Written by かつ丸
あちらこちらで芝が焼け爛れている。
木々のうちの何本かは消し炭のようになっている。
硝煙の臭いすら漂ってきそうに思える。
そんな光景とはうらはらに、その一部だけはのどかだった。
小学校の中庭にでもありそうな小さな畑、そして実っているのはスイカだ。
ここの土地はネルフの持ち物だ。当然無許可だろう。
だが、この場所にリツコを案内した張本人は、別に気にした様子はなかった。
じょうろを片手に先ほどから水をやっている。それを見ているリツコは、ただぼんやりとしていた。
することはたくさんあるはずなのに、加持に誘われてのこのことついてきてしまった。
別に何を話すこともないのだが。
そう言えば、松代でのお礼をきちんと言ってなかった。それでも、わざわざこんなところまでくることもない。
「…なんだ、あんまり驚かないんだな、もしかして知ってたのかい?」
「これのこと? 知らなかったけど、今さらあなたが何をしても驚かないわ。でも、昨日今日作ったわけじゃないわよね」
「ああ、ここにきてすぐに、さ。土地があまってるみたいだからな、遊ばせておくのはもったいない」
「なかなか優雅な趣味じゃない。…あなたに、そんな時間があったなんて、そっちのほうが意外だわ」
「俺は暇なんだ。特殊監査といっても何をするわけでもないし、この間からはとうとう戦闘配備からも外されたしね。これじゃあ何が本業なのかわかりゃあしないな」
「それは、バイトに力を入れすぎたせいじゃないかしら? 自業自得ね」
リツコの皮肉な口調にも、加持は無言で肩をすくめただけだった。
もともと彼は委員会から直接送りこまれてきている。特殊監査とはすなわちゲンドウの監視役という意味だ。たとえネルフ総司令官といえども、その行動を完全に制限することなどできはしない。
その地位を利用して加持は日本政府や戦自ともつながり、ネルフの情報を送っている。彼の真意がどこにあるか、リツコはよくわかってはいない。
加持からミサトを通じ、機密の一部が他の職員にも漏れ始めている。そのことは看過できるレベルではなくなりつつあるような気もする。
加持が戦闘時に配備召集をかけられることはなくなった。それは、ゲンドウからのメッセージなのかもしれない。
もともと、加持は使徒戦のさなかでも自由に行動していた。召集など無視し勝手な行動をとってきていた、そしてゲンドウもそのことを咎めなかったのだから。
見つめるリツコの視線など気にならないように、加持はつと顔を上げ遠くにある林を見た。
数百メートル先にあるその一角は他の場所よりいっそうひどく、半ば近くのの木が倒れてしまっている。
「…もう、撤去は終わったんだな」
「ええ、こうして見ると信じられない気がするわね」
つい昨日まで、あそこには使徒の屍が残されていた。
初号機の食べ残しとでも表現されるそれは、ここに襲い掛かってきた時の勇姿など想像すべくも無く、無残な姿をさらしていたのだ。
「あの時も、俺はこの場所にいたんだ」
「…戦闘の時? よく巻き込まれなかったわね…」
「狙われているのは本部だからな、まだここのほうが安全だよ。…どちらにしても、使徒が最後まで行き着けば、どこにいても意味は無いしね」
「…………」
「…弐号機と零号機が使徒と戦ってたあの時、本部の、ちょうどあのあたりから初号機がでてきたんだ。えらく使徒から遠いな、と思った。あれは、葛城の指示なのか?」
加持が指差した場所は本部ピラミッドのすぐ近くだった。リツコが無言で頷く。
「それからすぐにアスカがやられて、零号機も倒されたんだが、……あの時、初号機は俺の方を見ていたような気がするんだ」
「……ここを?」
「ああ、…使徒の方でも、アスカたちの方でもなくね。気のせい、だとは思えないな。シンジくんは確かにこっちを見ていたよ、ほんの数秒だけどね。…そしてケーブルを外して走り出したんだ、使徒の方へと」
