Written by かつ丸
おどおどと。
入ってきた彼の様子はそう表現するのが一番適切だろう。
学生ズボンに半そでのカッターシャツ。
全く同じ服装をして、そして全く同じ容姿でも、明らかに違っている。
怯えている。
リツコに、ではなく、大人に呼ばれ、話をしなければならないことに。
中学生なら、無理も無いのかもしれない。
そんなシンジを見ていて、何かが自分の中でしぼんでいくのがわかった。
やはり期待していたのかもしれない。
いや、まだ期待しているのだ。
こちらを向いている彼に気づかれないくらい小さく首を振った。想いを振り払うように。
「そこにおかけなさい」
「は、はい」
机を挟んでシンジが座る。部屋に入ったときからずっと、リツコとまともに目をあわそうとはしない。
だからだろう。落ち着いて彼のことを見ることができた。
もし正面から見つめられていたら、視線をそらしていたのはリツコのほうだったに違いない。
「…あなたと、ちゃんと話をするのはほとんど初めてかもしれないわね。もう、ネルフには慣れた?」
「えっ、は、はい……」
「驚いたでしょう? いきなりこんなことになって」
「はい…、それは、ほんとに驚いたんですが、でも…」
――どうしようもないから。
目を伏せたままのシンジから、そんな呟きが聞こえたような気がした。
そうだ。彼にはここ以外行き場所は無いはずだ。
かつて暮らしていたところに戻りたいといっても、ゲンドウが認めない限り叶えられることはないだろう。
以前ならともかく、S2機関を持ち神にも匹敵する機体となったエヴァ初号機、そのパイロットであるシンジは多くの勢力の興味を惹いているはずだ。安全を図る面からも認められるわけが無い。
病室で目覚めた後、ゲンドウがシンジに話をした。その内容は聞いてはいないが、おそらく彼の口から引導をわたされたのだろう。
ここにいろと言われて、今のシンジが逆らえるようにも見えない。
「今のところ初号機は封印されているから、よほどのことが無い限りあなたが戦闘にでることはないと思うわ。時間をかけて慣れていくことね」
「…戦闘、やっぱり、僕は戦わなくちゃいけないんですか? あのエヴァで」
「ええ、ミサトから聞いているでしょ? あなたはサードチルドレン、エヴァンゲリオン初号機に乗ってレイやアスカと一緒に戦う、それが使命よ」
「使徒…ビデオは見せてもらいましたけど、あんなものが存在するなんて僕には…」
「信じられない? 実際に目の当たりにしていないあなたの気持ちは理解できるけれど、こんな大きな組織が総がかりであなたを騙すわけがないと思わない?」
「それは、そうなんですけど…」
納得がいかないといった顔をしている。
使徒来襲前の常識しかない彼ならばあたりまえのことだろうが、この第三新東京市でシンジに同意する者はもはや一人もいないだろう。
今さらながらにわかった。シンジが何も知らない、ネルフの、いや、この街の誰よりも何も知らないままにこの場所につれて来られているのだと。
「いずれわかるわ、嫌でもね」
「………」
使徒が来れば納得するしかない。
だが、思い返してみればもともとリツコたちは何も知らない彼を戦わせようとしていたはずなのだ。
第3使徒が来たあの日、シンジをエヴァに招聘していたあの日、本当なら今のシンジを戦わせていたのだ。
そして「あのシンジ」は、そんな戦いを乗り越えていたはずなのだ。
目の前の彼は、今からそれを乗り越えなければならない、そういうことだろうか。
残された使徒は3体、訓練する時間もある。負担ははるかに低いが、けれど条件がいいとは思えなかった。
いきなり今来たのならともかく、碇シンジはこの数ヶ月使徒を倒しつづけてきたのだ。
先の戦いでそうだったように、レイでもアスカでもなく彼がエースだった。
だから、やはりみな心のどこかで彼に頼っている。記憶をなくしてもシンクロ率が落ちていても、使徒戦本番になればなんとかしてくれるのではないか、そう考えている。
