を倒したかったわけでもない、ただ、逃げたくなかっただけなんです。いや、それも嘘だ。僕は、僕はただ……怖かったんだ」
両の手のひらを広げ、シンジはじっと見つめた。
まるでそこに血がついてでもいるかのように。
「もし逃げたら、何もしなかったら、ここに帰ってきた意味が消えてしまう、また、世界があの赤い海に沈んでしまう、それが、そのことだけが怖くて、もうあんな哀しい思いをするのは嫌で、それだけ、ただそれだけだったんです…」
「…………」
「プラグを取り出したのも、結局のところ意識してやったわけじゃないんです。…よく、覚えてはいないけど、あの時は使徒を壊すのにただ邪魔に感じただけだったせいのような気もします。…それに、もしトウジが乗っていたら、やっぱりまた傷つけてしまっていたかもしれない。…だから気にしないで下さい」
最後の一言は、手のひらから視線をもどし、リツコの方に顔を向けて言った。
気づかってくれている、そういうことでもないようだ。
ただ淡々と、心の底から、彼は話している。かけらの嘘もない、そう信じられる。
そのことがよけいに、リツコの胸を打った。
最初からトウジのことを教えていれば、彼があそこまで追い込まれることはなかったはずなのだ。
いや、むしろリツコはシンジを煽ってしまった。松代へ行く前に交わした言葉を、彼は重く受け止めたのではないのか。
ためらうなと、すべきことを忘れるなと。
シンジはその言葉を守った。リツコが見たいと思った彼の本心を、その行動で見せてくれた。
彼が言ったとおり、プラグを助けられたのは僥倖でしかない、高い強度を持っているとはいえ限界はあるのだ、使徒の暴れ方次第では、初号機の力の入れ方次第では、簡単に破壊されたはずだ。
それでも、それが分かっていても、躊躇することなくシンジは参号機と戦った。
使徒を倒すためなら、自分が泥をかぶることも厭わない。目的のためなら手段を選ばない。
そのことが皆に怖れを抱かせたのだ。
「……別に、なんとしてもトウジくんを助けようと思ったわけじゃないわ。あれが…ダミーシステムが有効に働く見込みがもう少し低ければ、やっぱり私は彼を使ったでしょうね。そうしないと、あまりにも不自然だから……」
「でも、リツコさんはミサトさんも守ったじゃないですか」
「それも、自然な理由がついたからよ。…筋を曲げてまでして彼女を止めるには、少なくともそれなりの根拠が必要だわ。…他の人はともかく、司令や副司令を納得させるだけの。そうじゃなければ、私はミサトを巻き込んだでしょうね、間違いなく」
そう、アメリカ第二支部の事故を事前に分かっていて、結局見捨てたように。
今回の松代でも怪我をした者は多い。死者がいなかったのは、ただの偶然だ。
使徒に乗っ取られると分かっていながら中止にはしなかった。誉められる立場にはいない。
「……秘密がばれないようにするため、ですね」
「ええ……」
「…どうして、なんですか?」
「…なにが、かしら?」
シンジの言葉に奇妙な響きを感じ、リツコは問い返した。
意味がわからなかった、それもある。
「……どうして、秘密にしようと思ったんですか?」
「なにをバカなことを。話せるわけないじゃないの。それはあなたの持つ記憶について説明するってことなのよ? 他の人が信じると思う?」
「誰も信じないから、秘密なんですか? でも、リツコさんは信じたじゃないですか。もう、僕の言うことを、僕が未来から来たってことを疑っていませんよね。だったら、他の人も信じるかもしれない、ミサトさんは無理かもしれないけど、加持さんや……父さんなら」
「何を言うの、あなただって誰にも言ってないじゃない。他の誰かに知られたら、病院に入れられかねないわ。いくら司令だって……」
「父さんも信じない。…本当に、そう思いますか?」
「…………」
シンジの「記憶」についてゲンドウが信じるかどうか、それについては幾度となくリツコも考えたことがある。
シンジが見たという赤い世界、巨大化したレイ、ひとつになる心、そのことは補完計画が執行された、そのことを示しているのではないのか。
人類補完計画がどういうものなのか、委員会やゲンドウが望むことはなんなのか、その詳細をリツコは知らない。アダムやリリスという人智を超えたものが存在することと、人類全てを巻き込んでなされるという概略だけだ。
結果を予測できる数少ないうちの一人であるゲンドウなら、より確かなものとして、シンジの言葉を信じることが出来たのではないのか、と。
シンジはそんなリツコの心の動きを読んでいるのだろうか。
