Written by かつ丸
白く塗られた長い廊下を、リツコは歩いていた。
カツカツと小さな足音を響かせて。
その瞳は、ただ前を見つめている。厳しい表情で廊下の先を見つめている。
片手には黒いバインダー、そこに挟まれた一枚の書類。
ついさっき、受け取ったものだ。この先にある部屋、ネルフ本部内病室のベッドの上で眠るサードチルドレン、碇シンジのカルテ、その写しだった。
内容にはすでに目を通している。
サルベージの成功より3日目、ずっと昏睡状態にあったシンジの目が覚めたとの連絡をリツコが受けたのは、ちょうど研究室でミサトと話しているときだった。
のどかに世間話をしていたわけではない、ミサトは少しも笑ってはいなかったし、対するリツコも冷ややかに応えていた。
話題はサルベージのこと、いや、その時に起こったことの意味について、といったほうが、より正確かもしれない。
結果だけを見れば、サルベージは確かに成功した。
初号機に取り込まれていたシンジは、一度は失った肉体を取り戻し、再びこの世界へと帰ってきたのだから。
いくら、その過程が異常であっても。
跳ね返される信号。エジェクトされたプラグ。溢れ出したLCL。流れ落ちるシンジのプラグスーツ。
すべてが、失敗を表していたはずだった。
主担者であるリツコは、完全に絶望していた。
それなのに、シンジは帰ってきた。むきだしになった初号機のコア、そこから突然現れたのだ。
これは、リツコの力ではない。
単純に喜ぶことは出来なかった。
「あれは、いったいどういう原理なの?」
そうミサトはリツコに訊いた。この3日の間に何度となく繰り返された質問だ。
「…わからないわ。想定外だったし、前例なんてないもの」
何度訊かれても、リツコにはそう答えるしかなかった。
実際原因は不明だからだ。
「ホントにいいかげんな話ね。…シンジ君には異状はないの?」
「一通り検査したところ、肉体的には問題無いそうよ」
「…肉体的には、ね」
ミサトの含みのある呟きに、リツコはあえて答えようとはしなかった。
そう、CTスキャンやレントゲンはもちろんのこと遺伝子レベルでの検査がされている。
100%人間であるし、100%碇シンジその人だ。
そこに疑う余地は無い。
無いはずだった。それ以上何を答えることができただろうか。
そしてそれは、今、リツコが持っているカルテからもはっきりしている。
内蔵の動きにも脳からの信号にも異常は全く見られない、と。
ただ、そこには精神面の記載は無い。
目覚めたことは確認されたが、その後数十分した今も、誰も直接シンジとは接触していないからだ。
本来なら覚醒後にこそ医師による確認が必要なのだろうが、それをせずにリツコにすぐに連絡が来たのは、シンジの状況が機密に係わることになるからと事前に言い含めていたからだ。
暴走の直前、一体何が起きたのか、そしてその後エヴァの中でシンジに何があったのか、それは医師といえども一介の職員に知られてもいいことではない。
リツコが直接訊き、ゲンドウに報告すべきことだ。
病室のドアの前に立ち、リツコは小さく息を吐いた。
緊張している、それがはっきりと自覚できる。
この3日の間、この時が来るのを怖れていたのかもしれない。
それでも踏み出さないわけにはいかなかった。
ノックをして、扉を開く、部屋の中には日が差していたが、明かりはつけられてはいない。
少年は眠っているようだ。特にこちらを見たりはしなかった。
ドアを閉め、近づき、ベッドの傍らに立つ。
やはり眠っている。それほど深い眠りではない、まどろんでいる、そんな様子だった。
起こしても問題ないはずだが、リツコはあえて声をかけないでいた。
ただ、シンジの寝顔を見る。ほんの少しの猶予すら惜しむように。
落ち着いて彼の顔を見るのは、いったいいつ以来だろうか。
あどけない表情をしている。そう思った。
いつもの彼が、まるで嘘のように。
思えば、はじまりはこの場所だった。最初の使徒戦の後、倒れて寝込んだシンジとこの病室で話をした。その時に秘密の一端を打ち明けられたのだ。
その後の第4使徒戦、第5使徒戦、それ以降何度もシンジは戦いで傷つき、そのたびにここに運ばれてきた。
使徒に吸い込まれた戦いの後も、そして今も。
レイやアスカに比べれば、その異常さがわかる。彼がどれだけその身を削ってきたかが。
シンジはいつも自らの肉体を危険にさらして、皆を守ってきたのだ。
サードインパクトを防ぐ、そのために。
自らの手で人類を滅ぼした、その贖罪のために。
協力しているリツコに別の思惑があることすら、彼は気づいていた。
知っていながらそのことで責めたりしたことは結局一度も無かった。
独りで、どこまでも独りで、戦おうとしていた、今ならばそう思える。
