見えない明日で

第5章 第4話

Written by かつ丸







 ネルフ本部は、いつもと変わることはほとんどなかった。
 表面上は何も起こらなかったように見える。
 なかったことにすると、そう決められたせいだが、保安部を除く大半の職員は違和感を感じることすらもないのだろう。

 警備は厳しくなっているが人数を増やしただけだ。一人一人ボディチェックしたいという申し出が保安部長からはあったようだが、ゲンドウが却下した。もう再び繰り返される心配は無い、そういうことだろうか。

 冬月が帰ってきて一晩が経っていた。
 本部施設の通路で偶然会った彼は、どこにも怪我をした様子はなかった。ただ、少しやつれている気もする。


「もう、よろしいんですか?」

「ああ、大丈夫だ。心配をかけてしまったな」


 普段どおり、詰襟のついたネルフの制服を着たその姿は、何も変わったところは見えない。
 もはや何の問題も無い、会えばゲンドウもそう言うのだろう。

 だが、本当のところはわからない。
 リツコが知らされたのは拉致された冬月が無事に帰ってきたことだけだ。
 保安部やゲンドウの手ごまが救出したのかどうかも、教えられはしなかった。確かに、リツコが知る必要の無いことなのかもしれない。だからことさらに尋ねたりはしていない。
 それは冬月に対しても同じだ。つきあいこそ長いが、心を開きあっているとまではいえない。他の職員よりは忌憚なくものが言える立場にはいるが、それはリツコのネルフでの地位の高さが原因でもある。
 本部を動かしているのは実質的に3人だが、その中心にいるのはやはりゲンドウだ。リツコと冬月は彼という幹を介して存在する二本の枝のようなものだ。こちらの枝にはむこうの枝のことはわからない。
 ただ幹だけが、全てを把握している。

 いや、それも錯覚なのだ。冬月とゲンドウの結びつきは強い。リツコなどより、遥かに。
 少なくとも、冬月はゲンドウのしようとすることを、すべて知っているのではないだろうか。

 かつては違ったのかもしれない。
 昔は、今のリツコの位置にはナオコがいた。ゲヒルン以前、セカンドインパクト直後から計画に関わっていた彼女ならば、同じ量の情報を秘密を共有していたこともありうる。

 だが、それすらも間違いだと、リツコは知っていたはずだ。
 そう、ナオコはレイの存在を知らなかった。彼女の全く知らないところで、あの少女は造られていた。
 そのことを知った時ナオコはどう感じただろう。ゲンドウや冬月のことを、どう思っただろう。

 結局、自分も母も同じなのではないのかとリツコは思う。
 ゲンドウと冬月とリツコと、それともゲンドウと冬月とナオコと、3人だけの結社として進めてきた計画、そう思っていたのはリツコたち親子だけで、ゲンドウや冬月にはそのつもりはなかったのではと。

 彼らが見ていたのは、常に別の誰かだ。
 同じ人を見ているゲンドウと冬月は、きっと近いところにいる。

 けれど、それも無理も無いのかもしれない。
 ミサトと加持とリツコのルーツがあの学生時代にあるように、冬月とゲンドウの結びつきもまた、セカンドインパクト以前に遡るのだから。
 そこにはリツコもナオコもいない。
 なぜ冬月がここにいるのか、ネルフに入り補完計画を推進するのか、その理由を教えられることも理解することも自分には出来ないのだ。


 司令室への通路を並んで歩きながら、リツコは冬月との距離を感じていた。
 彼の近くにいるゲンドウとの距離を。



「……君は、加持君とは親しかったね」

「ええ…」


 突然、冬月が言った。お互い歩みは止めていない。世間話のような調子だ。
 だが、リツコは一瞬緊張していた。拉致事件の主犯が彼だと確信していたから。

 けれど冬月はほとんど優しい口調で続けて言った。


「今回は……彼に迷惑をかけた。葛城くんに謝らなければならないな」


 言葉の意味はすぐに理解できた。
 なぜ冬月が無事に帰ってこられたのか、それは連れて行かれたときと逆のことを加持が行なったからだと。
 なんらかの代償と引き換えに。
 おそらくはネルフを裏切ったように、彼を用いていた何者かを裏切ったのだ。

