見えない明日で

第5章 第3話

Written by かつ丸







 保安関係の責任者は、顔を蒼くしていることだろう。
 本部ナンバー2が拉致されたのだ、しかも白昼堂々本部の中で。あってはならない、などというレベルですらない。
 保安部という組織の存在に係わる、前代未聞の不祥事といえた。

 賊は数名、全員が逃亡した。侵入、退出路ともに不明。
 こちら側も死者は出ていない。護衛の数人が行動不能にされただけだ。荒い手口のわりに紳士的だとも思えるが、そこにも首謀者の刻印がしてあるような気はする。

 警戒をしていなかったわけではない、相手が一枚上手だったのだ。
 施設の内部事情にくわしく、これだけのことが指揮できるエージェントなど、世界中でも1人か、せいぜい2人しかいない。どちらもネルフの職員、つまり身内だ。
 そのうちの一人であるミサトは、ずっとリツコとともにいた。ならば答えは決まっている。

 加持リョウジ、彼しかいない。

 ゲンドウや保安部も、同じ結論に至っていたようだ。すでに市内には緊急配備がなされ、行方を追っているとのことだった。
 ミサトも拘束されているらしい。これは共犯を疑われているのではなく、事態を知って合流することを警戒されているからだ。同じ学生時代からの友人であるリツコが何もされないのは、ミサトと加持の友人以上に深い繋がりが把握されているか、ゲンドウとリツコの関係ゆえか、もしくはその両方だろう。
 実際、今のリツコはただただ困惑していた。

 司令室、イスに座るゲンドウに話し掛けた。いつも傍らに立つ冬月はいない。


「…なぜ、突然このようなことが? 日本政府のしわざでしょうか?」

「いや……今政府が動く理由は無い。これは別の存在の意志が働いている」

「別の存在、ですか?」

「ああ、あの男も、もともとそこから送られていた。初号機の覚醒が彼らにはよほどショックだったとみえる」

「それは、いったい……」

「…いや、今のは私の推測にすぎんな。……赤木博士、悪いが指示があるまで君は本部で待機していてくれ。マギを使う必要がでてくるかもしれん」

「はい、わかりました…」


 一礼して、リツコは部屋を出た。
 追い出された、という感じがする。よけいなことまで喋りすぎたという彼の気持ちが伝わったが、そのことに何も言わずに従った。
 いつになく饒舌なゲンドウは明らかに動揺しているのがわかる。リツコの知らない加持の正体を知っていたとはいえ、事態は彼にとっても計算外なのだろう。
ネルフ、いや、その前身であるゲヒルン設立以前から冬月とゲンドウの付き合いは続いているはずだ。冬月の京都での助教授時代、すでに知り合っていたといつかナオコから聞いたことがあるような気もする。
 共有する秘密も思い出も、冬月はリツコよりもずっと多いのだ。
 ゲンドウが目指すところを理解している唯一の存在、それが副司令だろう。
 彼が何者かに拉致された、その意味するところはやはり大きいと言わざるを得ない。
 組織の存続に関わる事件だ。まだほとんどの職員はそれを知らされてはいないが。

 研究室に至る道ですれちがった人々もいつもと変わらなかった。それもあたりまえのことだ。
 けれど、この本部内ではどこか空気がよどみ重くなっているような気がする。
 それがこれから起こる何かの予兆のように、リツコの心も重くしていた。








 研究室に戻り、とりあえずマヤに呼び出しのメールを入れた。
 リツコが煙草を取り出し火をつけるのとほぼ同時に、仕事が一段落ししだい来るという返信が届いた。シンクロ実験のデータ整理だろう、リツコの用件がその報告を求めることだと思われているかもしれない。
 今はマヤの周囲に他の技術部員もいるはずだ、おかしな勘繰りがされないなら、そのほうがいい。

 煙草をゆっくりと吸い、煙を吐いた。
 ミサトと話がしたいとも思ったが、今は無理だろう。彼女がいつまで拘禁されるのかリツコにはわからない。何らかの決着がついた時だとは思うが、それがどんな形であらわれるのかは想像がつかなかった。

 かつてのシンジは今回の事件について言及したことは無い。チルドレンが知りうる問題ではないと思うし、そもそも冬月について何か言ったことすら、ほとんどなかったように思える。
 冬月の方も距離を置いていた。もっとも冬月は誰に対してもそうだ。ゲンドウと、そしてリツコを除けばほとんどの職員と親しく会話を交わしたことなどないのではないだろうか。
 人当たりは決して悪くは無い。だが、他人との間に壁をつくるようなところがあった。

