見えない明日で

第5章 第9話

Written by かつ丸






 使徒が来る直前まで、リツコはネコを飼っていた。
 そのネコがいなくなったと、祖母から連絡があった。

 リツコが大学に入学した頃から飼っていたネコだ。
 母ナオコが死んでからは、遠くに住む祖母を除き、唯一の家族だった。ちょうどミサトがペンペンと暮らしていたように。

 E計画が進み、ほとんど帰れなくなることを見越して、祖母のいるナオコの田舎に預けた。
 だから、もうずいぶん会っていない。

 どこかで事故にあったのかもしれないと、電話の向こうの祖母は泣いていた。もう十数年生きている、おそらく寿命だろうと思った。
 ならば、どうしようもない。
 屍を晒すことを厭い、黙って消えたというのなら、意志を尊重するしかないのだろう。
 本当は。

 祖母に言っても言葉が素通りしているのがわかる。
 身近で暮らしていた彼女には、納得できるはずもあるまい。
 冷静になだめることができるのは、リツコにまだ実感が湧いていないせいかもしれない。
 それとも、今はそれどころではない、だからかもしれない。


 机の上に一組のネコの置物が置いてある。代わりにと、そう思ってだが、やはり代わりになどなりはしない。
 忙しさにかまけて、実家にいるネコのことはずっと忘れていた。机にあるのは、ただのインテリアでしかなかった。
 今日、この電話がかかってこなければ、思い出すことも無かったはずだ。

 またこちらから電話する、落ち着いたら一度帰るから、そう言って半ば祖母から逃げるように電話を切る。
 全く動揺がない、などということはない。長年家族同然に暮らしていたのだから当然だ。けれど現実感が無い、それも事実だった。
 しばらく帰ることなどないのだから、知らなければ、教えてもらわなければそれでもよかったのに、とは、やはり言ってはいけないのだろう。悲しみを共有してくれることを、祖母はリツコに望んだのだろうから。

 仕事を再開する気にもなれず。なにげ無しに端末を操作する。
 画面が切り替わり、高校の頃の自分の写真が映る。まだ髪を染めていない、制服を着たリツコと白衣姿のナオコと、そしてゲンドウ。彼はまだこのころ30代だったはずだ。
 ユイは映っていない。時期的にちょうど彼女が消える前後の頃だ。ナオコの笑みには屈託が無い、だから消失後なのかもしれない。

 もう一度、端末を操作する。

 画面が、別の画像に切り替わる。
 リツコは映っていない、ただ一人の少年がそこにいるだけだ。
 制服を着た少年が、こちらを向いている。

 何も言わないその画像、碇シンジの写真を、リツコはずっと見ていた。


「……あの子が死んだこと、あなたは知っていたのかしらね?」


 リツコのネコのことなど、きっとシンジは存在すら知らなかったろう。
 話した記憶はないし、もっと関係の希薄だった彼の「前回」では、よけいに伝わるはずも無い。
 
 考えてみれば、リツコはいつもそうだった。自分のことはなにひとつ彼に話さず、そのくせシンジのもつ「情報」だけは欲しがった。お互いに利用している、ただそれだけの関係だと割り切っていた時期も確かにあったはずだ。
 シンジは契約を守った、それだけなのかもしれない。
 だからあの「手紙」も、その続きのつもりなのかもしれない。
 リツコが欲しいのが「情報」だけなら、それは叶えられたのだから。


 あれからレイにはまだ連絡をとっていない。
 彼女が何を知っていて何を知らないのか。シンジがレイにどこまで話しているのか。そのことを知らなければならないとはわかっているが、リツコの気持ちの整理はまだついてはいなかった。

 次の使徒にどう対処するのか、シンジの「手紙」に書かれた彼の願いを受け入れるのか、それとも踏みにじるのか。
 それすらも決まってはいない。

 とりあえず零号機の装備について、マヤにいくつかの指示はだした。
 アスカを呼び出しシンクロテストを行なう段取りもつけている。そろそろリツコも現場へ出向く必要があるだろう。
 ネルフ技術部長として、取るべき手段は限られている。わかっているなら、見過ごしにしてはいけないことがある、そのためにしなければならないことも。
 だがロジックではない感情の部分で、わだかまりは深くうずいている。
 怒りにも似た想いは、しこりのように消えずに残っている。