そのギャップが、シンジを苦しめていくことになりはしないだろうかと、そう思えた。
この少年はまだ自分の置かれた立場を理解しきってはいない。
父に言われたから残り、ミサトに言われるままにエヴァに乗る。なんの目的もなく、ただあてがわれた居場所がそこだった、そんな理由だけで。
そう、もはやかつてとはなにもかもが変わっているのだ。
他人が望むような戦績など、上げられるはずも無い。
手元の端末を操作し、画面にいくつかのグラフを表示させた。
シンジには見えないだろうが、特に不都合は無い。彼は不安そうな顔で、リツコが動かす指を見ている。
「…シンクロ率もだけれど、射撃テストの成績もあまり良くないわね。シミュレーターが使いにくいのかしら? テレビゲームなんかは苦手な方?」
「は、はい、あまりやったことはないです。先生の家には無かったですし」
「そう……そうね、たしかあなたチェロを習ってたんだったかしら。それはその先生って人から?」
「い、いえ、チェロは別の人からです。……そういえば」
「…どうしたの?」
少し、シンジの様子が変わった。
とまどいながらも上目遣いでリツコを見ている。何かを、訴えるように。
「あ、あの…チェロを、弾いてたみたいなんです。記憶が無い間の僕も…」
「ええ、知ってるわよ」
「手入れがちゃんとしてあって、頻繁に使ったあとがありました。あの部屋で、僕の部屋だって言われたあの部屋に全然懐かしさも知ってる感じもなかったんですけど、あのチェロだけは僕の、僕が使ってたものだったから…」
「違和感が無かった、そういうこと?」
少し興奮して喋りすぎた自分に気づいたのだろうか。抑揚の少ないリツコの言葉に、元気をなくして彼はつと目を伏せた。
「…違和感は、ちょっとあったんですけど。いつも自分が使って仕舞ったあととはどこか違う、でもやっぱりそうじゃないような、何かおかしな感じでした。…でも、それでも、あのチェロは僕が使ってたんだってはっきりわかりました。…記憶はないけど、確かに、僕はこの場所にずっといたんだって」
「そう……。それで、弾いてみたの?」
「はい、何か思い出せるかなって思って。……でもだめでした。僕は僕のままで、みんなから聞いたようなことはなにも」
自嘲気味にシンジが小さな笑みを浮かべている。
それはどこか見覚えがある表情だった。
「だから、信じられないんです。僕があの初号機に乗って、使徒とかいうのと戦ってたなんて。…葛城さんたちは言うけど、僕には、僕にはそんなことできるとはとうてい思えない」
「……そんなことはないわよ。封印されてるから正式な起動試験はまだだけど、あなたはちゃんとエヴァとシンクロしてるわ。それは動かせるってことよ」
「でも…数値が低いって…」
「そうね。以前ほどの高さではない、それは事実。だけども起動が可能なレベルには達しているのも事実よ。今のところ気に病む必要は無いわ」
「…気に病んだりはしてないんですけど、でも、本当にいいんですか、僕なんかで。だって、僕には何も出来ないのに、戦うことなんて、ケンカも、殴り合いだってしたことないのに…」
「かつてのあなたにはできたことよ」
無茶なことだと自覚はしていたが、突き放すように言った。
泣き言を言うシンジなど、リツコは見たくもなかった。
「でも、でも、僕は知らないんです。エヴァだって、あんなもの見たことも聞いたこともなかった。それなのにいきなりパイロットだなんて言われて、戦えなんて言われて、そんなの、できるわけないじゃないですか」
「世界を救うため、司令からそう聞かなかった? あなたたちチルドレンの肩には人類の未来がかかってるって。確かに目覚めた時のあなたは知らなかったかもしれない、けれど、今は知っているはずよ。シンクロ実験もして、戦闘訓練もしている。いきなりなんかじゃないわ」
