Written by かつ丸
状況は悪化している。
この部屋にいる誰もが、そのことを確信しているはずだ。
定期的に行なわれるシンクロテスト。前回から数日しか経っていない。
特殊な状況にあるシンジはともかく、残りの二人のチルドレンにはもう何度も繰り返され慣れきった日常の一部であるはずだ。
だが、モニターに写されたグラフはいつものそれとは違っていた。
「・・・真面目にやってる? アスカ」
『やってるわよ!!』
スピーカーから返ってきた怒声は、思うようにいっていない彼女自身に対する苛立ちゆえだろう。
それはリツコを始めオペレータたちにも伝染している。
ふざけているわけが無いのに、不用意な言葉で質問してしまったのもそのせいだ。
ここ数回のテストで緩やかな下降線を描きつつあったアスカのシンクロ数値は、今回の実験で目に見えて大きく減ってしまっている。
原因はわからない。
精神的なものであろうと想像はできるが、見ている限りアスカはいつものアスカだからだ。
リツコの傍らにいるミサトにも、理由はわからないようだ。苦い顔をしている。
いや、お互いにこころあたりがないわけでもない。
そのことについて触れにくい空気があるだけだ。
周囲に聞こえないように、小さな声で尋ねた
「……あの子に話したの?」
「…言ってないわ。だって、まだ結論はでてないもの」
ミサトが目を伏せる。
加持の名前はリツコも出せなかった。
「そう、でも何か感じ取ったのかもしれないわね」
「…………」
「どちらにしても放置するわけにはいかないわよ。少なくとも原因は何か把握する必要があるわ」
「……あなたにまかせるわ、リツコ」
視線を向けないまま、ミサトが言った。
チルドレンの、特にアスカの管理を他人任せにするなど、以前ならば考えられないことだが、ことさらに触れるつもりはない。
ただ、ミサトたちの共同生活が破綻しつつあることは、リツコにも想像はついていた。
罪悪感もあっただろうが、精神的な余裕があったからこそ、ミサトもアスカを引き取った。
けれど、彼女自身が立ち直りきっていない、踏み出せてもいない現時点では、ただただ煩わしい存在でしかないのだろう。
アスカは敏感な子だ。そんなミサトに気づかないはずもない。
離れていく偽りの家族。本来ならそこにシンジも参加していたはずだ。
彼の記憶の中では、ミサトたちとの暮らしは加持の失踪後どうなっていたのだろうか。
同じか、それとも違っていたのか。
そのことを訊ける相手は、もうどこにもいない。
そういえば、いつか使徒について尋ねた時、シンジは言っていた、戦いの際に弐号機が起動しなかったと。
あれは確かシンジの立場で14番目、リツコたちの数え方では第16使徒との戦いの説明の中だったと思う。
今のアスカの状態がさらに悪化すれば、エヴァが起動しなくなる。
あのシンジの世界でも同じようなことが起きていた、その可能性が高いだろう。
マヤに近づき、彼女のモニターに映るデータに視線を移す。やはりアスカの数値は改善されていない。
おそらくこれ以上続けても、今日のところは電力の無駄遣いにしかならないに違いない。
自分でもわかるのだろう、アスカはプラグの中で俯いてしまっている。
他の誰にも聞こえないように、マヤに囁いた。
「弐号機パイロットの変更、視野に入れないといけないかもしれないわね」
「……」
マヤが一瞬嫌な顔をしたのは気にしないことにした。
不要になったから切り捨てる、その謗りは免れないが、戦闘に耐えない者を戦場に送るよりは人道的とも言える。
いや、それも言い訳だ。
アスカの気持ちなど、リツコは微塵も考えてはいないのだから。
零号機や初号機と違い、弐号機の操縦者は限定されているわけではない。
拘る必要は無い。それはゲンドウも同意見だと思う。
効率を考えれば当然のことだ。
「もういいわ、実験を停止して」
「はい…」
「…各チルドレンはこのあとカウンセリングをします。プラグスーツから着替えた後、私が呼ぶまでしばらく待機させてちょうだい」
「は、はい、わかりました」
アスカの状況を調べ、心理を分析し、原因を究明する。場合によってはアスカをエヴァから降ろすために必要な儀式。
彼女だけを呼べばいいのだろうが、それではかえって反発するだろう。三人そろって残すのはそのためだ。
そう、それだけの理由しかない。
今のシンジと話をすることに、リツコにとって意味などないのだ。
手のひらにかすかに汗をかいているのが自分でもわかる。緊張している、そういうことだろうか。
けれど、それ以上は考えないことにした。あと数十分の後に、どのみち向き合わなければならないのだから。
ミサトが横目で見ていることにも気づいていたが、彼女も結局何も言いはしなかった。
カウンセリングは本部内の少人数用の会議室で行なうことにした。リツコは拒否しなかったが、ミサトは同席していない。リツコにまかせるとの言葉は本気だったのだろう。
リツコ一人で行なう、そうすることにした。もちろんカメラはまわっている。マヤたちがモニターしているはずだ。