 利用し、利用されるだけなら、それでもよかったはずなのに。
 シンジの残した言葉に従うことが、起こりうる「未来」を受け入れ対処することが、ただ二人の関係はそれだけだったと、お互いを道具にみなし利害だけで結びついたものだったと、そう結論を出すことと同義になるような気がして、確かに感じていた何かも錯覚に過ぎなかったと認めざるをえなくなるような気がして、踏み出すことができない。
 従うことができない。

 しかし、だからといってどうするというのか。
 なにもせず。
 アスカが壊れるのに任せ。
 レイが死にゆくのを見過ごし。
 そしてシンジがかつて経験したと同じく、補完の名の下に世界を壊そうというのだろうか、ゲンドウが望むとおりに。

 その先にある「未来」では、リツコ自身にも破滅が待っている。
 ただ滅びるだけではない、いきつく前にゲンドウとの決裂が待っている。
 そのことがわかっているのに。

 シンジの手紙で示唆されていたはずだ。
 ダミーシステムを壊す、その意味ははっきりしている。ゲンドウの指示であるはずが無い。
 そんなことを彼が命じるわけが無い。

 決定的な何かが、ゲンドウとの間に修復不可能な亀裂を生む何かが、起こるのだろう。
 他に理由は考えられなかった。

 今までネルフで積み上げてきた地位を、ゲンドウとの関係を、だいなしにしてもやむを得ないと自分に思わせるだけのできごとが起こる、そうに違いあるまい。

 それが何かわからない以上、やはり選びたくはない。レイを救うことがリツコをも救うというシンジの言葉は、きっと真実なのだ。
 意地だけで自分自身の人生を簡単に捨てられるほど、何もかもを割り切れているわけではない。
 
 三叉路に立ちすくみ、だが時は過ぎていく。
 もうしばらく先、もしかしたらほんの数分後にでも使徒が現れたら、選ばなければならないのだ。

 シンジを選ぶか、ゲンドウを選ぶか、かつてリツコはずっと思い悩んでいた。
 そして先延ばしにしたまま、その答えを出すことは最後までできなかった。

 今、形は違っていても、同じ問いかけが突きつけられている。
 
 シンジはリツコにとって道具に過ぎなかったのか、そうではないのか。
 
 リツコを騙し消えてしまった彼を許さず、衝動に身を任せ全てをぶち壊しにする、彼の望みを無視しゲンドウを助ける、それでリツコ自身がどうなろうとも。
 そうすることが、唯一、シンジに報いることではないのだろうか。
 彼が彼の罪を償い、そのために消えたというなら、リツコは彼の願いを踏みにじり、ただ己のこの感情に従おうと。
 ゲンドウのためではなく、シンジを失った、いや、リツコのもとからシンジが去ってしまった絶望を、悲しみを、弔うために。


「…私はそれでもいいのよ、シンジくん」


 画面に写るシンジに向かい小さく微笑む。
 また、涙が流れていた。

 シンジの知る「未来」で、自分がダミーシステムを壊した理由が、リツコにはわかる気がした。
 今と同じように、全てを壊したくなったのだろう。何もかもを。

 涙を拭く。おそらく酷い顔になっているだろう。
 化粧を直してから部下たちが待つ実験室へ向かうことにし、リツコはイスから立ち上がった。







 実験棟に繋がれた赤いエヴァに、プラグがゆっくりと挿入される。
 その様子を、ガラス越しに何人もの技術部員が見つめている。
 どの顔も一様に厳しい。
 先の使徒戦後初の起動実験、あのような形で攻撃を受けた後だ、緊張するのもあたりまえといえるだろう。
 弐号機の内部電源は少なめに設定している。暴走の可能性を見据えている、それが理由だった。 むしろ暴走してくれたほうがマシなのかもしれない。そうなるには、少なくとも起動することが前提になるのだから。


