そう、彼は行ってしまった。
繋げた手は、離されていた。
Written by かつ丸
何も考えなくてもいい瞬間がある。
だから、抱かれているその時だけは、きっと幸せなのだ。
クーラーの効いた部屋で、それでも汗にまみれながら。
身体を震わせ、快感にのたうち、シーツを、そして熱い肩を掴む。
悦びの声は途切れることなく、ダブルベッドの上で響いている。
相手は荒い息遣いだけで、ほとんど無言だ。
何か言われてもリツコに応える余裕などない、ただ今のこの熱情に身を任せていることが全てだった。
相手をするゲンドウには、以前よりも今のリツコが積極的に映っているだろう。
けれど、そのことすら、もうどうでもいいような気がしていた。
どれだけ貪っても満たされない、底の抜けた井戸のように飢えている。
何も考えていない、考えてはいけない、本能のまま、獣のようにまぐわうだけだ。
自分は何も失ってはいない、この渇きは、絶望は、だからただの錯覚なのだと、身体に教え込ませるように。
シンジの目覚めから、すでに幾日かが過ぎた。
その前の空白期間を埋めるように、リツコはゲンドウに溺れていた。
いや、そうすることで目を逸らそうとしていたのだ。ゲンドウは気づいていただろう、だが何も言わなかった。ただ抱きしめてくれたのは、同情していたからだろうか。
シンクロ率3割強。アスカの足元にも及ばない、レイよりも低い数値だ。
起動にはほぼ問題がなく、訓練なしの初期の数値としては彼女達より高いが、それでもかつてシンジが最初に出した数字とは雲泥の差がある。
技術部を初めスタッフが騒然となったのも、無理は無かった。
もっとも、ゲンドウにはほとんど気にした様子は無い。
むしろシンジの試験の合間に行なわれたダミープラグでの初号機起動実験に失敗したことの方に、懸念しているように見えた。
情事の後、ベッドでよりそうリツコに彼が切り出したのはやはりそのことだった。
「…どう考える?」
「……S2機関が初号機を変質させたのではないでしょうか。あれは、ある意味すでに私達の制御化には無いともいえますから。…少なくとも、暴走の仕組みは解明されていませんし」
「ダミーは所詮ダミーか…、気づかれたらもう使えんということだな」
事務的な答だが、リツコの声にはけだるい甘みが含まれていた。ゲンドウは天井を見ている。すでに仕事のことしか考えていないようだ。
かみ合っていないようでも意志は通じている。初号機が覚醒していることは、話さなくても共通認識としてあった。
「…ですが、これから造るエヴァに搭載するのは問題はないかと」
「ああ、初号機は特殊事例だ。委員会にもそう言うしかあるまい…」
言いながら、その声は苦渋に満ちているようにも思える。
ゲンドウの思うとおりに動く、反抗しないパイロット、それがダミー構築の目的だとしたら確かに本意ではないだろう。
息子すらも信じていない、そういうことならば。
確かに以前のシンジは、ゲンドウの制御下にはなかったように思う。使徒殲滅という目的から外れた行動はとらなかったから直接ぶつかりあったことはないが、諾々と従っている印象は無かった。
あくまでシンジはシンジの思惑で動き、ゲンドウはそれを遠巻きに見ているだけだった、そんな気がする。
横に寝ている男の横顔を、寝そべりながらリツコは見た。
淡いルームライトが小さく灯る薄暗闇の中で、まだ彼は宙を見据えていた。
ゲンドウはシンジの変貌をどう考えているのだろうか。
一度は面通しをしたはずだ。エヴァのパイロットになることを、誰かがあらためていい含めなければならなかった。それができるのは父親である彼しかいない。
今のシンジの状況を説明して少しでも納得させられるのも、おそらくゲンドウだけだっただろう。
病室でどんな会話があったのか、リツコは知らない。
ただ、シンジがサードチルドレンとしてネルフに所属し、中学校に通い本部内の居住区にすみつづける、そのことは決まったようだ。
つまりこれまでどおり、ということになる。
しばらくは不都合が多いのが目に見えている。便宜を図るようゲンドウから直接頼まれたとミサトが言っていた。
リツコにそんな指示が無いのは、チルドレンの管轄がミサトだ、という理由だけではないだろう。
今のシンジと会うことはリツコにとって苦痛だろうと労わってくれている、そう考えるのは都合のいい妄想だろうか。
それとも、一番繋がりの深かったリツコだからこそ、平静に会えない以上いい影響を与えないと思ったのかもしれない。シンジにとっても、リツコにとっても。
直接訊けるわけもない。考えるだけ無駄だった。
だが、シンジの唯一の肉親であるゲンドウが今のシンジにどんな印象をもっているのか、そのことは知りたいと思う。今のネルフ本部でシンジが知る人は、おそらく彼しかいないはずだからだ。
今までシンジとゲンドウはほとんど話をしていなかったが。
そんなリツコの心を読んだかのように、ゲンドウの呟きが闇の中に響いた。
「……三年前だ。シンジはまだ小学生だった」
「………」