レイとの面談は、10分もかからずに終わった。
シンクロ率に大きな変動の無い彼女に、ことさらに尋ねなければならなかったことはない。
レイから見てアスカの様子で気づいたことはないか、そんな質問も考えてみたが、普段から交流している様子のない二人だ、おそらく満足な答えがかえっては来ないと想像できるので止めにした。
体調も特に問題は無いようだし、こちらに質問したいこともないという、冷たく輝く紅い瞳にはほとんど感情が見えない、いつものレイだった。
本来ならもっと早く面談は終わらせられたのかもしれない。だが、リツコの発した一つの質問は無表情なレイにも波紋をなげかけたようだ。
シンジが変わってしまったことをどう思っているのか。
意表をつかれたのか、そう尋ねられた後、レイは長い間黙ってしまっていた。
リツコもただ、彼女が言葉を発するのを待った。
今のシンジになって何週間か、リツコから誰かに彼のことを問い掛けたのははじめてのことだ。
ミサトやゲンドウから持ち出されたことはあるが、ことさらに触れないようにしてきた。
自分でもタブーだったのに、こうしてレイに尋ねる気になったのは、彼女が他の誰とも違い、あのシンジに心を残しているように思えたからだろうか、それとも、彼女が宿す面影ゆえだろうか。
「………」
「………」
「………」
「………」
「………変わったのかどうか、私にはよくわかりません」
「そう…」
シンジがネルフで過ごした記憶をなくしたことは、レイも当然知っている。
以前と変わってはいない、そういう意味なのか、それともよく知らないからわからないという意味なのか。
「……碇君は、元には戻らないのですか?」
顔を上げ、レイがリツコに尋ねる。
やはり感情は込められていないように思える。
「…その可能性もあるわね」
「そうですか」
会話はそこで途切れた。
リツコが想像していたより、ずっと落ち着いている。揺らぎはほとんど見えない。
結局リツコが思っていたほどシンジへの思い入れはなかったということなのか、それはまだよくわからなかった。
あの長い沈黙はそうではないことを示しているような気もする。
次に呼んだアスカが現れたときも、まだリツコはレイのことを引きずっていた。
用意したイスに座ったアスカがひどく不機嫌そうな顔をしていたことも、特に気にはならなかったのはそのせいだ。
「で、何のようなわけ? お説教なら聞きたくないわ」
「私はそんなに暇じゃないわ。 エヴァとの接続には心理的影響が大きいから、直接尋ねた方が早いと思っただけよ。アスカ、分かっているとは思うけど、ここ数回、あなたのシンクロ数値は急落しているわ。その原因に自分で心当たりは無い?」
「……答えがわかってるなら、自分でなんとかしてるわよ」
深い碧色の瞳がリツコを睨みつける。
身を震わせている怒りは、屈辱ゆえだろう。アスカがもっともエヴァのパイロットであることにプライドを持っていたことは、リツコも、いや、全てのネルフ職員が知っていることだ。
幼いころからパイロット候補として英才教育を受け、日本に来てこそシンジという大きな壁が存在していたものの、この世界にたった3人しかいないチルドレンである、そのことはアスカの価値 を特別にしていた。
だが、それが挫折をしようとしている今、彼女はあまりに痛々しく映る。ふてくされ拗ねている姿が、なおさら。
自己実現を求めるアスカの気持ちを、笑える大人などいはしないだろう。
それでも、同情していても始まらない。
「そう。弐号機側の不調という可能性も考慮したけれど、調査の結果はシロだったわ。となるとあなた自身に問題があるということになるけど、考えられる理由はいくつかあるわね」
「…いったいなによ」
「ひとつは、気負いすぎなどから来る精神集中の欠如」
「アタシはちゃんと集中してるわ」
「集中しようとしているのと、集中できているというのは別よ。あなたは本来自然にコンセントレートを高めることができていた。一時的なスランプに陥っているとも考えられるわね」
だが、それならまだ問題は少ない。
ただのスランプならちょっとしたきっかけで元に戻ることもありえるからだ。
「でも、その可能性も低いと思うの。表層的なものではなく、もっと根源的な部分に原因があるように思えるわ。たとえば…そう、たとえば、あなた自身がエヴァに乗ることを忌避しつつあるとか」
「そんな…そんなわけないじゃない」
「そうやって否定しているのはあくまであなたの理性だわ。深層ではエヴァに乗ることそのものを拒否しつつある、エヴァを受け入れられなくなりつつある。いったん上がったシンクロ率が落ちるとはそういうことでもあるのよ」
何か言おうとしてアスカが口を開きかけ、けれど途中でおし黙った。
認めたくないが否定もできない、そんな顔をしている。
「本当はあなたはエヴァに乗りたくないと思っている。だから深層心理ではシンクロそのものを拒否している。そうじゃないかしら」
「……乗りたくないなんて、そんなことないわよ。アタシはずっと昔から、ほんの子供のころからエヴァのパイロットだったんだから。ただ少し調子がわるいだけよ」