「…大丈夫でしょうか?」


 リツコの傍らでモニターを睨みながら、マヤが小さく呟く。
 低下傾向にあったアスカのシンクロ率がどうなっているのか、チルドレンとして、エヴァのパイロットとして、はたして耐えられるレベルにあるのか、その確認のための実験だ。
 プラグの中のアスカにも、その目的はわかっているだろう。
 最初は実験そのものに難色をしめしていた、体調が悪いからと。それを強制の形で引きずり出したのだ。
 搭乗する前、彼女は無言で、そして蒼ざめた顔をしていた。自信に溢れていた来日直後の面影は、すでにどこにもなかった。
 痛々しさすらある、さほど親しくもないマヤが心配そうにしているのもアスカのそんな様子を見てのことだ。
 もっとも、リツコの心は未だに別のところを見ている。マヤの言葉に、空虚な相槌をうつだけだった。


「どうでしょうね。結局、あの子次第じゃないかしら。これだけは私たちにはどうしようもないもの」

「…それは、そうなんですけど」


 やや不満そうな口ぶりのマヤを無視し、リツコは弐号機の機体を見つめた。
 弐号機は動かない、そのシンジの言葉が事実なら、アスカのシンクロ率は壊滅的な数値を示すはずだ。その直接の原因が前回の使徒戦にあるというなら、シンジはなぜ事前に警告しなかったのだろうか。
 エヴァを動かせない者を、チルドレンとは呼べない。そのことが彼女にとってどんな意味を持つのか、シンジにわからないはずがなかったろうに。


「準備完了しました」

「…それじゃ、開始して」


 リツコの指令とともに、いっせいにモニター上の画面が動き出す。
 灯のともったプラグ内では、レバーを握り締めたアスカが目を閉じてなにか呟いている。
 オペレータが手順どおりに進められる起動への経路を読み上げ、それにあわせて画面に表示されたグラフの数値が変化している。
 いつもの、これまでに何十回と繰り返された起動実験。
 本来ならパターン化されたそれは、実行に緊張感などでるものではなかった。いかに高レベルで行なうことができるか、それが主眼だったはずだ。
 


だが、やはり、といったほうがいいだろうか、今日の結果はいつもとは違っていた。


「…ダメです、シンクロ率一割を切っています」

「…そう、これ以上は無理ね。実験は終了しましょう」


 エヴァ弐号機、起動せず。
 何時間もかけて、数度に渡り繰り返されたが、結論は変わらなかった。


「…原因はわかるの、リツコ」


 いつのまに来たのか、知らないあいだに隣に立っていたミサトが問い掛ける。
 チルドレンの監督は彼女の本来業務だ。実験については事前に通知しているのだから最初から来るべきなのに、重役出勤を決め込んでいる。同居人の一大事にいささか無責任ではないかとは思ったが、張り詰めたミサトの顔には、そういう小言などはさめない険しさがあった。


「ええ、想像はつくわ。きっと心理的なものよ。シンクロを拒否しているからシンクロしない、当然といえば当然よね」

「無意識にってこと? 確かにいろいろあったものね…。回復の見込みはないの?」

「実績はあるから、拒否するのを止めさえすれば、元には戻るでしょうね。きっかけがあればたやすいかもしれない、だけど…」

「そうでなければ、それっきり…か。腰を据えて対処している時間はないものね」

「…新しいチルドレンを選ぶほうが、迅速かつ確実でしょうね。使えるエヴァは2機しかない以上、遊ばせておく余裕はないわ」

「…………」


 ミサトは黙ってしまった。彼女の視線は電源の落とされた弐号機を向いている。
 プラグ内の様子は、画面には映されていない。おそらくマヤあたりの配慮だろう。終了間際、アスカはずっと泣いていたから。
 たとえば使徒に乗っ取られること無く参号機が稼動していたならば、じっくりとカウンセリングをして原因を究明、除去するゆとりもあったかもしれない。
 けれど、今となってはそんな迂遠な手段が許されるはずも無かった。