こちらを見ているその瞳には、やはり強い光が宿っている気がする。
そしてリツコは思い出していた。
シンジは一度として「誰かに話すな」と「秘密だ」と、リツコに言ったことなどないということを。
あたりまえのことと、暗黙の了解だと思っていたが、そこになんの約束も取り決めもなかったことを。
「……私が勝手に秘密にしている、そう言いたいの? 別にあなたは困らなかった、とでも? 司令が知ったらあなたが隠していることも全て知ろうとしたと思うわよ。下手をすれば洗脳もあり得るわ。サードインパクトを止めると言ったのはあなたじゃない、それならそんな馬鹿げた選択肢があるとは思えないけど」
「……どうしてなんですか?」
「シンジくん…?」
なぜ、そんな答えが分かりきっている質問をするのか、そう思った。
ふざけているのだろか、とも。
確かにシンジは笑っていた。冗談を言った後の顔、などではない。
彫刻を思い出せる、くちもとが上がっただけの、月が張り付いたように蒼ざめた頬笑みを、少年は浮かべていた。
その目は冷たく静かな光をたたえている。
「な、なんなの……」
「……リツコさん、僕はずっと考えていました。前の時は、僕は何も知らなくて、何も知ろうとしなくて、ただ、流されるままで、逃げて、自分だけを守ろうとして、それでいて、結局みんなを壊してしまったから…。だから、もう一度やり直すために時を戻ることができたのなら、こんどこそ、知らなくてはならないって…逃げずにいようって」
「…………」
「いつか、加持さんが言ってました。後悔するなと。君にしかできないことがあるなら、それをしろと。……そう、もし、そうしていたら、あの時もっと早くエヴァに乗っていたら…ミサトさんは死なずにすんだんだ。アスカだって………。だけど、まだ、この世界は壊れてない。まだ、間に合うんだ、だから……」
今度は錯乱していたわけではない。
落ち着いた声で、しかし呟くようにシンジは話している。その言葉はリツコにも聞こえている。
彼の目が少し伏せられ、そしてまたリツコを見つめた。
「……リツコさん、教えてください。…どうして、僕のことを父さんに話さないんですか? このままでは世界が壊れると、分かっているのに」
「………シンジくん……それは、使徒を…」
「使徒がいつ来るかなんて、些細な問題です。そんなこと知らなくても前の時は使徒は全部倒せたんだ。…リツコさん、答えてください。あなたは、あなたは知ってたんですね…」
リツコから視線を外さずに、固まったような笑みを絶やさずに、ゆっくりとシンジは言った。
「…父さんが……世界を壊そうとしているってことを……」
時刻は何時ごろだろう。
シンジがこの部屋に来て、もうどれくらいたっただろうか。
まだ十数分、それとも数時間。
お互い黙って見詰め合ったまま、じっとしている。
静寂を壊すように、リツコの机の端末からチャイムが響いた。メールが来たと、能天気に教える音だ。
それをきっかけにしたのか、再びシンジの口が開いた。
「否定しないのは、やっぱりそうなんですね。…世界を、人類を救うなんて嘘で、父さんはネルフを使って逆に滅ぼすようなことを考えてるんですね。…そのことを、リツコさんは知ってたんだ」
責められているとは思わなかった。低い声は微塵も興奮した様子をみせない。
しかし、シンジの言葉は、氷の槍のようにリツコの心を貫いていく。
言いわけをすることも思いつかなかった。いったい、何を言えばいいのか。
シンジの言っていることは、全て真実なのだ。
「……ミサトさんや加持さんなら、不思議に思わなかったと思います。父さんに言わずに、自分たちで秘密を探ろうとしてたんじゃないかなって。…加持さんのアルバイトって、今考えるとそういうことじゃないかって気がするし、でも……」
「でも…?」
「リツコさんなら、僕が帰ってきた意味を父さんに尋ねるだろうって…あの世界を父さんが望まないなら、きっとなんとかしようとするだろうって、最初は思ってました」
「…だから、私に話したの?」
ミサトも加持も真実からは遠いところにいると、告白したあの時シンジは言っていた。
リツコなら助けてくれると思ったからだと。
それは嘘だったのだろうか。
「……一番最初、あの病室で話したときは、そんなこと考えてませんでした。…僕はミサトさんが怖かったんです。本当は迎えに来てもらったあの時に話さなきゃいけなかったのかもしれないけど、…できなかった。リツコさんに言ったのは、それでも、誰かに…」
「誰でもいいから、誰かに話したかった、そういうこと?」