 いつかレイが言っていた。
 彼女を見るシンジの視線は冬月に似ていると。

 レイの開発に冬月は大きく関与しているはずだ。ナオコが絡んでないことはリツコにもわかっている。リリスから作られたということを聞かされたのは、あの自殺が起こったあとだからだ。
 冬月がレイにどんな感情を持っているか、想像したことは無かった。ゲンドウとは違いあの二人が話をしているところはみたことがない。レイの正体をもっともよく知る者としての冷めた視線、そういうことだろうか。

 レイがシンジを評したあの時は第5使徒戦の前だ。
 シンジに死の淵から助けられてその後、明らかにレイの態度は変わっている。だからずっと同じように感じていたとは思えないけれど。
 レイはシンジのことを気にしていた、そのことにリツコも気づいていた。だが、シンジの方からはほとんどレイと関わろうとしていなかったはずだ。
 いや、それも正確ではない。


「……あの子は、誰とも関わろうとしなかったわね」


 青白く揺らぐ煙を見ながらひとりごちた。
 レイにだけではないのだ。ミサトにもアスカにも他の誰にもシンジは関わろうとはしていなかった。まるで痕跡を残すことを怖れるように心を開くことをしてはいなかった。

 サードインパクトを起した罪の意識からだと、そう理解していた。かつて親しかった人たちはその面影だけでシンジを責める、だから逃げているのだと。

 冬月も同じなのかもしれない、ゲンドウが求める補完計画を手助けしている、その罪の意識が他人との間に隙間を作っているのかもしれない。
 それでも冬月はシンジとは違う。副司令という立場からも繋がっている人間ははるかに多い。

 今の状況を考えればよくわかる。
 この世界にとってはイレギュラーだった未来をの記憶を知るシンジ、彼が消えたために、多くのものは戸惑い、低下した戦闘力に不安を感じている。だが、あのシンジではなくなったことを本気で悲しんでいる者が、はたしてどれだけいるだろう。シンジに忘れられてしまっていることを寂しく感じている者が、この何百人もの職員がいるネルフ本部に何人いるのだろう。

 喜んでいる者はいないと思う。違和感もあるだろう。けれどそれはみんな表層的なものだ。
 もう数ヶ月もすれば、今のシンジがあたりまえになる。使徒と戦い傷つき身を削ってきたあの少年の残してきたものは、何も知らない本来のシンジが全て消し去ってしまう。

 なぜなら真実を知るものはリツコしかいないのだから。
 今のシンジと今までのシンジは本当は別の存在だ、などと気づく者などいるはずもない。
 どんな形であれリツコだけが彼の心に触れていたのだ。
 ただリツコだけが。

 あの、孤独な心に。

 触れただけで、奥底まで届きはしなかったけれど。



 煙がぼやけて見える。
 目をつぶり涙がながれるのに任せた。
 泣いている自分を、冷めた自分がどこかで笑っている。


 10年来の知り合いである冬月が拉致されたというのに、しかもその犯人が学生時代からの友人である加持であるかもしれないのに、そのことをろくに考えず、消えてしまった少年のことばかり 気にしている。

 馬鹿な女だと。


 現実から逃避しているのではない。
 他の考えに逃避できないのだ。考えるまいと思っても、いつしか戻ってくる。
 まるで檻の中にいるようだ。

 知らぬ間に捕らわれていたのだろうか。
 ゲンドウではなく、シンジに。

 たとえそうでも報われることは無い。もう、彼はどこにもいない。
 やはり馬鹿だと思った。





 リツコを現実に引き戻すように、ノックの音がした。
 煙草を消し、そしてハンカチで軽く目を拭う。
 それでも痕跡はあったのだろう。入ってきたマヤは少し驚いた顔をしていた。
 別にどうでもいいと思う。彼女が何を思おうが、たいした問題ではない。
 身の上相談をするために、マヤを呼んだのではないのだから。


「あの…先輩…」

「データは纏まったの? 見せてもらえるかしら」

「は、はい」


 弾かれたように慌てて、マヤが持ってきたノートパソコンを開いた。
 キーボードを操作する彼女をよそに、立ち上がっていく画面を眺める。
 表示された3本の棒グラフ、3色に分けられ、1、2、3と番号がつけられている。