 冬月の口調の優しさはリツコに対してのものだったろう、ミサトへの労いもけっして嘘ではない。実行されるかどうかは別にして。
 そして決定的にわかったことは、彼の中では加持はすでに過去の存在になっている、そのことだった。

 もともと彼ら二人が親しかったわけではない、だからそれはしかたがない。
 むしろ自分が激しい衝撃を受けていることに、リツコは驚いていた。




















 あの男と最初に会ったのはいつだったろうか。
 ミサトが数日大学を休んだ時、心配で見に行った彼女のアパートで顔をあわせた、それが最初だっただろうか。


「迷惑かけてすまないってさ、あんたにもそう伝えて欲しいって……」

「…加持くん?」

「ええ、…留守番電話に入ってたわ」

「そう……」


 冬月が戻ってきてから二日が経っている。
 帰還したその日の深夜にミサトは解放されたはずだが、昨日は一日姿を見せなかった。自主的な休暇をとったようだ。
 使徒の襲撃でもない限り、それが問題になることはない。彼女を叱責する権限をもつのは冬月とゲンドウだけだからだ。チルドレンの実験も一昨日に行なわれていたため、今週はもう予定はなかった。
 だから今日彼女が本部に出てきたということ、そのほうが意外な気もする。
 いくつかの用事を済ませてすぐにここに、リツコの研究室に来たところをみると、共通の友人の顔を見に来た、それが正解なのだろう。

 当然、まだ立ち直ってはいない。
 泣き疲れた後のようなやつれが、ほんのかすかに、いつもより厚めの化粧をした顔に残っている。


 もちろん、加持が死んだと決まったわけではない。
 そのことにリツコも、おそらくはミサトも実感はない。遺体を見たわけでもないし、失うにはあまりにも加持の存在は大きすぎる。
 だが、理屈ではなくもっと別の感覚に、加持の死を確信させられてしまっていた。

 知っていたのだ。8年以上前に初めて会ったあの頃から、加持は何かを追い求めていた。危うい場所を走りつづけてきた。二重スパイになり、ネルフの機密に大きく関わろうとしていたこと、それが象徴するように。
 いつかはこんな時が来ると、分かっていたのかもしれない。
 リツコも、ミサトも、そして加持自身も。

 だから、止めることが出来なかったのだ。

 リツコは知っていた。
 シンジから聞かされていた。
 加持がその姿を現さなくなることを。


 何をしようとしていたのかは知らなかった。
 けれど、それでも警告をすることはできたはずだ。危険だと。命に関わると。


「……アダムのこと、加持が教えてくれたの。前に言ったかしら、ネルフが地下のドグマに隠してあるアレ」

「…それ、司令が知ったら処罰されるわよ。あそこへの侵入は重大な規則違反だから」

「日向君や青葉君にも話したから、発令塔付きのオペレータはもうほとんど知ってるんじゃないかしら? …秘密も公開されれば秘密じゃなくなる、力は失われるわ」

「だから、加持くんは全てを知ろうとした、そう言いたいの?」


 いつもの丸イス、かつてのシンジの指定席でもあるその場所に座りながら、こちらを見るミサトの表情はけして厳しいものではなかった。
 ネルフという組織ではリツコはゲンドウ側の人間だと彼女は知っている。地下の巨人の存在もずっと隠していた。それでも、たとえ話すことが禁忌の機密についてであったとしても、今この瞬間は友人に対する態度だった。


「加持がしようとしてたことは、私にはわからないわ。…アダムを見せてもらった時、ドグマの最深部で、アイツに言ったのよ。ネルフを甘く見るなって、このままじゃ……いずれ命を落とすって」