これからもシンジと危うい協力関係を続けるのか、それともゲンドウに全ての経過を話しシンジを売るようなマネをするのか、正直なところ、まだリツコに結論は出せていない。
ゲンドウの望む本当のところが見えていない、だからかもしれない。
今回の初号機の暴走は、碇ユイが明確な意志を持ってシンジを助けたことから起きたことだ。今は停止しているとはいえ、ユイは完全に覚醒したと言っていい。S2機関を取り込んだのも、エヴァが持つ本能などではなく、なんらかの目的があったからだと、そう思える。
そしてそのことは、おそらくゲンドウにとっては既定の事象だったのだ。そう、リツコにはわかっていた。
だが、その先にあるのはなんなのだろう。
全部で17いると言われている使徒を全て倒す。その先にあることとユイの覚醒がどう結びつくのか。
シンジの見た補完後の世界、誰もいなくなってしまった世界、それがゲンドウの望みだと言うなら何か大きな矛盾があるような気もする。
ただ、シンジは言っていた、シンジが望んだから世界が滅んだのだ、と、別のことを希望すれば別の結果になった、その可能性もあるということなのだろうか。
自分の望む世界を作り新たな神になる、それがゲンドウの願いなのだろうか、その世界に、覚醒後のユイが必要なのだろうか。
ネルフ本部地下に眠るリリスは神の化身でもある。かつてアダムがセカンドインパクトで世界を壊しかけたように、リリスもまた持てる力は強大だ。
そして今は、加持がドイツから運んできたアダムすら、ゲンドウの手の内にある。
確かに、ゲンドウは神になろうとしているのかもしれない。
S2機関を得た初号機と同じように、制御不可能な存在になろうとしているのかもしれない。
彼が望むことなら助けるのが自分の役目だと、リツコはずっと信じてきた。
それでも神になり世界をつくるなどとは、あまりに俗で、ゲンドウにはふさわしくないような気がする。
まだ、人類を粛清しみな滅ぼす、そんな考え方であったほうがリツコには納得できる。
人類補完計画に挑む彼の姿には欲得ではない、もっとストイックな雰囲気をリツコは感じていたから。
方向は多くの人に受け入れられないものであっても、独善的ではあっても、それはゲンドウなりの正義に基づくもののはずだと信じていた。
ただの買いかぶり、なのかもしれないけれど。
神となるにせよ悪魔となるにせよ、少なくとも彼が人類に対して何か大きな変革を為そうとしている、そのことだけはわかっていた。
何を考えているのか、直接問い詰めることは出来ない。
深く持っている信頼感は消えてしまったわけではない。
だから、まだ、答えを出せないでいるのだ。
使徒はこれからも来る。結論を出すには早すぎる。
ゲンドウを選ぶか、シンジを助けるか。
あの時研究室で訊かれたように、シンジにつきつけられたら、今のリツコにできる答は保留でしかない。
いくらずるくても卑怯でも、ゲンドウと切れる理由はいまだリツコの中には明確ではなかった。
今回のシンジのように、ユイが肉体を持って初号機から現れていれば、考え方は違ったかもしれないけれど。
そして、ゲンドウを裏切れないのと同じように、今のシンジを見捨てることもまた、やはりできないのだ。
たとえお互いに利用しあっているだけだとしても、信用などされていないとわかった今であっても、そして彼の願いがリツコの愛する人と相反するものだとしても、この小さな身体に世界を背負って戦っている少年を、どうして簡単に切り捨てることができるだろう。
シンジの真意がどうであれ、その願いは無私で、そして清い。
一番近いところで、リツコはシンジを見てきた。
他の誰もが知らなくとも、人によっては憎み、また怖れてさえいるけれども、独り突き進む先に彼の目指すことを、リツコだけが知っていたのだ。
まだ、もうしばらくの間はシンジを助けていたい。
それが彼が不在だったこの一ヶ月の間で、リツコが出したひとつの答だった。
せめて全ての使徒を倒すまでは、そうすることはゲンドウへの裏切りにはならないだろうと、そしてリツコに利用価値がある限り、シンジも受け入れてくれるだろうと。
全てを先送りにし、結論を保留すること、それが最善の選択だと思えた。
ユイが覚醒した今、シンジは約束どおりその本当の目的を話してくれるかもしれない。
そしてそれはリツコの心の天秤をどちらかに傾けることになるのかもしれない。だが、それはあえて考えないことにした。今は、あの時研究室で生まれた二人の亀裂を修復する、そのほうが大事だ、シンジの心に踏み込むのは、その後のことだろう。
少年はまだ眠っている。
窓からの光は直接には彼にあたっていない。さほど明るくない室内で、静かな寝息を立てている。