 実験室でリツコが見たのと同じものだ。2とつけられた赤い棒が一番高く、1、3と続いている。
 これはシンクロ率、別のウインドウにはハーモニクス値が表示されている、それも同傾向だ。


「身体の状況は?」

「いずれも特に異状は検出されていません。シンジくんの血圧や脈拍も前回ほどの乱れはありませんでした」

「そう、慣れてきたんでしょうね。……時系列で見せてもらえるかしら」

「はい」


 表示が切り替わり、3本の折れ線グラフが現れる。数十回行なった実験の蓄積だ。
 小刻みなジグザグを描きながらもゆっくりと上がっている白い線。
 ずっと高いところにあった青い線は左端で突然大きく下がっている。
 そして赤い線、セカンドチルドレンを意味するその線は青い線の降下とともに一番高い位置を得ている、しかしリツコが感じていたとおりここ数回の実験ではゆるやかな下降線を描いていた。いや、感じていた以上にそのカーブは大きいかもしれない。


「…アスカにも、肉体的に異状はないのね?」

「はい…でもやっぱり何かあるんでしょうか?」

「…まだ、なんとも言えないわね」


 マヤも当然気づいているようだ。
 実験を重ね一体化を繰り返すごとに当然エヴァとの親和性は高まる。だから何の要因も無しにシンクロ率がこれほど大幅に減少することは考えにくい。
 今はアスカがエースなのだ。原因がわからない、ではすまないだろう。

 アスカになにか兆候があったから、加持は自分にあんなことをいったのだろうか。アスカを頼む、と。

 少なくともあの時には決めていたのだろう。
 冬月の拉致を。ネルフを裏切ることを。


「先輩? …どうかしたんですか?」


 マヤが不安そうな顔で見ている。
 そろそろ本題にはいってもいい。ただ実験のデータを見るためだけなら、わざわざ呼び出す必要も無い。盗聴の心配の無いこの研究室でなければ、できない話があった。





「…まさか、冬月副司令が……いったい誰が、どうしてそんなことが…」

「さあ? それは現段階ではわからないわね。原因は何であれ、起こったことには対処するしかないでしょう。…副司令は本部のナンバーツーでセキュリティレベルも碇司令とほぼ同等、このことの意味が、あなたならわかるわね?」

「……ソーシャルハッキング、ですか。確かに副司令の権限なら外部からでも所内のネットワークに接続できますが…でも、どんな相手か知りませんがそんなすぐ足がつくようなマネをするでしょうか? それに、接続権限を止めるのは今すぐにでもできるんじゃないんですか?」

「ええ、本部のマギなら副司令の名前で接続されればすぐにチェックできるでしょうね。でも、副司令の権限なら本部以外のマギでも接続可能なはずよ。…この件について司令は完全機密、つまり本部内すら漏らすなと言っているわ。だから他の支部に協力を求めるわけにはいかないの」

「そ、そんな…」


 蒼ざめていたマヤの顔が見る見る強張っていく。
 少し煽りすぎたかもしれない。
 嘘をついているつもりはない、だが冬月が簡単に口を割るとも思えなかった。もちろん薬物をはじめ方法はいくらでもあるが、加持が噛んでいるなら、早い段階でそこまで乱暴な手段はとらないのではないだろうか。


「マヤ、副司令の件については今のところ司令と私達のほかは保安部しか知らないわ。さっきもいったとおり、当分の間は対内的にも秘密、あなたもそのつもりで行動してちょうだい。その上で、マギの監視を手伝ってほしいの」

「…監視、ですか? 障壁ではなくて」

「ええ、もし相手にもそれなりの技術者がいれば、アクセス制限をして撥ね付けられても侵入元のボロは出さないでしょう。むしろどんな情報を知ろうとしたか、何をしようとするか、そのことのほうが痕跡にはなるわ」

「…わかりました。でも、他の支部に侵入する可能性が高いなら、少し難しいです」

「そうね…」

 たしかにマヤのいうとおりだ。
 本部のマギを張っていてもらちはあかないだろう。

 冬月を拉致した相手を知るには、手がかりをたどるしかない。
 ある程度のデータと引き換えにしても取り戻さなければならない。

 ただ、ゲンドウはマギの情報を全く気にはしていなかった。そのことが少し気になる。
 調べる必要が無いことを知っている、そういうことだろうか
 そして彼が言ったマギを使う、という言葉は、アクセスのチェックをするのでなければはたしてどういう意味なのだろうか。