「………シンジくんはこの畑のことは知っているの?」
「いや、おそらく知らないだろうな。ここのことは葛城にもアスカにも教えてはいないからね。…戦闘区域で俺を見つけて驚いたのかもな」
「……そう、そうね…」
かなり距離がある、加持が思い込んでいるだけかもしれない。
けれど、あの日シンジは言っていた、加持のことを。「前回」の同じ日、加持と話をしたと。
それはもしかしたらこの場所でだったのだろうか。
ここに加持がいることを知っていたのだろうか。
そのことをシンジに尋ねることは、今はできない。
「…初号機は、封印するそうだよ。司令がそう言っていた」
「ええ、聞いているわ。どのみち当分出撃は無理だから、今のところ実害は無いわね。今は初号機の現状を把握するので精一杯だし」
「S2機関、無限のエネルギーか。四号機の実験が成功すればいずれは搭載されていただろうが、まさかこんなかたちになるとは誰も想像できなかったろうな。初号機は司令の掌中にある、危険視する者がいても不思議じゃない」
「そうね……あれに対抗するには通常兵器じゃ困難でしょうね。…使えれば、だけど」
「……それで、見込みはあるのかい?」
加持の問いかけに、リツコはうつむきながら首を振った。
訊かれた意味はわかっている。
見込みなど、あるはずが無い。
「…リッちゃんでも無理なのか?」
「…無理というのとも、少し違うわね。…方法はあるの、でも、成功する可能性は高くは無いってこと」
その確率を考えれば、見込みがあるなどとはとても言えない。
ゼロではないのなら、希望を捨てるな、ミサトならそう言うだろうか。
だが、かつてリツコの母ナオコですらなし得なかったのだ。リツコにはまるで自信が無かった。
それでも、成功させないわけにはいかないのだけれど。
シンクロ率400%。
すなわち、初号機との融合。
戦闘後のエントリープラグには、シンジの姿は無かった。回復した映像で見ることが出来たのは、 シンジが着ていたはずのプラグスーツがLCLに浮ぶ様子だけだったのだ。
彼の肉体は、あとかたも無く消えていた。いや、溶けているのだ、LCLの中に。
すべての組織は分解され見える形では残っていない。
けれどまだシンジの生命といえるものはそこにある。シンジの魂は。
だが、このままでは、初号機を使うことが出来ない。それが最大の問題だった。
プラグを交換してレイを乗せればいいのかもしれない、しかし、それはシンジの死を意味しかねない。
ゲンドウがその決断をする前に、なんとかして再び、彼の肉体を取り戻さねばならないのだ。
今回封印という判断がされたのは、シンジを助けたいというゲンドウの意志でもあると思う。しかし、使徒が来れば、残った2機のエヴァで対処できなければ、覆すしかないはずだ。
「状態の分析はなんとか行なえたわ。でも、そうなった原理すらもよくわかっていない。エヴァそのものを私達はよくわかりもせずに利用してきたから、その報いかもしれないわね」
「らしくないぜ、弱音を吐くのは」
「そうね……」
「ああ。リッちゃんはクールビューティが持ち味なんだから。へこんでちゃ美人が二割減だ」
「何よそれ」
おどけた調子に、思わず笑ってしまった。
加持はリツコを励まそうとしてくれているのだろう。
シンジがあの状態になって、一番落ち込んでいるのはおそらくリツコだろうから。
そして彼を救えるのも、リツコだけなのだ。
今日加持と会った時に、よほど張り詰めた表情をしていたのかもしれない。心遣いにほんの少しだけ気持ちが楽になったような気がした。
そう、弱音を吐いている場合ではないのだ。
「…じゃあ、そろそろ私はいくわ。スイカ、もう少し熟れたら差し入れてね」
「そうだな、約束するよ。…それから、ここのことは葛城には内緒で頼む」