「はい…」
最初の告白。使徒を倒した直後のことだ。シンジに疑いを持ち、リツコが問い詰めたのだ。
あの時なら、シンジになにかを考える余裕などなかっただろう。うまい言い訳を思いつくゆとりがあるはずもない。
だが、リツコは何かにひっかかっていた。最初にリツコに話してしまったから、問い詰められたからリツコにうちあけたのではない。
それでなくても奇想天外なことだ、うわごとだ、何も覚えていないと言えば、疑いながらもそれで終わっただろう。未来から来たなどというよりよほど信じられる。
なぜ、リツコなのか。
今まで深く考えなかった疑問。
なぜミサトでも、加持でも、レイでも、ゲンドウでもなく、リツコだったのか。
そして、なぜ、シンジはリツコがゲンドウに話すと思ったのか。
すでに答えは透けて見えているように、思えた。
「……シンジくん、知っていたのね? 私と、司令のこと。…だから、私に話したの? 司令の本意を探るために…」
何も言わず、ただ、シンジは小さく頷いた。
そしてそれを見た瞬間、思わず立ち上がりリツコは腕を振っていた。
大きな音が、研究室に響く。よろめいて、でも、シンジは避けようとはしなかった。
抵抗せず、頬を叩かれるままにまかせていた。
「……大人を、馬鹿にするんじゃないわ。人の心を弄ぶような真似をして…」
「ごめんなさい……、でも、それはお互い様です。使徒を倒すのに効率がいいから、リツコさんは僕を利用してた、それだけだ。だから父さんに言わずに、僕を泳がせていた……違うんですか?」
「違うわよ! 私は、私は…」
いや、今までリツコがしていたことはシンジのいうとおりでしかないのだ。
しかし、リツコはシンジと心を通わせあったと信じた。それはやはり錯覚だったのだろうか。使徒の体内に閉じ込められたあの時と同じように、どこまでもシンジは自分の考えでしか動いてはいないのだろうか。
「…世界を壊そうという父さんに、リツコさんは協力していくんですね。それなら、いつか僕は敵になるって、リツコさんにはわかってたはずじゃないですか」
「違う…わ…」
「だったら……リツコさんはどうするつもりなんですか、これから…」
ゲンドウを選ぶのか、シンジを選ぶのか。滅びを選ぶのか、そうではないのか。
それは何度も自問を繰り返してきたことでもある。いつか答えをださないといけないこともわかっていた。
だが、今日、こういう形でシンジからつきつけられるなどとは、夢にも思わなかった。
「…まだ、使徒を全部倒したわけじゃないわ。今のところ選択の余地なんか無いのよ! そうじゃなければ…」
「使徒によって、人類が滅ぼされる。…本部の地下に眠るアダムと接触すると、人類が滅びるって加持さんは言ってたけど……それも、嘘、なんじゃないんですか」
「…使徒が滅びをもたらそうとしていることは、本当よ」
「人間も18番目の使徒だって、ミサトさんは言ってましたよ」
「そんなこと、ミサトが知ってるわけないじゃない!!」
今のミサトのことではない。分かっているが罵声のような叫びが口から出ていた。
「ミサトさんだって。いろいろと考えたんじゃないですか? 加持さんのことも、綾波のこともあるんだし…」
「何を言ってるの、シンジくん。あなたは、何を隠してるの…」
「…加持さんは、いつのまにか消えてしまったんです。そう、あの時、前の時での今日が、加持さんに最後に会った日だったんだ」
「どういうことよ…」
その、リツコの問いかけを遮るように、非情ベルの音が鳴り響いた。
A号配置。
使徒が現れたのだ。
意表をつかれ狼狽するリツコを尻目に、落ち着き払った様子で、シンジが立ち上がった。
「……シンジくん、知っていたの、今日、使徒が来るって」
「はい…じゃあ、行きますね、僕」
まだ、大事なことは何も話せていない。
まるでお互いに決定的な亀裂をつくるために話をしたみたいだ。
今のリツコにはシンジが何を考えているのか、まるでわからなくなってしまっていた。
「シンジくん…」
それでも、何か言わなければいけないような気がした。背を向けていた少年に声をかけるが、それ以上何もでてこない。励ましも、呪詛も。
「リツコさん…」
閉じられたドアのノブに手をかけたまま、シンジが振り向いた。
呼び出しの放送とベルがまだ鳴っている。それでも、彼の声ははっきりと聞こえた。
「…参号機のダミーシステムって、やっぱり、綾波のクローンだったんですか?」
「……何ですって!?」
問いただそうとしたリツコの言葉など聞こえないように、シンジは扉を開け、外へと出て行った。