Written by かつ丸
キーボードを打っていた手は、ずっと止まっていた。
開いたドアの向こうでは、蒼い髪の少女がこちらを向いて佇んでいる。
「…あの」
「……ああ、ごめんなさい、入ってちょうだい」
幾度か激しく瞬きをして、ようやく我に返った。
長い時間、意識を飛ばしていたらしい。リツコは返事をすることを忘れていた。
気にした様子もなく研究室に入り、レイがドアを閉めた。
もう本部での用事は終わったのだろう、中学校の制服を来ている。カバンを持っていることからすると、帰り際にここに寄ったのかもしれない。
もちろん彼女のロッカールームからここは通り道などでではない。呼びつけたわけでもないし、なにげなしに寄るはずもない、そもそもレイがこの部屋に来るのは初めてなのだ。
だから、リツコに用事があるのだということは、訊くまでもなくわかっている。
「…そこにかけるといいわ」
「失礼します」
いつもの、ミサトやシンジがつかっていたイス、勧めたその場所にレイは躊躇することなく座った。
すぐに済む用件ならば、応じはしないだろう。込み入った話、そういうことなのかもしれない。
心当たりは無い。
戦闘時、もしくは戦闘後、零号機に異状があったのなら、エヴァから降りて直ちに彼女は報告したはずだ。
学校生活や交友関係の問題、そんなものがあるのかどうかはわからないが、もしあってもリツコに相談しにくるとは思えない。
だとすると、体調面のことだろうか。造られた生命体である彼女ゆえに、定期的な健康チェックや身体データの採取は他のチルドレン以上の厳密さで行なわれている。今のところなんの兆候もみられないが、何らかの自覚症状を感じ、責任者であるリツコのもとへ来たのだろうか。
けれど、それも違う気がした。やはり、わざわざこの研究室にくる理由にはならない。
ケイジ付近にはマヤもいたはずだ。彼女に言えばいい。合理性を尊ぶレイの性格を考えると、ムダなことはしまい。
リツコに話したいことがあるから、レイはここに来た。
深く考えるまでも無く、そのことは明白なのだが、どうしても違和感があった。
いや、本当はその理由を考えたくないのかもしれない。
レイとリツコの付き合いは長い。しかしほとんど二人を結び付けているものは無い。
チルドレンと技術部長。
人工生命体とそのメンテナンス責任者。
それ以上のものでは、ほとんどない。そのように、接してきたからだ、リツコが。
精神的な絆を、繋がりを、努めて持たないようにしてきた。
レイが他人に対して無表情なのは、リツコの彼女への態度を鏡のように映したからだと思える。
後悔しているわけではない。こうなることは半ば想像していた。
たとえば親子のように接するには、レイという存在の抱えているものはあまりにも大きいからだ。受け止めようとすれば、リツコ自身が壊れてしまうほどに。
相手は神なのだ、畏れずにいられるわけがない。
己の震えをごまかすためにも、近づきたくは無かった。それが本音だった。
けれど、それは過ちだったのだろう。
レイにも心がある、人ではないかもしれないが、人であるリツコとよく似た心が。
ゲンドウに助けられ、そして彼にだけ態度の変化を見せたレイを見て、リツコはそう思ったのだ。
碇ユイとよく似たその容貌への嫉妬の心と引き換えにして。
いや、嫉妬が生まれていたのはもっと前だった。リツコがゲンドウへの愛を自覚したそのころから、レイの容貌にユイを重ねていた。実のところ憎んでいたのかもしれない、だから余計に避けてきた。
そんな気持ちはレイにも伝わっていたはずだ。
彼女のリツコへの話口調はいつも堅く、敬語を崩すことはない。お互いに事務的に、ただ淡々と必要なことだけを話す、そうやって接してきたのだ。
『碇シンジ』という新たな要素が加わっても、それは変わることはなかった。
シンジに他の人とは違った感情、おそらくは興味に近いものをレイは持っていたはずだ。けれどシンジに一番近しかったリツコに彼のことを尋ねたことはないし、リツコもまたレイの気持ちを知ろうとしたことは、真の意味ではほとんどない。
レイに訊いたことはあったが、それは彼女を通じてシンジの真意を探ろうとしていた、ただそれだけだ。
頼ったり庇ったりする、そんな関係ではない。
だから、おかしいと感じるのだ、呼ばれもしていないのにレイがこの研究室に来たことが。
不安、なのかもしれない。
漠然と、ではなく、はっきりと形を持っている不安。
レイの用件が何か、リツコに何を話にきたのか、自分はわかっている。わからないふりをしているだけ、何の根拠も無くそんなふうに感じた。
こうして対峙して、やはり言葉が出てこないのは、そのせいなのだと。
レイは黙っている。座ってから数分が過ぎたと思うが、何も言わずにリツコを見ている。
話すことを許可されていない、だから話さない、ならば彼女は動揺もしていないのだろう。いつものレイだということだ。
のどが渇く。コーヒーを入れて置けばよかったと、少し後悔した。
だが、そう思うことで気がそれ、ほんのわずかだけれど、肩の力が抜けたのかもしれない。