「…あの時、あいつは逃げ出した。私が怖くてな。まともに話をすることもできず、向きあうことすら出来ず。無様に」
「………」
「……今のシンジは、あの時とまるで変わっていないな」
それきり、ゲンドウはまた押し黙った。
疑念をそのまま吐露しているのか、もしかしたらカマをかけているのか。
ただ一つ言えることは、ゲンドウですら冷静に事態に対処しているわけではないということだ。
そして、リツコにはそんな彼にかける言葉など無い。
空白が、目に見える数か月だけではなくそれ以上の期間であるとわからなければ、とまどうのがあたりまえだ。
記憶の空白は数ヶ月でも精神はさらに退行している、そう説明づけることは可能だが、それではまるっきり今のシンジを異状と決め付けることになってしまう。
原因を求められれば言葉に詰まるだけだ。
やはり、リツコにもわからないと、そういうフリをしつづけるしかないのだろう。
まだそれほど遅い時間ではない。誘うように身を摺り寄せる。
今はこれ以上シンジのことを聞きたくない、そう思った。
睦言の邪魔だからではない、無理に押さえつけていたものが頭をもたげてきそうな、そんな感覚がした。
今夜だけは、今だけは、考えたくなかった。
けれど、やはりそれはその場かぎりの誤魔化しにしかならない。
リツコには分かっていた。分かってしまっていた。
リツコの渇きは、心の穴は、ゲンドウによっては埋められはしない、埋められることはない、そのことに。
明けて、リツコはいつものように研究室にいた。
「…じゃあ、シンジくんには会ってないのかい?」
「まさか、そんなわけないじゃない。シンクロテストだってあったし、健康状態とかの検診も何度かしたわよ」
「それはわかってるさ。だけど、ふたりっきりでじっくり話したりはしてないんだろ? いいのかい、それで?」
悪戯っぽい口調で言う。加持のその顔には屈託など微塵もなかった。
いつもシンジやミサトが座っている席。考えてみれば彼が来るのはかなり久しぶりなのだ。
用件を言うでもなく世間話のようにシンジのことを話す。答えるこちらの声はかすかに強張っている気もする。目の前の男が、それを明らかに楽しんでいることがわかる。
さきほど研究室のドアがノックされた時、リツコは一瞬なにかに期待していた。入ってきた加持を見てかすかに失望をしたリツコへの彼なりの軽い仕返しだろうか。
「いいもなにもないわよ。シンジくんもそれどころじゃなかったでしょうし。彼がサードチルドレンじゃなくなったわけでもないんだから、話す機会はこれからいくらでもあると思うけど」
「ああ、確かにそうかもしれないな。…でも、今の彼はなかなか興味深い状態だからね、リッちゃんなら喜んで精密検査にいそしむかと思ったんだけどな」
「精密検査は病院が総出でやったもの、わたしの出る幕はなかったわ。…加持くんは会ったの? もうお見舞いくらい行ったんでしょ?」
「ああ、一度顔を見ておこうと思ってね。あまり話はできなかったよ、いきなりで驚かせたかも知れないな」
「そう…」
もちろん、シンジは加持のことを知るはずも無い。病室で何を話したかは知らないが、加持が求めるものと一番遠いところにいるのが今の彼なのだ。
真実への糸口はすでに失われている、そのことを、リツコが知る全てのことをもし仮に告げたら、加持はどう思うだろうか。
いや、本当は、リツコは話したいのだ。
いくらゲンドウに抱かれても、仕事に没頭しても、埋め難い穴が心の中に開いている。
目を逸らそうと思っても、気づかずにはいられない。
消せない焦りにも似たわだかまる感情。
後悔ではない、その理由は無い。失った悔やみではなく取り残された子どものような気持ち。
そう、幼い日、研究の合間の数日の休みを一緒に過ごした母が、ふたたび帰ってしまった後の気持ちに似ている。
癒せない渇き。
もう届かない指先。
加持に全てを打ち明けることで、何かが大きく変わる気がする。
補完計画という名の滅びの宴、その時はもう間近に近づいている。
真実を求めて策動してきた加持に、シンジのことを話したならば、補完の先にある未来の記憶を話したならば、彼ならそれを止めることができるのかもしれない。
世界の滅びは回避され、シンジの望みが適えられる。その一縷の望みは確かにある。
買い被りなどではない、加持の手腕はゲンドウも認めている。加持と、そして作戦部長であり優秀なエージェントでもあるミサトの力があれば、どんなに困難でも決して不可能ではない。
「どうしたんだい、急にぼーっとして」
「…ごめんなさい、別に、なんでもないわ」
訝しげな顔をする加持に、暗い微笑みで応えた。
そこにもし少しでも嘲りが含まれていたとしたら、それは自分自身に向けたものだ。
無意味な妄想をしている、リツコ自身に。
補完計画を潰すことは、すなわちゲンドウを裏切ることになる。
そんなことはできない、できるわけがなかった。
リツコ自身わかっている。選ばれない選択肢など無いも同然だということを。
あのシンジが消え去るまで、リツコはなんども自問自答を繰り返した。ゲンドウとシンジ、どちらを選ぶのかと。
最後まで答えは出さなかった。出せなかった。