あの時のシンジはいきなり戦い見事な成績をあげた。だから、ネルフの誰もが彼にそれを期待する。
リツコだけは違うが、責める言葉は止まらなかった。
何かをぶつけたかったのかもしれない。同じ容姿とそして魂を持つこの少年に。
「シンジくん、ここでのことを覚えていないのは同情するけれど、あなたが素質を持っていることはもう証明済みなの。過去の戦闘ビデオを見ればわかるように、あなたは間違いなく戦えていた。自信さえ持つことができれば大丈夫なはずよ。きっとシンクロ率もすぐにあがるわ」
「…そんなこと言われても。……世界を救うなんて…、…どうして僕が…」
「あなたが選ばれたからよ。レイやアスカと同じように」
「僕は、僕はただ父さんに会いにここに来ただけなのに…どうして、どうしてこんなことに…どうして……」
シンジが、泣いていた。
何度も同じ言葉を呟きながら。
彼の涙を見るのはこれで何度目だろうか。最初の告白の時、レイを助けた後、そして彼が消えたあの日。
だが今日は、そのどれとも違って見えた。
さっきまでの嫌悪感はすでに消えていた。
これが、本来のシンジなのだろう。
何も知らないことに怯え、恐怖し、涙する、普通の子ども。
世界を滅ぼした重みでも、運命に抗う苦しみや痛みでもない、巻き込まれただけだと、自分は関係無いと、心の底から言える。
無垢な、幸せな涙。
別に責めることではない。今の彼にとってそれは事実なのだ。
彼の立場からすれば、あたりまえの思いなのだ。
「…嫌なら、辞めてもいいのよ」
「……えっ?」
「嫌なら、戦いたくないなら、拒否してもいいのよ、シンジくん」
「で、でも…」
泣いて赤くなった瞳をシンジが向けた。
リツコがそんなことを言うとは予想していなかったのだろうか、驚いた顔をしている。
「あなたは、一度は自分の意志で承諾した、だからまだここにいるのだけれども、そのことについてはいいわ。司令があなたに何を言って、あなたがその時何を決意して残ることにしたのかも、私は知らない。だけど、今、やはりやめるべきだったとそう後悔しているのなら、遠慮することは無いのよ」
「…先生のところに、帰れるってことですか?」
「いえ、それは無理でしょうね。この街から出て暮らすことは、当分の間は認められないはずだから」
「だったら…どうしようもないじゃないですか」
「望まないなら、エヴァに乗らなければいいのよ。もし強制的に乗せられることがあっても、戦わなければいい。そして使徒が襲ってきても逃げればいい。そうすれば、もうあなたをエヴァに乗せようとはしないでしょうね。あなたが本気で拒否すれば、可能だわ」
「そ、そんな無茶な…」
そう、無茶なことだ。
本当に実行すれば、ゲンドウやミサトなどにつるし上げられるのは目に見えている。組織全体を敵にまわすことにもなる。
けれど、できないことではない。シンジにその気があればできる。最終的には強制などできない。
洗脳手術でもすれば別だが、子ども相手にそこまで非情になることはできないはずだ。ネルフが合法組織である以上、おのずと制約はある。
反抗した者に罰を与えることや脅かすことは出来ても、極端に非人道的なことをしていて職員の動揺を招くわけには行かない。
この街から出せないというのは、言うことを聞かないからと放逐することはできないという別の面もある。この街にとどめ置く限り、生活の面倒はネルフが保障することにもなる。
だから、主導権はむしろシンジの側にあるのだ。
嫌ならば、心底辞めたいのならば、辞めればよかった。
あのシンジならば、きっとそうするだろう。彼は必要だから乗っていただけだ。
しかし、今のシンジの怯えた様子からは、そうすることはとうてい無理だということも、リツコにはわかっていた。
彼が悪いわけではない。もともとこれがシンジだったのだ。
あのシンジもかつてはこうやって流されつづけたのだろう。