「自分すら騙せないウソはつくものじゃないわ、アスカ」
「うるさいのよ! もしそうだったらどうだって言うのよ。アタシをエヴァから降ろすつもり?」
「その選択肢もあるわね」
「アタシは認めないわよ。だって弐号機は動かなくなったわけじゃないんだから。使徒を倒せばそれでいいんでしょ? あんたたちはそれで満足なはずでしょ? シンクロ率なんてたいした問題じゃないじゃない」
「低シンクロの弱いATフィールド、それで使徒が倒せるならね。仮定の話に意味は無いわ」
アスカの言っていることは基本的に正しい。数値が幾らであろうが、結果さえ伴えば誰も文句は言わない。
だが、アスカに保障できるだけの実績はない。兵装ビルや他からの補助などに頼らず彼女自身の力で倒した使徒は、第6使徒のみなのだから。あの時も使徒にとどめをさしたのは艦隊の近距離砲撃だった。
かつてのシンジならともかく。先の使徒戦で敗れたアスカの言葉に、説得力は無い。
リツコの言いたいことがわかったのだろうか、アスカが悔しそうに顔を歪ませた。
けれどその時、何かを思い出したように表情を変えリツコを見た。嘲るような笑みを浮かべて。
「……ねえリツコ、あいつはどうなるのよ。数値が落ちたから問題だっていうなら、サードのほうがよほど落差が激しいじゃない。以前はともかく、今のあいつは腑抜けよ。あの調子で使徒と戦えるとは思えないわね」
「…あなたに他人を気にする余裕があるとも思えないわ」
「なによ。またサードだけ特別扱い? それであいつが喜ぶとも思えないけど。……むしろ逆ね。あれだけひどいめにあわせて、記憶まで失わせて、それでもまだ使いつづけるって言うの、あんたたちは」
「…アスカ」
嘲笑が薄れ、また彼女が怒りに染め直されていく。
だが鋭い視線でリツコを睨みつけるそれは、先ほどとはまた違っているのがわかる。
アスカの体が震えている。感情の昂ぶりゆえだろうか。
「結局ああなった原因はわからないんでしょ? サードのやつがエヴァに取り込まれたのも、その前に初号機が暴走して使徒を喰ったりしてたのも、あんたたちは制御もできなかったんじゃない。そんなことで、そんなことでよく人を戦わせようとするわね、リツコ。無能な自分をさしおいて人のことをよくも責められるもんだわね!!」
「………」
「アタシがエヴァを拒否してる? あたりまえじゃない。あんな得体の知れないものだなんて聞いてなかったわよ。シンクロ率を上げろ? その結果アタシがサードみたいになるはめになったら、あんた責任とれるわけ? あれを見せられて、今の状態で疑問も動揺もなく従えるなんて、感情の無い優等生くらいなもんでしょうよ」
「……嫌なら、降りてもいいのよ」
「それが卑怯だってのよ。あんたたちはアタシがエヴァしかないのを知っててそう言うんでしょ? 降りられるわけ無いじゃない! 今さら、今さらアタシに他に何があるっていうのよ!!」
何も無いなどということはない。彼女はまだ14歳だ、やりなおしはきく。
けれどそんなことを言ってもアスカをさらに怒らせるだけだろう。
リツコを詰るアスカの言葉は、痛いところをついているとは思う。だが、選ぶ権利がこちら側にある以上、不合理でもアスカに甘受できないならそれまでのことだ。リツコにはまともに聞く義務すらない。
しかし、どれだけひどく罵倒されていても不思議と腹は立たなかった。
別にアスカは心配しているわけではないようだが、ここにもシンジが変わったことで動揺をうけている者がいる、そのことに安心したからだろうか。
我ながらさもしいと思った。
ほとんど反応しないリツコを見ていて冷静さを取り戻したのか、アスカが目を逸らし下を向いた。
小さな声で呟く。
「…みんなどうせアタシのことなんか気にしてないくせに。……どうして加持さんは連絡くれないんだろう」
終わりのほうはほとんど無意識でだした言葉のようだ。
彼女自身何を言ったか気づいていまい。リツコもあえて問い返すことはしなかった。
「これからどうしたいの、アスカ」
「………アタシは、エヴァを降りる気は無いわよ」
「そう…それじゃ期待しているわ」
結果を出せ、そう聞こえただろう。我ながら冷たいものいいだと思った。
リツコの突き放すような言葉にもう一度顔を上げアスカがこちらを睨む。しかし何も言わず立ち上がると、そのまま大きな音をさせてドアを閉め、彼女は出て行った。
「…シンジくんを呼んでちょうだい」
『はい、わかりました』
内線電話ごしにマヤが答えた。
アスカが退室してから数分、煙草の吸殻は2本増えている。
ようやく、だろうか。
この時をずっと待ち、そして怖れていたのだ。
何を話せばいいのか、リツコ自身よくわからない。
確かめなければならないことが、話さなければならないことが、まだあるような気がする。
いや、何も話すことなど無い、それを再び認識することが恐かったのではないのか。
膝が小さく震えている。シガレットケースにもう一度手を伸ばそうとしたその時、
ドアからノックの音がした。