「ミサト……」

「……でも、やっぱりあいつは止まらなかったわね。そうよね、そんなことで止まるわけなかったのよね。だって…そういうやつだもんね」


 命を惜しむよりも、一歩でも先に進もうとする、それが加持という男だから。
 そうだ、リツコもそれを知っていた。よく知っていた。だから何も言わなかった。

 今回の冬月の拉致事件、自らの破滅的な結末は加持も予想していたはずだ。
 それでも進むような男には、どんな警告も意味を持たないだろう。

 けれど違う。予想できることと結果を知っていることは違う。
 シンジとリツコだけが共有していた真実を、流動的なものではなくほぼ確実に訪れていた今日のことを伝えていれば、もっとずっと早く伝えていれば、やはり避けられたことなのかもしれないのだ。


「…アスカには、もう伝えたの?」


 自分の心から目を逸らすように、話を違うところに振った。
 少し以前ならこんな話は研究室ではなく、ミサトの部屋で飲みながら行なっていたと思う。居酒屋などは機密維持から論外だが、それでもミサトが誘わないのはやはり彼女の同居人に理由があるように思える。
 案の定、腕を組んだまま、やや戸惑った表情をしていた。


「…まだ、みたいね」

「伝えるもなにも、今の時点で、何もわかっていないもの。話すことがないわ」

「留守電には?」

「何も…アスカのことには触れてなかったわ。…携帯の電話番号は知ってるはずだから、そっちにかけたのかもしれない……けど、違うわね、あの子は何も知らないわ。…ああ、そう言えば加持の奴、花のことを言ってたわね、花に水をやってくれって。場所はあなたが知ってるって言ってたけど」

「…花?」

「そう、今日はそのことを訊きに来たのよ。…ねえ、それっていったい何?」









「……何してるの? こんなところで」


 そう尋ねたのはミサトだった。少し言葉に険が含まれているように思えるのは、リツコの気のせいではないだろう。
 昼食を終えた後、急かされるようにしてやってきた加持の畑。
 そこで二人が見たのは、スイカを前に佇むシンジの姿だったのだ。



「あ、す、すいません」

「いいけど、どうしてこんなところにいるの? 学校は?」

「え、えっと、その…す、すみません」


 詰問するミサトにまともに答えることもできない。
 かつての、最初の頃のように、ミサトだから、ではなく、ただ大人の女性に気圧されているだけのようだ。
 その様子をリツコはただ黙って見ていた。
 学生ズボンにカッターシャツ。通学の途中にしては、確かに遅すぎる時間だった。


「すみませんじゃないわ。…で? ここで何をしてたの?」

「あ、あのごめんなさい。か、加持さんに、加持さんに会いたくて、その…」

「加持に?」

「は、はい。…この間、加持さんにこの場所を教えてもらって、それで話を聞いてもらったから、それで…」


 ミサトの目つきが厳しくなる。自分よりもシンジに加持が話したことが気にくわないのかもしれない。
 シンジが目覚めてまだ10日余りしか経っていない、彼がここに案内されたのはそれほど過去のことではないはずだ。


「……それで、またあいつと話をしにきたの? でも、多分今日はもうこないと思うわよ」

「あ、そ、そうなん、ですか…じゃあ、僕、帰ります。…ごめんなさい」


 ミサトから逃げるようにシンジが立ち去ろうとする。
 その瞬間、彼がこちらを見た。ほんの一瞬だけ視線が絡まる。あの日の病室と同じ瞳。
 何も持ってなどいない、からっぽの瞳。

 そのままなんの言葉を交わすことも無く、視線はまた離れた。
 彼の表情に、ほとんど変化は無い、そう感じた。
 リツコ自身はどうだったのだろうか。

 行ってしまったシンジのことなど全く気にもせず、何も無かったかのように、ミサトは畑に近づいた。
 その場にしゃがみ、大きく育ちつつあるスイカを見ている。


「…加持のやつ、どういうつもりだったのかしら、こんなもの作って」

「それなりに楽しかったみたいよ。あの時も…前の使徒戦の時もここで見てたって言ってたわ」

「…なにそれ? 人が必死で使徒と闘ってたっていうのに」


 呆れたような口調のまま、ミサトが小さく笑った。屈託のない、柔らくて、温かい笑顔だ。
 話しながら、リツコは別のことを考えていた。
 ついさっきまでここにいた少年のことを。
 加持は、いったい彼と何を話したのだろうか。
 彼のことを覚えてもいない、何も知らない子どものシンジに、いったい何を話すことがあったというのだろうか。