流されて流されて、結果、世界を滅ぼし、そうしてその罪と引き換えにして初めて逆らうだけの強さを得たのなら、今のシンジがまだひ弱なことは、彼にとっては幸せである証なのかもしれない。
ふと、思った。
これがシンジの望んでいたことではないのかと。
時を遡り、破滅を回避し、全てを無かったことにする。いまわしい自分の記憶さえも消して。
己を苛む罪の意識は、今のシンジにはない。
それはどれだけ安らかなことだろうか。
ユイが拒否したからだと、そう思っていた。
けれどもしかしたら、ユイはシンジの願いを叶えた、そして記憶を消した、そうなのだろうか。
「……まさか、ね」
小さく呟いた。
たとえ彼の望みがそうだったとしても、まだ早すぎる。
破滅は回避などされていないし、なにも終わってはいない。
使徒はまだ残っているし、ゲンドウ達の計画も止まってはいない。
形が変わっただけで、シンジが巻き込まれていることに変わりはない。何の意味も無い。
むしろ状況を悪化させているだけだ。
そこまで無責任になれるなら、最初から罪を気に病んだりはしないだろう。
だから何かを間違えた結果なのだ、これは。
ふたたびシンジに目をやった。
怯えた顔のままだ。
リツコの言葉によけいに不安になったのだろう。
「…それくらいに軽く考えなさいということよ、シンジくん。どうせ初号機は封印中なんだから、今は戦いのことは気にしないで、あまり深刻にならずに自分のいる場所を見つめるといいわ」
「ここを、ですか?」
「ええ、今のあなたによって立つところが無いから不安になっているだけよ。記憶が無くても、あなたは確かにずっとここにいたわ。あなたが知らなくても、みんなはあなたを知っている。確かにここはあなたの居場所だった、今もそう。思い出すことは出来なくても、もう一度見つけることはできるはずよ、きっと」
「あれであの子も少しは楽になればいいわね」
紙コップに入ったコーヒーを飲みながら、ミサトが言った。
リツコも手元の紙コップに口をつける。
シンジが退席してしばらくして、ミサトが持って入ってきたのだ。同席はしなかったが、結局最後までモニターしていたらしい。やはり気になったのだろう。
「ただの気休めよ。実際に使徒を見ればどう反応するかわからないわ」
「本当に逃げ出しちゃいそうね。あの子を戦えるところまで鍛えられるかどうか、少し自信は無いけど」
「それこそあなたの仕事でしょう。ちょっとでも前向きになってもらわないと、このままじゃ無理ね」
メンタルの弱さはどうしようもない。
覚悟が植え付けられていない以上、それもしかたがないことだろう。
「…ねえリツコ、封印、解かれることはあるのかしら」
「零号機と弐号機が健在な限り、ないでしょうね。…逆に言えばシンジくんが出されるときはもう後が無いってことにもなるわね」
「それは…前のような使徒だったらお手上げってわけね」
「そうでもないわ。…また、同じことが起きればいいのよ、あの時と」
初号機の暴走。
覚醒した今なら、それは以前よりも容易に起こりうるのかもしれない。
ユイは、危機におちたシンジを守ろうとするだろう。
ミサトは苦い顔をしている。さすがに愉快な想像ではないようだ。
「カンベンしてよ。全く制御できない兵器なんて、歓迎できるわけ無いじゃない」
「だったら、初号機を出さないような戦い方をすることね」
「…今日のことをうけて、アスカが発奮してくれればいいんだけど」
「そうね……」
生返事だけして、コップの中の黒い液体に目をやった。
エヴァに乗ることの恐怖を初めて認めたアスカ。そのことが彼女の心理にどんな影響を与えるのか、それはまだわからない。
なんとかシンクロ率を回復させる糸口を見つける、それがリツコやミサトにとっての急務だろう。
信頼関係が破綻している今、それはとても困難なのかもしれない。
アスカが心を開いてくれることなど、ありそうには思えないからだ。
加持がいれば、少しは事態も変わるのだろうか。
けれど、そのことは、お互いに口には出せなかった。