ようやく、言葉を出すことが出来た。
「…それで、どんな用なのかしら?」
「……」
「レイ?」
口ごもっているのは、気配でわかった。
緊張しているようには見えない。言葉を選んでいる、そんな雰囲気だ。
しばらく何か考えた後、意を決したようにレイは、手に持っていたカバンを引き寄せてふたを開けた。
細く白い手が、紺色の学生カバンから何かを取り出し、そしてそっと、リツコのほうに差し出した。
特に考えもせずに受け取る。半ば無意識で、疑問を持つ暇も無かった。
普通の封筒だ。ほとんど装飾のない洋形の、どこにでもある、特別な店でなくてもコンビニなどで売っている、一般的なものだ。
封はされている。感触で、何枚か中身が入っているのがわかった。
「…これを、私に?」
「はい、赤木博士にと、碇君から預かったものです」
「シンジくんが?」
もしやネルフから逃亡したのか、一瞬そう思った。
ケイジから見ていただけとはいえ、今日初めて使徒戦を経験したシンジが、恐ろしさのあまり逃げたのではないかと。
その時にレイに託した書置きなのではないか、でなければこんなものを持ってくる理由がない。
中を見ようと、机の引出しをあけペーパーナイフを取り出す。
宛名すら書かれていない無地の封筒を開こうとして、その時、かすかな違和感を感じた。
今日送られたものにしては、あまり、新しくない。角がほんの少し丸い。
視線をレイに向ける。
紅い瞳は静かにこちらを見ている。リツコをではなくリツコが持つ封筒を見ている。
「…ねえ、レイ」
「はい」
「シンジくんはこれを渡す時、あなたになんと言っていたの?」
そう、リツコは勘違いをしていたのかもしれない。
今のシンジから預かったと、レイが言ったわけではない。他の可能性があった。
だが、それはありえない選択肢のようにも思えた。
認めたくない、それが本音かもしれない。
しかし、事実は、やはり動かせはしないのだ。
いつもの口調でレイが答える。
小さな、けれど、揺るぎのない声で。
「……槍が使われたら渡してくれと、彼は、そう言っていました」
どれくらい時間がたったのだろう。
封筒を手に半ば放心したまま、リツコは研究室のイスに座っていた。
レイはもういない。この部屋からは出て行っている。
封筒の中身に興味はあったようだが、また呼び出すからとリツコが退室させた。
ことここにいたった経緯について、詳しい話はほとんど訊いてはいない。
シンジについて何かを知っているのか、と尋ねたが、彼女は俯いて無言で首を振っていた。
この封筒は、シンジが初号機に取り込まれたあの日、レイの家に訪ねて来たシンジから預かったのだという。その時に言われたそうだ、地下の巨人に刺さった槍を使徒に対して使った後に、リツコに渡して欲しいと。
今日、彼の言葉が事実になったので、レイはここに持って来た。頼まれた日からカバンにいれて持ち歩いていたそうだ。
中身は読んでいない、シンジがそれを望んでいないのがわかったから、そうレイは言った。
封の様子からみて、それは事実なのだろう。
もちろん、いったん中身を出して別の封筒に入れなおした可能性はあるが、そういう小細工をするほどレイはすれてはいない、だから信じてもいいように思えた。
時計を見る。もう午後6時を回っていた。1時間以上、こうしていたことになる。
自失から抜けきれないまま、振り切るように頭を振り、そして、もう一度封筒を見た。
まだ、開いてはいない。ペーパーカッターは、使われずに机の上に置いたままだ。
畏れている。
けれど、いつまでもこうしているわけにもいかないだろう。
初号機にシンジが取り込まれた日、つまり最後にシンジとリツコが会話を交わしたあの日。
独房から解放されたシンジは、リツコに 呼び出され、しかし、すぐにこの研究室には来なかった。
用事があるからと言って、ここに来たのは夕刻になってからだった。
その時に、レイの元に行っていたのだろうか。
保安部ならば掴んでいるかもしれない。あの日のシンジの足取りなど、疑問に思ったことはなかったから調べてはいなかった。
だが、問題視されていなかったことも想像できる。レイの家周辺は重監視対象だが、害意がないとわかっているネルフの関係者でありしかも司令の息子だ、彼女の部屋まではノーチェックで入れるだろう。長時間すごしたのでもない限り、ゲンドウの元へも報告はいくまい。
シンジがレイに封筒一つ託したことなど、きっと、誰も気づきはしない。
それが、理由だろうか。
今日、この時まで秘密を守るために、盲点ともいえるレイに預けたのだろうか。
カッターを手に取り、ゆっくりと封を開いた。
中には、数枚の便箋が、四つ折で入っている。それだけだ。
淡い色の便箋を指の先で取り出し、封筒を覗き込んだが他には何もない。
用済みの封筒を置き、折られたままの便箋を見る。
枚数は2枚。
何が書かれているのか、それは開けばわかる。
けれど、レイが来るまで予想もしていなかったのだ。心の準備はまだできてはいなかった。
読まなくても分かることはある。