やすらかな、とてもおちついた、なんの翳りも感じさせない綺麗な寝顔だった。
哀しみも、怖れも、怒りも、そこにはない、ただまどろんでいる、なんの心配事もなく、眠りに身を任せている、そう、まるで赤子のように。
シンジのこんな顔を見るのは、初めてな気がする。
悲壮な決意のままに戦いに明け暮れる、サードチルドレンとしての面影はどこにもない。
普通の少年にしか見えない。
目覚めさせるのが、可哀想に思った。まだ、彼は、母の胎内にいる夢を見ているのかもしれない。
けれど、思わずリツコは覗き込むようにシンジの髪に手を当て、そして声をかけた。
なんだか、怖くなったから。
「…シンジくん…」
「………」
「……シンジくん、起きて…」
「………、ん、……んん…」
ささやくようなリツコの呼びかけに反応して、小さく頭を振っている。シンジが夢の世界からこちら側に戻ってくるのがわかる。
数時間前までのように深い眠りだったわけではない、一度覚醒して、それからはまどろむようにしていただけのはずだ。だからさほど不快ではないだろうと思う。
そのことを証明するように、リツコが大きな声を出さないうちに、シンジはゆっくりと目を開けた。
「………おはよう、もう、目は覚めた?」
「…………」
「…どうしたの?」
自然な笑顔で迎えられたと思う。だが、シンジは何度かまぶたを瞬かせた後、半ば呆然とした感じでこちらを見ているだけだ。
その表情に、違和感を受けた。
「……どこか、痛む? …それとも、私の言葉が聞こえてない?」
「………」
まだシンジは呆けた表情のままだ。その瞳の焦点は絞りきれていない。
寝ぼけているだけ、だろうか。
だが、リツコは別の可能性を考え愕然とした。今まであえて考えないようにしていたこと。シンジは肉体的には異状はなかった。脳神経にもおかしな個所は見られなかった、だがエヴァと一体化した1ヶ月と言う長い期間は彼の精神を破壊してしまったのではないかと。
やや語調を強め、リツコはシンジにもう一度訊いた。
「シンジくん、私の声は聞こえてる?」
「…は、はい、えっと、ちゃんと…聞こえます」
リツコの口調に驚いたのか、少ししどろもどろにシンジが答えた。
まともな返事だ。意思の疎通は図られているし、言語能力にも問題はなさそうである。
ずっと眠っていたからまだ完全に目覚めていない、それだけのことなのだろう。
しかし、リツコの頭の中では小さなアラームが鳴っていた、なにかがおかしい、と。
もう一度シンジの顔を見すえた。
枕から頭をあげないまま、シンジが目を逸らす。照れているわけではない、まるでリツコを怖がっているようにも思える。
しかしいったいなぜ?
釈然としない気持ちのまま、リツコは予定の質問を始めた。
本音を言えば、それ以上突き詰めて考えたくなかったのかもしれない。
「……ねえ、シンジくん、身体でどこかおかしなところはある?」
「……え、いえ、特に…」
「そう、頭が痛かったり関節が痛いなんてこともないのね。…それじゃあ、この間の使徒戦でどこからどこまでの記憶があるのか、私に話してみてくれないかしら」
一足飛びに核心を衝く質問をしてみた。
迂遠なことをしていてもしょうがないと思えた。先ほどからどこかシンジの反応が鈍いのは、また何かをリツコから隠そうとしているからなのかもしれない。
あの暴走の直前シンジが何を考え何をしようとしていたのか、それは彼の行動を解く鍵の一つだろう。
それをリツコに話すのか、それとも話さないのか。
いや、本当はただリツコはシンジを試したかったのかもしれない。
さきほどから話すごとに増してくる違和感。ただ怯えているだけで、空ろに泳いでいる彼の黒い瞳。
「…………」
「どうしたの? レイやアスカから使徒を引き離したところまではあなたの意思ははっきりしていたわよね。それからエネルギーがなくなって暴走するまでの間、いったい初号機の中では何があったのかしら?」
「…………あの…」
はじめて、シンジの目がリツコの方に向けられた。怯えは消えていない。伏し目がちに見ている。
なんの光もない、ごくあたりまえの、ただリツコを見ているだけの目だ。
彼の次の言葉が、リツコにはなぜだかわかるような気がした。
ひとつの予感。
それとも絶望。
そしてそのとおりに、シンジのくちびるは動いた。
「…あ、あの、すみません。……使徒、ってなんなんですか?」
第7ケイジ。
いつのまにかリツコはここに来ていた。もうおそい時間だからか、辺りには誰もいない。
明かりもすでに落とされている。
薄暗い闇の中で鎧を纏った巨人の顔が、ぼんやりと浮んでいた。
シンジはまだ病室にいる。検査も終わり、今ごろはもう眠っているだろう。