「ふざけてるって怒るわね、ミサトなら。あなたにだけは厳しいから」
肩をすくめて加持が微笑む。
その優しい笑顔は、ミサトに向けられたものだと分かった。
学生時代からそうだ。ミサトのことを話すとき、加持の表情はとても和らぐ。
今も変わっていない。
二重スパイとして危険な道を歩く加持の本性が、まるで嘘のようだ。
あの時シンジは言っていた。ここで話したのが、加持と会った最後になったと。
その後加持に何があったのかは言わなかった。具体的には知らなかったのかもしれない。
けれど、リツコには想像できる。
そして、それは加持が選んだ道の結果だとも分かっている。今のリツコには、どうしようもないことも。
「加持くん、この間の松代でのお礼、まだ言ってなかったわね。ありがとう」
「ああ、いいさ、そんなこと」
「…でも、あまり、ミサトを泣かすようなことはしないでね」
ネルフの秘密に深入りすれば、それだけ彼の危険は増す。それでも止めろなどと言ってもムダだろう。
加持はやはり、困ったように微笑むだけだった。
ミサトの存在すらも枷にはならないと言うように。
その笑顔がシンジと、重なる気がした。
シンジが初号機に消えてから、一ヶ月近くが過ぎた。
状況は変わってはいない。
紫色の機体はすでに装甲を戻されているが、封印されケイジに繋がれている。
S2機関も停止し、暴走したのが嘘のように静まっている。
リツコは、サルベージのための準備を進めていた。
この間使徒はきていない、それだけが僥倖だと言える。
それでも、何事も無い、とは言えない。
波紋は確実に広がっていた。
ミサトやアスカなどは複雑な表情をしている。シンジがいなくなったと喜んでいるわけではない、ただどう対処したらいいのかよくわからないように見えた。
野獣のような暴走する初号機を見たのだ。
使徒を喰うなどとは、およそ理解の範囲外の行動だ。彼が乗って動かしていた以上、ますますシンジに対する怖れが増しても不思議ではない。
それに彼女達はシンジではなく、エヴァそのものを恐れているのかもしれない。アスカなどは自分も同じようになる可能性があると、考えないわけはないはずだ。
リツコにも、そんなことはないと否定できない。怖がってあたりまえだと思う。
使徒に全く歯がたたなかったことも含めて、今回の使徒戦の波紋は大きい。
ネルフ全体を澱んだような暗い空気が包んでいる気がする。
碇シンジ。エヴァンゲリオン。使徒。それらの存在が重くのしかかっている。
包帯で素体をグルグル巻きにされた初号機が、その象徴だろう。
ただ、レイだけはいつもと変わった様子をほとんど見せない。
初号機が繋がれたケイジには、幾度か来ていたようだが。今のシンジの状況や、エヴァの暴走の可能性について、リツコに尋ねてきたりすることはなかった。
もしかしたらゲンドウには訊いているのか、とも考えたが、それもいつもの彼女の行動からは少し外れているように思える。
恐怖を感じていない、わけでもないだろう。しかし、そういった秘密をつきつめることは、彼女自身の存在の深遠に触れることになる。無意識に避けているのかもしれない。
また、シンジについてことさらに心配しているようには見えなかった。二人の関係を考えれば当然だとも思えるし、いつかシンジが使徒に飲み込まれた時のレイの表情から考えれば、反応が鈍いようにも思える。
それでも、リツコにレイのことを気にする余裕は無かった。
松代の事故報告やフォースチルドレンの正式な解任、初号機の分析に、破損したエヴァの修理、そして使徒の解体調査。
ほとんど同時に使徒が2体来たのだ、事後処理も多い。
そしてその合間に母ナオコが残した過去の実験データを調べた。まだマギができる前に行なわれたそれは、倉庫の奥深くに眠っていた。
数枚の光ディスクと何冊かのファイルの形で。
12年前。2005年。
対象は今回と同じ初号機。