 その時思い当たった。加持を本部に送り込むことができ。そしてゲンドウと秘密を共有する存在について。
 つまりは、補完委員会、そういうことだろうか。
 少なくとも同種の存在なのかもしれない、補完計画に大きく関わりゲンドウと敵対、もしくは協力している何者かなら条件には合う。マギの使い方も、ある。


「……ねえ、マヤ、他の支部のマギの状況について、本部から探索することは可能じゃないかしら」

「え、でも、セキュリティは支部の担当が各自作っていますから、普通では不可能ではないでしょうか。もともとネットワークは形成されていますが、深部についてはお互い不干渉となってますし」


 目を瞬かせてマヤが言う。
 リツコにとっては折込済みの答えだ。


「普通では、ね。でも、マギ・オリジナルの性能は他のマギを確実に凌駕してるわ。総がかりならまだしも、1対1なら負けることは無いでしょう。それに……あなたも知ってるわよね、カスパー内部に残されていた裏コードのこと。…アレを使えば、どう? ほぼ足跡を残さず侵入できるんじゃなくて?」

「……それは…存在を他の支部が知ってるとは思えませんし、確かに可能かもしれません。でも、いいんでしょうか?」

「非常事態ですもの、なりふり構っている場合ではないと思うわよ。S2機関や、今開発中のエヴァのデータが目的なら、むしろ支部のほうに機密が多いし、守ってあげるんだから」

「ああ、はい、そうですね…」


 マヤは納得しているが、リツコは真実を語ってはいない。
 ネルフと密接に関与している者が黒幕なら、その本拠地は他の支部にある可能性がある、少なくとも支配下にはあってもおかしくない。だから他支部の動きを探ることが必要になる。マギを使うというのはきっとそういうことだろう。

 ゲンドウは裏コードのことを知っていたのだろうか。
 それとも信頼しているのだろうか、オリジナルの、赤木ナオコの作ったマギの性能を。

 本部以外に設置されているマギは、本部のマギを元に作られている。開発時期は当然後だが、一般的なコンピュータのあり方とは違い性能がオリジナルを超えたものは無い。
 一生をかけてナオコが作り上げたシステムは、真の意味で誰にも真似することは出来なかった。
 娘のリツコにさえも。

 いつも追いかけていた。それでもいつまでも届かない存在だった。
 そして今も、結局は母に頼ろうとしている。

 いや、そのことを考えても無駄だろう。あのシンジと同じように、ナオコももう手が届かないところに行ってしまっている。気にしているのは、ただの感傷でしかない。
 考えを振り払い、マヤの方を向いて声を張った。


「まず、使えそうな裏コードのチェックから始めましょうか。あの時はその場限りって言ったはずだけど、あなたのことだから、ちゃんと残しているんでしょ?」

「あ…いえ、こんなこともあろうかと…って、ごめんなさい、先輩」

「いいのよ、私も記録はしてるからお互い様だわ。じゃあ、マギのところに行きましょうか」

「はい!」


 明るいマヤの返事に、沈みがちだったリツコの心も少し晴れたような気がした。
 何も知らない彼女を巻き込んだ形になったが、一人ですればもっと陰鬱な作業になったろう。上司に対する感情であっても、自分に好意を寄せてくれる相手といることは、それだけで心地良い。
 それから数時間は、だから楽しい時間だった。




 もっとも、マヤと二人で作り上げたシステムを使うことは結局無かった。
 完成するより先に、冬月が自力で帰って来たからだ。
 その連絡を受けた時に、マヤはいささか残念そうな顔をしていた。
 リツコもきっと同じように感じていたのかもしれない、だが何も気にしないふうに、ありがとう、とだけ言った。後片付けを終えたら、今日はもう引き上げていいと。
 
 冬月が無事ならば、これ以上の作業は無意味だ。
 拉致について公表されることも確実にないし、ここで行なわれたことも、無かったことにしなければならない。
 
 物言いを冷たく感じたのだろうか、拗ねたように口をやや尖らせあからさまに肩を落としているマヤの、その無邪気さが、少し眩しく思えた。






 







〜つづく〜









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katu@osaka.104.net



解説:




ネルフのネットワークシステムはどうなってたんだろう。
各支部のマギ同士がスタンドアローンってことはないだろうし。





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