「……気になる?」

「…なにが?」

「とぼけないで、あの子のことよ。……あんたにとっては、加持よりもそっちのほうが重要だもんね」


 見透かしたようにミサトが言う。
 否定の言葉はリツコには出せなかった。
 かまわずにミサトが続ける。空を仰ぎながら、ここにいない誰かに話すように。


「…たぶん、重ねてるんだと思うわ」

「………」

「昔ね、少しだけ聞いたことがあるの。…あいつには弟がいたって。だから、今のシンジくんをほおっておけなかったのかもしれないわね」

「……そう」


 セカンドインパクトを乗り越えた世代だ。同年代には肉親を無くしたものなどいくらでもいる。
 ミサトが言うそれだけのことが死への選択をする直前に、恋人のミサトではなくシンジと逢っていたことの理由とするにはあまりにも弱い気がする。この場所は加持にとって特別だったはずだ。
 だが、人の気持ちはロジックではない。
 ネルフでの記憶もつながりも持たない今のシンジに、保護欲をかき立てられることは不思議ではないだろうとも思う。
 それでミサトは納得できるのだろうか。


「…本当にどうしちゃったのかな、シンジくんは。碇司令そのままに独善的でいけすかないガキだと思ってたのに。目覚めてからずっとずぶぬれの子犬みたいにおとなしくなっちゃって。あれじゃこっちが調子狂っちゃうわ」

「………」


 別人だからだ、あれは今までのシンジではないからだ、と思わず言いそうになるのを抑える。くちびるを噛み締める。
 そんなリツコを気にもせずに、ミサトは笑顔のままだ。


「…でも、それでもいいじゃない、リツコ。シンジくんは帰ってきたんだから、どんな形であろうと、記憶を無くしてても、こちら側に、あんたのところに戻ってきたんだから」

「…ミサト……」


 笑顔は変わらない。
 けれどミサトの頬を幾筋かの涙が流れているのが見えた。


「昔、誰かが言ってたわ。零れた水は、また汲めばいいって。無くした記憶なら取り戻せるかもしれない、たとえできなくても、もう一度一から築いたらいいのよ」

「………」

「みんな、シンジくんとどう接したらいいかわからないの。不安なのよ。エヴァに、ネルフに関わってあんなことになったから。痛々しくて避けるしかない、遠ざけるしかないの。リツコ、つらいのはわかるけど、あんた以外の誰があの子を助けてやれるというのよ」

「…チルドレンはあなたの管轄じゃなかったの?」

「そんな虚勢をはる余裕、もう私には無いわ。…わかるでしょう、リツコ」


 勝手な言い分だとは思わなかった。
 シンジをミサトから遠ざけたのはリツコのほうなのだ。最後まで面倒を見ろというその忠告は、客観的にみて当然のことなのだろう。
 作戦部長という立場からミサトはその言葉を我慢してきた。加持のことが原因か、それをきっかけに何かが変わるのか、加持ではなくミサトがネルフの秘密に踏み込んでくること、その宣言なのかもしれない。
 シンジだけではなく、チルドレンを管轄する、その職務よりも優先するものができたことの。
 加持は、こうなることを予見していたのだろうか。だからリツコにアスカを託そうとしたのだろうか。

 小さな声で呟いた。


「……そのほうが勝手だわよ、加持くん」


「え、なんて言ったの?」

「いいえ、なんでもないわ。…じゃあ私は先に戻るわね、仕事がまだ残ってるから」

「私はもう少しここにいるわ。…リツコ、さっき言ったこと…」

「ええ、わかってるわ、それじゃね…」


 踵を返した。自分は何もわかってなどいない。今のシンジに言うべき言葉など思い浮かばない。
 だがそれを今のミサトに主張するほど、リツコは愚かではなかった。







 







〜つづく〜









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katu@osaka.104.net



解説:




久しぶりのシンジ登場
すぐに退場

ミサトが某コーチと関係があるという設定はありません




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