目的も今回と同じ、高シンクロによる消失者のサルベージ。
救出目標は碇ユイ、シンジの母だった。
結果は失敗、それは分かっている。しかし、リツコに頼れるものは他になかったのだ。
概略はこうだった。
エヴァに取り込まれた魂は「生きている」以上、まだ意志を有している。
魂が持っている復元力を刺激し、再びこの世界に実体を作り出すよう誘導する。
つまり「帰りたい」とシンジが思うように仕向け、「帰って来い」と呼びかける、その上で必要な道筋をつくる、ということだった。
おおよそ現実的とは思えない。少なくとも発想はナオコのものではない。
形而上生物学の第一人者でもあった冬月の意見が多く占められているような気もする。
もっとも取り込まれること自体が異常なのだ、その逆をしようというときに常識的な方法など存在しないだろう。
かつてのナオコの実験を下敷きに、リツコはシンジのサルベージ計画を立案した。
どこまでいっても母の手のひら上にいるようで愉快なことではないが、頓着している場合でもない。
頭部を曲げプラグの一部を露出させた初号機には幾本ものケーブルが取り付けられ、必要な機器と繋がれている。
あと数時間後に始まる執行のために、数日前から技術部総出で準備を行なっていた。
ゲンドウの承認はもちろん得ている。特に声はかけられなかった。
そう言えば、この一ヶ月のあいだゲンドウとプライベートで会っていない。誘いはあったがはぐらかしていたのは、やはりシンジのことが気になっていたからだろう。
進められる準備を見守り、時おり指示を下しながら、リツコはシンジのことを考えていた。
これから来る使徒についてシンジは知っていた。つまり「前」はこのように取り込まれなかったか、もしくは取り込まれても無事帰ってきたかどちらか、ということになる。
シンジが一言も話さなかったことからも、前者である可能性が高いが、それでも希望はあるような気がする。
それに、シンジはまだほとんど何も動いてはいない。サードインパクトを止めるという彼の強い意志がある限り、このままで終わることはないような気がする。
シンジは、そのために時空すら越えているのだから。
かつて初号機ごと使徒に閉じ込められた時のように、何もしなくとも自力で脱出するのでは、とも考えたが、今のところその兆候は何も無い。
すべてリツコの希望的観測でしかない、失敗する、その可能性のほうが、本当は高いのだろう。
ユイの時にそうだったように。
だが、なによりリツコには、使徒出現の直前、あの研究室が、シンジとの最後の会話になるとは思えなかった。
あの時、二人の間に、決定的とも言える亀裂が入った。
シンジはゲンドウの計画を疑い、そしてそれに協力するリツコにも不信感をあらわにした。
リツコには彼の問いかけに答えることができなかった。
ゲンドウと共に破滅するか、それに抗するか、との質問に。
どちらも、選ぶことが出来なかったから。
そのことが、使徒殲滅という一点を通じて結ばれていたシンジとリツコの同盟に、修復不能なひびをいれたのだ。
あの時、使徒が来なければ、自分はどうしたのだろう。
いや、使徒が来るのを知っていたからこそ、シンジはあんな話題をことさらにだしたのかもしれない。
どちらにしても、シンジを復帰させることに成功すれば、もう一度、リツコはあの問いかけに向かい合わなくてはならないはずだ。
答えはまだ出ていない。
忙しさを理由に、考えることを避けていた。
今も、まだ考えないようにしている。成功してから、それからでいいと。
ケイジにつなげられた初号機を、再びリツコは見つめた。
幾本ものケーブルに繋がれ半ば剥き出しになったプラグの中で、あの少年は眠っているのだ。
ただ、魂だけの存在として。
リツコの惑いや、みなの思いなど、おそらく何も知らずに。
初号機の、母の胸に抱かれ、今ごろ、彼はどんな夢を見ているのだろうか。