明日にはゲンドウと会わせることになるのかもしれない。彼が望んだとおりに。
使徒とはいったい何か、その質問は、もちろん、あの謎の生物の正体を尋ねてきたわけなどではない。
知らなかったのだ、使徒というもの、それ自体を。
口ごもったリツコに、申しわけなさそうな声でシンジはさらに訊いてきた。
『ここはどこですか』
『あなたは誰なんですか』、
そして、少し迷った後に
『父さんはどこにいるんですか』
と。
その言葉に、リツコははっきりとわかった。
今、目の前に寝ているのが、いったい誰かと言うことが。
誤魔化すように少しだけ説明した後、その場を離れ医者を呼んだ。
チルドレンの管轄者であるミサトに連絡を取り医師に立ち会うように告げ、リツコ自身はゲンドウの元へと報告に向かった。
記憶喪失。説明の言葉はそれしかない。
たとえそれが真実から遠いものであっても。
病室にいるあの少年は、実のところ何も失ってはいないのだ。
第三新東京市に向かうリニアレール。
ミサトから面談後に聞いたところによると、それが彼が持つ最も近い記憶だそうだ。
ネルフのこともミサトのこともエヴァのことも、この街で起こった全ては彼の記憶から抜け落ちている、何も覚えていないと。
そして記憶だけではない。ミサトは言っていた、あれはまるきり別人のような気がすると。
確かに一番最初に出合った時に持った印象に近い、しかし、その後の彼からは想像もできない、医師やミサトの質問に怯えた顔で答えるシンジはまるでただの中学生にしか見えない、と。
それは止むを得ないと思う。
今のシンジに状況が理解できるわけはない。彼は未来の記憶はおろか、ここ数ヶ月の記憶すら無い、まさに帰ってきた浦島太郎のようなものなのだから。
あそこにいるのは、もともとのシンジだ。今までがイレギュラーであったのだ。
リツコには分かっている。だが、そう説明することはもはやできない。
エヴァとの融合が精神に過負荷を与えたせいだろうと、時間を置けば回復する可能性もあると、そういうしかなかった。リツコ自身、あまり信じてはいないが。
そのことも、すぐにゲンドウに伝えた。最初の時も、その時も、ゲンドウは動揺した様子はほとんど見せなかった。父親のことまでは忘れていない、だからだろうか。
リツコは、やはり動揺していた。それきりシンジの元には近づかず別の仕事を続けたのは、確かめるのが怖かったからだ。
マヤやミサトたちもリツコに気を使ったのか、シンジのことにはほとんど触れることは無かった。
初号機を見上げる。
もうコアは装甲で隠されていたが、その先にひとつの女性の像が浮かび上がってきた。
リツコが彼女に会ったのはもう何年前だろうか。
「…あなた、なんですか? ユイさん…」
シンジの母、碇ユイ。これが彼女が出した答なのだろうか。
覚醒したユイがシンジを守り、そして『あのシンジ』を拒否したのだろうか。
未来の記憶など、余分なものだと。確かにそれはシンジを苦しめるだけだったのかもしれないけれど。
「……どうして?」
いつのまにか、リツコは涙を流していた。
リツコが望んだとおり、確かにシンジは帰ってきた。
しかしあれは、望んだ形ではない。何も知らない今のシンジは、もうリツコを追い詰めはしない、けれど、導いてくれることも無いのだ。
瞳の奥の光は失われた。世界を守るといったあの時のシンジは、失われてしまったのだ。
ただ、リツコをここに残して。
「…ぅ……ぅぅ……」
搾り出すような小さな嗚咽を上げながら、リツコはケイジの床に座り込んだ。
その声を聞く者は誰もいない。起動していない初号機の装甲に、かすかに響いているだけだ。
病室に眠るシンジにもし聞こえたとしても、彼には意味はわからないだろう。
そして、『あのシンジ』が答えてくれることなど、おそらくもう二度とないのだ。
シンジがしようとしてきたことも、望んでいたことも、そのとば口だけを残して、闇に消えてしまった。
この世界は彼の世界ではない。本来のシンジが本来の場所に帰ってきた。
そのことに異議を挟めるわけもない。
もはや彼のためには泣くしかできないのかもしれない。
とめどなく流れる涙をふくことも忘れ、リツコは初号機を見上げた。
人の抗せぬ神の分身の姿が、そこに暗くぼやけている。
シンジの願ったことなどまるで知らぬように、交わした言葉も全て夢だったと言うように、静かに。
それが悲しくて、リツコは両手で顔を覆った。
サルベージは成功した、けれど、『碇シンジ』は、帰ってはこなかったのだ。
来るべき未来の記憶と共に、何処かへ消えてしまったのだ。
リツコは、もう、『シンジ』に会えない。
リツコには、もう―――――――――――――――――
――――――明日は、見えない。