「取り合えず、司令には報告しておくわ」

「……はあ、アスカに、なんて言えばいいのかしら」

「最終的にドイツに帰すにしても予備としてここに置くにしても、決定するまでは、まだ、何も話す必要は無いと思うわよ。…ただ、目を離さないほうがいいかもしれないわね、あの子も直情径行で、何をしでかすかわからないし、自分の置かれた立場はよくわかっているでしょうから」

「恐いこと言わないでよ」

「だったら、ちゃんとフォローしてあげることね。…あなたの気持ちはわかるけど、自分から保護者になったんだから、責任は果たしなさい」


 今日も含め、ここのところミサトはまともに出勤していない。その原因が加持がいなくなったことにあるとリツコは知っていた。子ども達に関わっている余裕がないと、ミサト自ら弱音を吐いていたこともある。
 けれど、シンジやレイのことならともかく、アスカはミサトの家族だったはずだ。
 確かにリツコも加持から託されはした、だが、今となってはそれこそ余裕が無い。アスカのことを考えるには、他に思い悩むべきことがあまりにも多すぎた。
 少なくとも、使徒来襲時に稼動しないといった最悪の事態は免れることができた。今の状態では、次の戦いにアスカを出撃させることは不可能といえる。
 シンジの知らせてきた「未来」とは、おそらくこれで少し違ったものになるのだろう。どれだけの影響があるかはともかく。
 初号機の封印を解くことになるのか、無理をして弐号機のための新たなチルドレンを選び出すことになるのか、あとはゲンドウの指示を待つしかない。
 その選択は、けれど、リツコには自明に思えた。




「…時間がかかる、そういうことか?」

「はい、第壱中学にいるスペアは、いずれもフォースチルドレンより適応見込みは低いですから。もちろん、今のセカンドチルドレンよりはマシな状態にはなると思われますが」」

「それでは戦力にはならんな」


 冬月の呟きに、ゲンドウも頷いている
 そうだ、ミサトにはああ言ったものの、今の手駒を考えると、現状で新たなパイロットを選ぶくらいならば、アスカの回復を待ったほうがまだ早いという見方もできる。
 それくらい不確実な状態なのだ。
 零号機単独ではあまりにも手薄なことは明白なため、残る手段は一つしかない。


「戦線の維持には、やはり、初号機が必要だと考えます」

「…今のシンジで大丈夫だと思うか?」

「訓練はしています。現状でもレイのフォローはできるはずです」


 ほとんど嘘だ。確証など無い。パニックにでもなれば零号機の足を引っ張るだろう。
 だが、ひとつの試金石ではある。
 レイと初号機、はたしてゲンドウがどちらを優先するのかという。


「………初号機の封印解除については、委員会に申請しておく」


 それが、ゲンドウの言葉だった。
 赤いサングラスの奥で彼の瞳がどう動いていたのか、短い逡巡の間に何を考えていたのか、それはわからない。
 表向きはレイを守っている。だが、実のところはそうでもない。委員会の返事が諾とも否ともわからないのだから。
 今、使徒が現れたならばどうするか、結局のところ、そうなってみなければわからないのかもしれない。
 危険でも零号機だけで対処するのか、禁を破り初号機も出すのか。

 その選択、その答えを、リツコは知りたいと思った。
 ゲンドウが誰を見ているのか、何を待っていたのか、それが顕れるように思えたから。

 そして、シンジから突きつけられたリツコの選択、その道しるべにするのに、ふさわしいことのように感じた。
 ゲンドウがどちらを選ぶかによって、リツコもどうするかを決めようと。
 もちろん、直接の関係は無い。一種の賭けのようなものだ。
 彼はそんなことなど夢にも思いはしないだろう。
 
 けれど、5年間続いた二人の関係に、何かを託してみようと、そう決めた。





 そして、その翌日、使徒は現れた。
 もちろん、委員会からの回答はまだ届いてはいない。アスカも新しいチルドレンも間に合わない。
 迎撃には零号機がただ一機で出動した。
 これから起こることを知る者は、誰もいはしなかった。








 







〜つづく〜












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katu@osaka.104.net



解説


やはり章の9話目はつなぎな話になりがち。
次回で第5章は終わりです。












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