つまり、シンジは、今のこの状態を予想していたのだ、事前に。
帰って来れない、そういう意味だったのかもしれないが、少なくとも、リツコに直接話せない事態が訪れる、そう考えていたからこそ、レイにこれを託したのではないだろうか。
震える手で、ゆっくりと開いた。
プリンターを通したものではなく、黒いペンで書かれた、そして、若干幼さの残る文字が、そこには並んでいる。
”ごめんなさい、リツコさん”
便箋の最初の行には、そう書いてあった。
”ごめんなさい、リツコさん
この手紙をあなたが読んでいるのなら、なによりもまず僕は謝らなければなりません。
ごめんなさい。
助けてもらって、励ましてもらって、なぐさめてもらって、
そして何より、こんな僕の話をいつも聞いてもらっていたのに、
僕はろくに応えることもせずに、あなたの前から消えようとしています。
いえ、今はもう、消えてしまってから何日もたった後でしょう。
それがどのような形になっているか、今の僕には断言は出来ません。
しかしあなたとコンタクトできない状態であることは、間違いないはずです。
僕には、まだ伝えていなかったこと、伝えなくてはならないことがありました。
母さんが目覚めた時にあなたに話すと、約束したことも忘れていません。
こんな形になって、認めてはもらえないかもしれませんが、
その約束を果たしたいと思います。
僕の目的は、世界を壊さないことです。
同じことを前にも言いましたが、気持ちは今も変わっていません。
そのために、一番正しいと思える手段を、必要だと思える手段を、
僕は選ぼうと思いました。
この手紙は、その結果です。
僕がどんな状態になっていようと、それは僕が選んだことです。
他のだれのせいでもないのです。
僕の卑怯が、臆病が、弱さが招いた結果なのです。
僕がどうなっていようと、どうなろうと、それはリツコさんの責任ではありません。
僕の責任です。
ただ、一つだけお願いがあります。
以前も話したように、次の使徒は、零号機が単独で倒しました。
初号機も弐号機も戦えなかったからです。
アスカの操作する弐号機は動かず、僕は、封印を解除された初号機で出撃したものの使徒の攻撃で武器を壊され、ほとんどなにもできませんでした。
いえ、僕はあの時怯えていました。恐くて動けなかった。
零号機を侵食し、そして、初号機を、僕を侵食しようとしてきた使徒に。
もしかしたら、綾波にも。
綾波が僕をかばい零号機ごと自爆するのを、僕はただ見ていただけでした。
なにもせず、なにもしようともせず、傍観していました。
リツコさん、今回も同じことが繰り返されるのを、回避して欲しいのです。
次の使徒はATフィールドを突き破り、エヴァに侵食し、一体化しようとします。
捕えどころのないひもの様な形で、動きが速く、つかんだ場所からも侵食してくるため、通常兵器やエヴァの武器で倒すのは、きっと困難でしょう。
侵食されてしまえば、なすすべもなく乗っ取られるしかない。
また零号機が侵されたならば、やはり綾波は自爆しようとするかもしれません。
そしてまた現れるのです。もう一人の彼女が。
あの後、ネルフ本部の地下でリツコさんが見せてくれた、水槽で泳ぐ数多くの綾波たち。
その中の誰かを、あなたか、父さんが、新たな、けれど今までと同じ綾波レイとして目覚めさせるのでしょう。
しかし、それは間違った選択です。
綾波を死なせないこと、犠牲にしないこと、三人目にしないこと、それがリツコさんにしてほしいことなんです。
世界を滅ぼした僕と彼女の、そしてなにより、熱で崩れた綾波たちの前で泣き伏していた、あなたの運命を変える、そのために。”
字が震えて見える。
手紙を持つ手が震えているからだ。
一つ、二つ、雫が紙を濡らす。
リツコの目から零れている涙のせいだ。
嬉しいからなどでは、もちろんない。
知らないうちにくちびるを強く噛んでいた。口の中に鉄の味が広がっている。
悔しい、そう、悔しいのだ。
シンジがいなくなることを、少なくとも使徒戦で初号機に融合されることを、彼は以前から予想していた。
もしかしたら彼の意思で、そうなるようにしむけたのかもしれない。
手紙の内容はそのことを示唆している。
「…あなた、何を考えてるのよ!」
便箋を破り捨てたい衝動を堪え、文字を睨みつけながらリツコは言った。
今の状況を見越して、最後のメッセージとしてこれを残したというなら、あまりにも無責任だと思う。
彼がダミープラントを知っていたのはわかった。
次の使徒戦がどんなものだったかもわかった。
レイを救えと、そうすることがリツコのためにもなると、それもおそらく真実だろうと思う。
だが、それがなんだというのだ。
彼は何も答えてはいない。
いったい何がしたかったのか。
なぜ消えなければならなかったのか。
どうして世界を破滅から救うことになるのか。
何も答えてはいないのだ。
「…私は、私はこんなの認めない。認めないわよ、シンジくん」
震える手も、流れる涙もそのままにまかせ、リツコは呟いた。
未来のカケラを覗けた喜びなど、どこにもなかった。