まだその時ではない、そう言いわけをしながら。
結局「その時」は来なかった。
シンジが本来の姿に戻ったように、リツコもまた本来の姿に戻るしかない。
いくら望みをかなえてもシンジはもう帰ってこないのだ。
最初から、この世界にいなかったのだ。
いなかった者の願いなど、考慮しても意味は無い。
心の空洞も、いつか埋まるだろう。
その前に滅びを迎えても、ゲンドウの願いをかなえることになるのならば、後悔はない。あるはずがない。
ゲンドウに全てを委ねる。もともとそれがこの5年間でリツコが出した結論だったはずだ。
「…どうやら疲れてるみたいだな、リッちゃんは働きすぎじゃないかい」
「そんなことはないんだけど、でも加持くんなにか用があったんじゃないの? シンジくんのことだけじゃないんでしょ」
加持の言葉にようやく現実に引き戻り、闇に向かう思考をむりやり逸らした。
リツコがシンジを避けていることくらい、聞くまでも無く加持は気づいていただろう。本題にはまだ入っていない、前置きが長いのはいつものことだった。
「…ああ、ちょっと頼みごとをしようと思ってね。忙しいのにすまないんだが」
「どうしたの? ミサトに浮気がバレた、とか?」
「今のところそれは大丈夫だよ。…なあ、リッちゃんはアスカのことをどう見てる?」
「…また、唐突な質問ね。あの子が私を嫌ってることは認識してるけど、それくらい加持くんも知ってるでしょう」
やや面食らいながら答えた。
正直アスカのことなど普段から意識していない。考えないようにすらする必要が無いくらい、リツコの興味の外にいる存在だ。セカンドチルドレン、ミサトの同居人、それ以上の意味は持たない。
「ははは、確かに少し前まで悪口をよく聞いたな。シンジくんと君のことは一時目の仇にしてたようだよ」
「…あら、それじゃ今は違うってことかしら? もともとやつあたりもいいところだと思ってたけど。心境の変化の原因を是非聞きたいものだわね。……シンジくんについては想像がつくわ。彼のシンクロ率がアスカより下になったから、でしょ?」
「全く、手厳しいな」
苦笑しながらも否定しないのは、リツコの言葉が間違っていない証だろう。今のシンジのシンクロ率もハーモニクス値もアスカやレイに叶うべくもない。彼女達のライバルとすら呼べない数字なのだから。
もっともそんなアスカの浅はかな気持ちはリツコにとっては笑止だが。アスカの数値は決して上がってはいないのだから、むしろ緩やかに下降している。
自分自身の能力が上がったわけでもないのに、何を喜ぶことがあろうかと。アスカが考えることはもっと別にあるだろう。
それとも、加持の相談とはそのことだろうか。
「……それでアスカがどうしたの? いい加減他人を気にしてる場合じゃないってことに気づいたのかしら、あの子も」
「まあ、そうだね。初号機が当てにならない以上、使徒戦はアスカメインになる。そのことは望んだとおりなんだがプレッシャーにもなってるみたいなんでね。…最近の戦いにはいろいろと不安材料も多いしな。それで、リッちゃんならその辺の話にも対処できると思ったんだよ」
「ふうん、あの子もそれなりに悩んでるってこと、私の話をまともに聞くかわからないけど。…ミサトはなんて言ってるの?」
「ああ、葛城から聞いたんだ、アスカが悩んでるみたいだって。俺もここのところ忙しくてアスカと会う暇がなかったからね」
「ミサトと会う暇はあるのに?」
「たまたまだよ」
おそらく寝物語ででも聞いたのだろう。
例の二次会をきっかけにしたのか、ここ最近彼らによりが戻っていることは知っている。ばつが悪いのかミサトはまだ隠してはいるが、そういうことはわかるものだ。
アスカにもわかっているだろう。悩みの原因はそちらのほうではないのかとも思ったが、今言うのは止めておいた。
もし加持の言うとおりエヴァについての悩みだとしても、そういう状況なら確かにミサトや加持では相談相手になれる状態ではないだろう。そしてその二人以外にアスカが親しい大人はいない。
「でも、まあいいわ……加持くんには、借りがあるものね」
松代で助けて貰ったこと、それをあえて理由にしようと思った。
頼られるのはかまわないが、アスカのために何かしたいとはあまり思わない。チルドレンのメンテナンスは本来ミサトの仕事だし、喜ばれないことがわかっている相手の相談にのるというのもぞっとしない。
けれど、そんなことを全てわかっているはずの加持がリツコに頼みに来た、今までの彼の行動様式からはかけ離れている、そのことに引っかかったから。
だから、あえてそれ以上加持の真意を問い詰めることはせず、別の理由を作った。
誰かに対する、いいわけにするかのように。
「…すまない、手が空いた時で言いから、よろしく頼むよ」
そう言って加持はやさしく笑った。
どこか透き通ったような清清しさを持つ、不思議な笑顔だった。
それはリツコに向けたものか、それともアスカにだっただろうか。
ただ、瞳だけは深い光をたたえている。
なぜだか、かつてのシンジのことを思い出して、思わずリツコは目を逸らしていた。